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武川衆 山高別家

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山高別家
 山高親重が一家を創立する
 武川衆山高家の第一二代宮内少輔信直の男親重は、通称を孫兵衛といい、天正二年に生まれた。母は逸見兵庫頭の息女といわれる。
 逸見家の祖はもと甲斐源氏の総領であった。のち総領を武田氏に譲ったが、武田・小笠原とならび称された甲斐源氏中での名門である。
 山高家が逸見家と縁組みしたことから考えても、その家格の高かったことが窺われよう。
 親重は、武田家没落の際は九歳の少年であった。父信直が、武川衆の諸士とともに徳川氏に仕えることになったが、少年の親重は、父の命でしばしば諸方に人質に赴いたことがあり、つぶさに辛酸を嘗めたのであった。
 天正十九年に、陸奥の九戸に一揆が起こり、家康は豊臣秀吉の部下として討伐に向かったので、親重も武川衆の諸士とともに出陣した。
 親重は、この陣中ではじめて家康に謁した。この時が親重の初陣といわれるが、僻遠の奥州の戦場で貴重な体験をしたのであった。
慶長五年八月、石田三成に応じた真田昌幸を討つことを、家康は嫡男秀忠に命じた。秀忠は昌幸の籠城する信州上田城を攻撃した。この攻城戦で、親重は秀忠の将大久保忠隣に属して奮戦したが、昌幸は次男信繁(いわゆる幸村)とともによく守って屈しなかったため、空しく時日を移し、秀忠は九月十五日の関ケ原の戦いに参戦できなかった。
 関ケ原役ののち、家康がふたたび甲斐を領するにおよび、武川衆を旧領武川の地に還任させる方針をとった。この時親重は、親友の成瀬正成に頼み、父と別格に知行を賜わりたい旨を家康に上申した。このことは、父の家を出て別家を創立することを意味する。親重の父信直には男子は親重のほかはないので、信直の跡目は親重の長男信俊を養子として継がせ、別家親重の家は、親重の次男信保に継がせたいというのであ
る。
 家康は、成瀬を介しての親重の願いを許し、親重の長男信俊を祖父信直の養子とし、親重の跡目は次男信保が相続するように命じた。その上で親重には旧領山高村の高三一〇石九斗二升の内、二七五石五斗三升を知行させた。
 親重の父信直は、さきに鉢形領に采地一二〇石余を与えられていたが、この時、加恩七〇石余を与えられ、同時に采地を男余郡のうちに移された上、ここで二〇〇石を知行した。
 こうして山高氏は本、別両家となり、武川衆の軍役は、名字の地山高村に住する親重が負担し、やがて武川十二騎に列するのである。
 
山高親重と信保・信澄
 親重は、山高別家を創立して武川衆に列し、故郷に錦を飾ったのであった。
 関ケ原役ののち、家康は諸大名の賞罰を行い、甲府藩主浅野幸長が、関ケ原の戦いに先立ち、慶長五年八月二十三日に西軍の将織田秀信の守る岐阜城を猛攻してこれを陥れ、ついで瑞竜寺の砦を陥れて敵五百余人を討ち、関ケ原合戦当日は敵陣南宮山を牽制した功績、さらに戦後京都御所を守衛し、京都市内の治安維持に努めた功績等を高く評価し、同年十月、紀伊国において高三七万六五六〇石余を与え、和歌山城に移らせた。
 翌六年二月、家康は甲斐国を直轄地とし、政務処理のために甲府城代を設け、禄高六万三、〇〇〇石の重臣平岩親書をこれに任じた。
 ついで同八年一月、家康は当年三歳の九男五郎太を甲府藩主とし、親吉を城代とした。
 慶長十二年間四月、甲府藩主徳川義利(五郎太政め、のち義直)は尾張国名古屋藩主に転じ、城代平岩親吉も同国犬山城主となった。
 幕府は、甲府城の重要性にかんがみ、奉行小田切茂富・桜井信忠の両人に本丸を守らせ、武川衆・津金衆のうちから一二人を選んで城番を命じた。この一二人を武川十二騎という。
 山高親重も馬場信成・米倉信継・知見寺盛之らとともに武川十二騎に選ばれ、甲府城番として甲府城を警衛し、民政にもあずかった。
