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素堂と林家それに人見竹洞との交遊

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素堂と林家それに人見竹洞との交遊
《筆註》
・『含英随記』伯毅著。(高木蒼梧氏著『俳句講座』「俳人伝、素堂」所収。
「子晋(素堂)之才は擒ふ可らず。葢し林門の三才の随一たるべし」
・『素堂傳』蟹守著、(未見)
「学才我門に絶すと師の春斎も語られき」
 
素堂と竹洞
素堂の林家への接触はこれまで、『甲斐国志』の記載事項を中心に語られて来たが、『升堂記』はそれを覆す内容である。その内容確認は追求できないが、素堂は晩年まで林家の交流出入りが認められる。(素堂曾良宛書簡)特に幕府儒官人見竹洞との交友は深く、竹洞は何度となく素堂の林家入門を勧めていた。
 このところを「甲斐国志」は「自少小四方之志アリ。屡々江戸ニ往還シテ受 章句於春斎 、亦遊歴京都、学ハ書於持明院家受、和歌於清水谷家、連歌ハ再昌院法印 北村 季吟ヲ師トス」と記してあるが、調査資料からは確認できない。
前述の『升堂記』、それに人見竹洞による素堂周辺の事柄である。竹洞は元禄六年に素堂邸を訪ね、素琴や硯を贈り、更に素堂の母の没年を知る事が出来たのも竹洞の記で、林家に入門することも竹洞との関係は無視できないものである。
竹洞は元禄九年に没する。竹洞詩文集『竹洞全集』に
(元禄六年六月十日)
癸酉季夏初十日与二三君子乗舟泛浅草川入    
川東之小港訪山素堂之隠窟竹径門深荷花池
凉松風繞圃瓜茄満最長広外之趣也
◇素堂
そして素堂はこの年に深川六間堀町続、伊那半十郎代官所跡地四百三拾三坪を購入する。
宝永元年には、家作可能の処置を願い出る。
 
  林春斎
     林鵞峰。元和四年(1618)生、~延宝八年(1680)歿。年六十三。
・幕府儒官。林家第二代、林羅山の第三子。
・寛永十一年(1634/17才)に父に従い江戸にでる。その年に将軍家光に謁する。
・寛永二十年(1643/26才)に寛永系図三百巻を蒐集する。
・寛文元年(1661/44才)法印に叙せらる。
・寛文三年(1663/46才)弘文学士の号を賜る。
・寛文十年(1670/53才)本朝通艦を編する。
・延宝二年(1674)忍岡の聖堂を修し年々祭祀する。
(『大日本人名辭書』・『漢学者傳記及著述集覽』)
 
  林鳳岡
・林信篤。正保元年(1664)生、~享保十七年(1752)歿。年八十九。                         
・鵞峰の第二子。延宝八年(1680)の家を襲ぎ、大蔵卿に任じ法印に叙し、弘文院学士の号を賜ふ。(『大日本人名辭書』・『漢学者傳記及著述集覽』)  
《註》
 新井白石と林鳳岡
宝永六年(1709)六代将軍家宣になると、家宣の儒臣の白石は第一線に立った。しかし前将軍綱吉を補佐した勘定奉行萩原重秀と大学頭の林信篤が未だその地位を保っていた。白石は二人の排斥を目指し、重秀を失脚にの追い込む事に成功した白石は信篤とことごとく衝突する。綱吉の遺体を納める石槨の銘文をめぐって衝突し白石が勝つ。続いて『武家諸法度』の新令公示の文案でも白石が勝つ。優位に立った白石は辞表を提出した信篤辞職却下を家宣に進言し優位感を誇示した。その後白石は朝鮮使節の待遇や尊属殺人にからんでも信篤を圧倒する。しかし  家宣が正徳三年(1713)に没すると、老中達は白石を無視して再び信篤が主導権を握り、家宣の葬儀も信篤が営むことになった。
 
