素堂と林家それに人見竹洞との交遊
素堂と林家それに人見竹洞との交遊《筆註》・『含英随記』伯毅著。(高木蒼梧氏著『俳句講座』「俳人伝、素堂」所収。「子晋(素堂)之才は擒ふ可らず。葢し林門の三才の随一たるべし」・『素堂傳』蟹守著、(未見)「学才我門に絶すと師の春斎も語られき」...
View Article山口素堂の真実 『連俳睦百韻』
『連俳睦百韻』 和歌に再貫之なし、連歌に宗祇なし、然るに近来たはれうたに古人の芳名を着ることあり。徳を慕ひ侍る故へ願ふ。其の始めは無関門と云ふ。芭蕉柱杖 芭蕉和尚示レ衆ニ云ク 汝有二ラハ柱杖子一 我与二你柱杖子一ヲ 汝ニ無クバ二柱杖子一 我汝ノ奪ハン二柱杖子一...
View Article素堂の孫 山口素安 『毫の秋』〕
『毫の秋』〕執文朝が愛子失にし嘆き我もおなしかなしみの袂を湿すことや、往し年九月十日膏祖父素堂亭に一宴を催しける頃、 よめ菜の中に残る菊といひしは嵐雪か句なり、猶此亡日におなしき思ひをよせて...
View Article山口素堂の真実 来雪庵記
来雪庵記今はむかし、百歳の星霜をふり積りても名はうづもれぬ、素堂翁来雪師といふ人生れながらにして智し。和漢の才ひろく、其の初は忍ぶの岡の麓の蓮他の辺に住みて、濁りに染まぬ心もて、垂乳根に孝行の余力あれば、詩文を愛しみ、大和歌.連歌の奥ふかくたどりて、俳諧を口遊み、菷木々のあるか此の世を悲しみに堪ず、剃髪の姿となりて深川の辺に庵をむすびて、秋の徒然には琴をまさぐり、知音(己)を求むるに近隣に芭蕉翁閉居...
View Article素堂の木像発見!!寿像感得の記 寺町百庵
寿像感得の記人の生霊限りあるが中に、口を開いて笑ふ事一月のうち四五日に過ずとや。古人寸陰を悼み燭をとり、かげをつくのことわりさら也。予、逆旅を家とするの仕へありて、夕に洛下の花にやどりて春眠のたのしさあるに似たれど、旦に難波江が葦聞こぐ舟のゆくゑさへ知る人なきをかこつあるは、渺茫たる東海に魂を消し、嵯峨たる木曽路に断腸の思ひをなす。かく幻に行きかふこと十余年、徒らに東西南北の人とはなりけらし。又今年...
View Article山口素堂関連記事 来雪庵記 法橋能悦恵隆
来雪庵記今はむかし、百歳の星霜をふり積りても名はうづもれぬ、素堂翁来雪師といふ人生れながらにして智し。和漢の才ひろく、其の初は忍ぶの岡の麓の蓮他の辺に住みて、濁りに染まぬ心もて、垂乳根に孝行の余力あれば、詩文を愛しみ、大和歌.連歌の奥ふかくたどりて、俳諧を口遊み、菷木々のあるか此の世を悲しみに堪ず、剃髪の姿となりて深川の辺に庵をむすびて、秋の徒然には琴をまさぐり、知音(己)を求むるに近隣に芭蕉翁閉居...
View Article馬場美濃守公を語る諸文献
馬場美濃守公を語る諸文献 「白州台ケ原田中神社馬場八幡社記」 美濃守信房ノ鎮守ナリ。采地ノ節此社地ノ西ニ居住ス。円中手裁ノ桜同松今朽。信房長篠ノ役自殺ノ遺骸ハ其臣某齎シ来リテ居址或ハ此八幡祠ノ側ニ埋葬セシトソ申伝候。 社地…竪二十四間、横十間(二百四十坪) 『巨摩郡北山筋吉沢村太寧寺由緒書』 再開基 武田信玄之将士馬場美濃守、法号 乾叟自元大居士ニ御座候… …『甲斐 寺記・神社記』...
View Article馬場美濃守信房 下部町常葉馬場家家系由来書
馬場美濃守信房 下部町常葉馬場家家系由来書 其祖ハ清和天皇後裔丹後守忠次ト稱スル者元弘建武の乱ヲ避ケ甲州都留郡朝日馬場村北東ノ億ニ隠住ス。武田氏ニ仕ヘ地名ヲ取リ馬場姓トス。妙圓寺ヲ開基シ黒印五石ヲ寄付シ殿堂ヲ建立ス。清和天皇ヲ祀リ後相州鎌倉八幡 宮ヲ氏神ニ祀リ之始祖也(中略)馬場信房 伊豆守虎貞信虎ノ暴虐ヲ憂ヒ屡直諫ス。信虎容レス。虎貞之カ為メニ遂ニ殺サル。...
View Article馬場信房 自元寺 二十六世大仙秀雄大和尚談
馬場信房 自元寺 二十六世大仙秀雄大和尚談 馬場信房の石塔は始め寺僧の墓と並んでいた。区画整理の都合で馬場祖三郎家に接して建てられた。...
View Article馬場美濃守の末裔と称する人たち(長篠記念館・丸山章氏覚え)
馬場美濃守の末裔と称する人たち(長篠記念館・丸山彭氏覚え) 一、越後国南蒲原郡一ノ木戸 馬場庄右衛門信彦氏(明治 八年当時)一、静岡県追手町六番地 馬場晟山氏(明治十九年当時)一、越後国南蒲原郡一ノ木戸 馬場正吉氏(明治二十三年当時)一、越後国三条一ノ木戸 善性寺住職福田見励氏(明治二十七年当時)一、愛知県 馬場市松氏(明治三十二年当時)一、新潟県三条町一ノ木 馬場正一氏(明治日時不詳...
View Article青木昆陽(あおきこんよう)甘藷先生
青木昆陽(あおきこんよう)甘藷先生洋学家。元禄11年(1698)~明和8年(1769)江戸の生まれ、文蔵と呼ぶ。漢学軍者伊藤東涯にまなび、大岡忠相に知られ、徳川幕府に仕えて書物奉行となった。長崎で洋学の研究に精進し、多くの著述がある。凶年の食料飢饉に備えて、サツマイモの種をとりよせ、試植に成功した。「蕃薯考」を書き、全国的栽培のいとぐちを開いた功績は大きい。世に甘藷(甘藷 かんしょ)先生とよばれた。
View Article饗庭篁村(あいばこうそん)小説家・劇評家
饗庭篁村(あいばこうそん)小説家・劇評家小説家・劇評家 安政2年(1855)~大正11年(1922)江戸下谷のうまれ。名は与三郎。竹の屋主人。質屋勤めの少年時代から文学にしたしみ、高畠藍泉について作家修業。1889年に東京朝日新聞社へ入社して、勤続30年。江戸から明治娘時代の代表的作家となった。劇評にも、すぐれた見識と情味ある肇をふるった。主著に『饗庭篁村集』・『竹の屋劇評集』
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