 慶長十九年の大坂冬の陣に活躍したが、翌年の夏の陣には京都にいて出陣しなかった。
 元和四年(一六一八)将軍秀忠の三男忠長が甲府に封ぜられると、武川衆はこれに属し、同八年忠長が信州小諸城主を兼ねると、武川衆は小諸城番をも勤めた。同九年秀忠が退いて家光が将軍職につくと、かねてから不仲であった忠長との軋轢が表面化し、寛永八年五月には大逆の汚名のもとに甲府へ蟄居を命ぜられた。遂に翌九年六月には改易となり、
翌十年十二月六日、講地上州高崎で自刃した。
 忠長の家臣らも連坐し、武川衆もすべて禄を失って処士(浪人)となり、郷里に退いて謹慎した。
 山高親重は謹慎一〇年ののち、寛永十九年十二月十日、再出仕の命を蒙り、本領安堵の上、大番勤仕を命ぜられた。大番は書院番とならんで両御番と呼ばれ、旗本のうちで最も名誉とされる将軍家護衛の部隊とされていた。
 親重は大番現役のままで慶安二年(一六四九)八月九日に没した。七十五歳。傑山親英居士と註した。妻は武田家の臣跡部紀伊守景孝の女である。
 親重の嫡男信保は、宗家の信直の養子となった三左衛門信俊の弟である。信保は慶長十一年の生まれで、通称を五郎左衛門といった。
 元和二年、十一歳で将軍秀忠に謁し、同四年父親重とともに甲府藩主徳川忠長に仕えた。
 寛永九年忠長の改易に伴い、処士として山高村に退き、謹慎した。この時の生活について、『寛政重修諸家譜』の信保譜の一節に「かの卿罪かうぶらせ給ひしのち流浪し」と見えているが、これは誇張した表現であろう。というのは、親重・信保父子は禄を取り上げられたとはいえ、山高家には祖先伝来の私領いわゆる名田手作前があったはずであり、それに譜代と呼ばれる家の子郎党の裔がいたと思われるから、塾居・謹慎はともかく、流浪というような事実があったとは信じられない。
 やがて一〇年の歳月は経過し、寛永二十年七月一日に再出仕の恩命があり、将軍家光に謁した。約一年間は非役であつたが、正保元年(一六四四)六月には父と同じく大番に列する栄誉を担い、慶安元年八月の父の死により、同年十二月父の遺跡を継いだのである。
 それより一二年後の万治三年 (一六六〇) には駿河国の富士川・由比川の堤防工事を奉行した。信保は土木技術に長じ、地方巧者としてすぐれた行政的能力をそなえていた。その結果、翌寛文元年五月には石見代官を命ぜられた。石見代官は石見奉行ともいわれ、幕府直営の石見銀山の支配に当たる要職である。
 近世日本の銀の比価は金一両(四匁二五グラム)に対し、銀六〇匁(二二五グラム)で、外国に比べておよそ三倍に近い高値であったから、銀を産出する石見・但馬の銀山は幕府の宝庫に相違なく、代官には清廉の能吏を任用した。これによっても信保の人柄が推察されよう。
 この年、信保がこれまで知行した山高村の采地を、下総国相馬・菖飾両郡のうちにうつされ、甲州とのつながりも絶えてしまった。
 信保は石見国在任中の寛文十年五月二十七日、病んで没した。享年六十五。法名寿石。
❖山高信澄 
信保の遺跡は嫡男信澄が継いだ。信澄は、寛永六年に誕生、正保二年に十七歳で将軍家光に謁して大番入りを命ぜられた。寛文四年正月賄頭に転じ、役料二〇〇俵を与えられた。同十年、職務精励の廉で一三〇俵加増された。
 賄頭というのは、江戸城内の膳所・奥・表それぞれの台所 (調理場)へ、米麦・魚肉・読菜など、いっさいの食料品を供給することをつかさどるもので、若年寄支配下にあった。
 信澄は宝永二年七十七で没した。法名道光。
❖山高氏と高龍寺
 山高氏の初期の菩提所は、府中一蓮寺であったと思われる。高龍寺が開創されたのは、『甲斐国寺記』によれば、「山高越後守源信之天文元壬辰年()建立」とある。『甲斐国志』には、「山高孫兵衛親重ノ開基ナリ」とあるが、これは誤りで親重は中興開基とすべきである。
 信之が開基した当時は高隆寺といい、その旧跡をいま寺窪といっているが、そこは集落から離れた低湿な地で、寺地に適しなかった。