《筆註》
…素堂が林家と接触したのは諸書によると素堂二十才、寛文元年頃とされている。が前出の『升堂記』によれば、素堂が林家の門人として名が見えるのは、元禄六年、素堂五十二才の時である。この年は素堂にとっても儒家の人見竹洞との交友の深さが知れる、素堂亭の訪問がある。
『升堂記』の記載事項を一部危惧する説もあるが、歴史資料に確実に正確を求める事は酷である。                 
またこの年は深川伊那半十郎跡地の購入もあり、その位置は「芭蕉庵」(船番所)を含むか、隣接する土地である。
林春斎が没したのが延宝八年であり、素堂は延宝六年~七年にかけて長崎に旅行している。素堂の致任に関係あると思われ、素堂研究家(故)清水茂夫氏は唐津で詠んだ「二万の里」は主君に対して詠んだ句と云う。林家が春斎から鳳岡に替わったことが、素堂が隠士としての道に進むきっかけとなったのだろうか。
《筆註》
 素堂は元禄七年より甲府代官触頭桜井孫兵衛政能の僚属となる旨が『甲斐国志』に記されているが、これは素堂側の資料に見えないことで、政能と素堂の関係については『甲斐国志』以外の資料はなく、元禄九年の項に詳細を記している。特に後世伝わる「山口霊神」の存在は『甲斐国志』以前の書には見えず創作歴史も匂わせる内容となっている。
 素堂と林家との接触を窺わせるものに、宝永六年(推定)の曾良宛て素堂主人書簡中に見える。(宝永六年の項を参考)
《筆註》 儒家、人見竹洞年譜
(私は最近栃木県足利西場の人見家墓所に行って供養してきた)
▽ 寛永十四年(1637)生、~元禄九年(1696)歿。年五十九才。
京都に生まれる。父賢知(元徳)。人見卜幽軒は叔父。
     正保二年(1645)
九才で家綱の御伽となり三丸に候す。十二月家光に拝謁する。林羅山に学ぶ。
     寛文元年(1661)二十五才。
閏八月に林春斎と同じく謹仕すべきむね仰せを蒙り、剃髪して友元と称す。
この時伝家の医業を改め儒者に列す。侍講し録三百俵を賜る。               
▽寛文四年(1664)
鵞峰の命を受け『本朝通艦』の編集を始める。鵞峰の片腕となって延喜以降を担当執筆した。
▽寛文十年(1670)
三十三才。『続本朝通艦』を編集する。時服三領、白銀百枚を賜る。
▽寛文十二年(1672)
法眼を叙す。
▽延宝元年(1673)
家督を継ぎ七百石を賜る。下野国足利郡西場及び武蔵国足立郡大久保において五百石領す。
それまでの三百石は弟必大が継ぐ。必大は医者として謹仕する。
▽延宝八年(1680)四十三才。
将軍綱吉、林信篤・人見友元と経書を討論する。
     天和二年(1682)
第七回の朝鮮通信使来る。
竹洞は木下順庵とともに日本橋馬喰町の賓館に出入りして、朝鮮学者洪滄浪と親交を結ぶ。
▽天和三年(1683)
『武家諸法度』を著す。時服三領を賜ふ。
▽貞享元年(1684)
諸家及び寺社の朱印の事をつとめしにより、時服三領、白銀二十枚を賜る。
     貞享三年(1686)
『武徳太成記』成る。時服二領、白銀二十枚を賜ふ。(竹洞は『石川丈山年譜』も作成する)
《筆註》
参考
『一話一言』「巻十三」 大田南畝著。
〔三河記-御儒役 人見友元法眼〕項。
『三河記』
改出来ニ付貞享三年十二月十八日時服二ツ銀二拾枚拜領被仰付候。
 右の通り申傳外委敷儀相知不申候以上。
▽元禄六年(1693)
素堂この年、林家の門人となるか。竹洞、素堂邸を訪れる。
▽元禄八年(1695) 
竹洞、素堂の母の急逝を記す。(『竹洞日記』)
▽元禄九年(1696)
一月四日、葛飾牛島の別邸にて卒。年六十才。
 
〔竹洞親族〕
人見卜幽軒     
竹洞の叔父、寛永五年江戸に出てきた光圀に仕え侍講となる。
幕府儒官法眼。寛文十年(1670)歿。
人見必第       
竹洞の弟、寛永十九年(1642)生、~元禄十四年歿(1701)歿。
人見桃源
寛文十年(1670)生、~享保十六年(1731)歿。
人見愁斎       
卜幽軒の姉の子。林鵞峰に学ぶ。寛文八年彰考館に入る。
寛永十五年(1638)生、~元禄九年(1696)歿。
 
〔素堂と竹洞〕
竹洞贈、三潭の硯『通天橋』所収、素堂追善集。
三潭印月硯 釈心越禅師及有一見。竹洞子記。
端石圓而大不満尺
石面如高山聳峙有其中自然淵
濃意味不似異石
所謂為硯海有三孔偶通墨矣
謂與西湖一景三潭印月硯
尚二子於記中詳焉
雲起す硯の潭の秋の風            雁山(黒露)
 一とせ野竹竹洞老人より素琴を送られける趣に
月見前聞たことありいとなき世            露柱
 
《筆註》
儒官人見竹洞と素堂の交遊関係は相当なものであったことが理解できると思われる。素堂の家に訪れた竹洞の目的は何であったのであろうか。『升堂記』に見える林家への入門と関係があったとも考えられる。或いは竹洞自らの後継者として推薦したのであろうか。元禄六年の素堂周辺は慌ただしい年であった。           
林家への入門、伊那判十郎の屋敷跡の購入などである。これらは新たな資料でこれまで明らかでなかった素堂事蹟でもある。
紫桑の隠士無絃の琴を翫しをおもふに、
菊の輪の大ならん事をむさぼり、
造化もうばふに及ばし。
今その菊をまなびて、
をのずからなるを愛すといへ共家に菊ありて琴なし。
かけたるにあらずやとて、
人見竹洞老人、素琴を送られしより、
是を夕にし是を朝にして、
あるは声なきに聴き、
あるは風にしらべあはせて、自ほこりぬ。
うるしせぬ琴や作らぬ菊の友         素堂

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