 信之から五代目に当たる親重は、別家を創立して祖先以来の名字の地山高村を采地に与えられたのを機に、慶長十六年に伽藍の敷地にふさわしい地を相し、寺窪にあった高隆寺をそこに移して伽藍を整備し、山梨都下積翠寺村の興国寺第一〇世康山文券和尚を中興開山に講じ、自身は中興開基となったのである。
 親重は高龍寺をたんなる禅寺とするに甘んぜず、禅風挙揚のために雲水修行の法隆寺院にしようと、秀吉・益道南和尚の何には客殿造営の準備をととのえたが、慶安元年、工事着手を前にしながら病死してしまった。
 そこで親垂の嗣子信保は亡父の遺志を遂げようと、客殿の造営につとめ、是鏡和尚の代に当たる慶安三年に落慶を見、江湖僧を置いて修行をさせることになった (江湖僧とは、『甲陽軍鑑』に「学問僧を(中略)洞家にては江湖僧と云い、関山派にては衆寮衆と申され候」とあるように、曹洞宗の
修行僧をいう。)。
 親重の生前の意志は高籠寺を法瞳寺院にするにあった。法隆寺院とは、法幢を立てることのできる寺院ということで、法幢とは、禅寺院で、説法・法論などのあることを示すために立てるのばり(瞳)のことである。法幢を立てるには多年の修行とその実績が長老らに認められることが必要で、武田勝頼が大泉寺に与えた「分国曹洞門法度之追加」の第一条に  
江湖ノ轟侶、嘉声ヲ関東関西二発セズ、アマツサヘ名利
ノ頭首ヲ一向二勤メザル未徹漠ハ、タトヒ知識ノ印証有
ルモ、法幢ヲ建テ児孫ヲ立ツベカラザルノ事
とあり、また「天下曹洞宗法度」の第一条にも、
三十年ノ修行成就ノ人ニアラズシテ、法幢ヲ立ツル事。をきびしく禁じているのが、その証拠である。
 親重が、高龍寺をたんに山高家の菩提所とするのにあきたらず、江湖僧を置き、法憧を立てることのできる、すぐれた内容をもつ禅道場にしたい希望をもっていたことを知った嗣子信保が、亡父の遺志を遂げるように努め、遂にこれを実現したことを知るのである。
 信保は、さらに菩提所高龍寺の経済的安定を確保するため、広大な寺領を寄進した。高龍寺近辺に開墾した田畑合計三一筆、面積一町七反七畝九歩。この分米一〇石であった。
 信保は、慶安四年十月九日に、この間の事情を詳しく記した覚書を高龍寺に贈った。そのあと、信俊の兄で宗家の当主になっている信俊に相談し、兄弟連署の書状を作成し、これを高龍寺の本寺、興因寺に贈った。それは次のようなものである。
  謹んで啓上いたし候、したがつて先祖菩提所山高村高隆
寺、古来本尊これなく御座候。然るところに父親英居士
(親重)近年存じ立ち、寺取り立て申すみぎり、死去い
たされ候。これにより、拙者共、去る秋建立つかまつり、
是教和尚に申し請い、住居し来り候。かの地の文券和尚
を開山に奉じ、興困寺の御末寺につかまつりたく仮の旨、
親英望み置かれ候。しかしながら小地の儀に御座候のあ
いだ、御末寺諸役の義、末代に・いたるまでかの寺を御
免許下され候様に、御約諾つかまつりたき由、かたく申
し置かれ供。か様の旨、御同心においては、向後の証拠
として尊墨を仰ぎたてまつり侯。恐憧謹言。
             山高三左衛門 信俊 (花押)
             山高五郎左衛門信保(花押)
 (慶安四年カ)十一月四日 
  猶なお、右の段自由のいたりに御座候はば、他の儀いら
い続きがたく存ずるところに御座候、遠国について尊顔
を拝せずして件の仕義に御座侯、以上
 
右の山高氏兄弟の連署書状によって、高龍寺の中興ならびに、もと無本寺であったのに、興困寺末になった事情が明らかになる。山高別家は、親重以後においても信保・信澄と人材が輩出し、名門たるに恥じない。
 信保の次男信久が創立した第三の山高家も、有能な人材が輩出し、禄高も五〇〇石に至っている。
 山高氏一族がそろって明治の廃藩置県まで家運を維持できたことはめでたい限りである。

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