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素堂素その後 雁山

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雁山

 雁山はこの時期江戸を離れていて所在不明であり、当然この集に参加していない。雁山は享保2年の追善興行の後、翌3年沾徳主催の玉泉軒成九追善集『成九十三回忌』(仮題朝叟編)に参加した。この興行に柳居が椿子として参加している。翌4年には上京して京都紫野に祇空(敬雨)を訪ね、松木淡々とも交わった。雁山は幼少の頃から上京していて素堂の没年の享保元年にも春までは京都に居たことは『通天橋』の記述で判明でき、雁山は以前からしばしば往来していたようである。享保4年には祇空編『阿女』・白鶴編、敬雨序の『花月六百韻』に参加して、享保5年3月、祇空(敬雨)や淡々の後援を得て、京都紫野今宮神社の鎮花祭『やすらい『を編じ、江戸に向かった。この『やすらい』は江戸で刊行されたが、翌7年までの動向は不詳である。享保7年(1722)は潭北の『今の月日』に顔を出すが、素丸(馬光)編の素堂七回忌『その影』には出なかったらしい。江戸での俳諧活動は翌8年が活発になされている。尚『やすらい』の自序に「台隣居雁山」の署名がある。8年の動向は先に示してあるが改めて提示する。

黒露

(雁山)『晋子(其角)十七回忌』淡々主催。『俳諧ふた昔』一漁編。入集。
『ひろ葉』捨翠編。入集。『そのはしら』貞佐編。入集。『月の鶴』湖十編。入集。
『野あかり』雨橘編。入集。『百千万』雁山編。『嵐雪十七回忌集』百里編。入集。

《参考》
馬光

(素丸)『その影』素丸編。『晋子(其角)十七回忌』淡々主催。『俳諧ふた昔』
一漁編。入集。『ひろ葉』捨翠編。入集。『そのはしら』貞佐編。入集。
『秋風七回忌』文露編。入集。『百千万』雁山編。入集。
 さて、この雁山のことを、百庵が『連俳睦百韻』の序文でいう、商家の「ある方へ聟に遣し、其後放蕩不覊にて業産を破り、江戸を退き……」はいつ頃になろうか。

『通天橋』悼文を読むと、雁山は素堂の身辺の世話はしていなかったようである。『摩訶十五夜』では、
世に言伝ふ、恩を仇にて報ニハ、今一個の身の上にセめ来れり。清名をけがす事 あまた度なれど、生涯露ほども腹だち給ふ機をだに不見、吾舅氏ながら実に温(略)


これによると、こうした雁山の行為は素堂の生前中のことであり、素堂は「些かも叱らなかった」というのである。聟先の米

屋の家産を傾けたり、放蕩生活の尻拭いを始め、雁山の行為の全ての責任を素堂が負っていたと思われる。素堂は身持ちの定まらない雁山を猶子として身近に置いて、修業をさせていたのではなかろうか。『通天橋』の記述では雁山は常に素堂の周辺に居たのではなくて、その修業の地を素堂の助言で京都に求め、それは素堂が頻繁に京都を訪れている一因とも考えられる。雁山は素堂没後しばらくして、江戸を離れ行脚にでた。自らの愚かな行為を反省し、素堂の生前の諫めを胸に秘めての自己研鑽の修業の旅立ちであったのではなかろうか。
 享保9年(1724)年の雁山の動向は、長水編の『長水興行百韻』に一座、同10年には貞佐の伊勢参宮外の旅行記念の集『代々訶蚕』に送句、11年5月には沾徳が没し、門人沾州・長水らの追悼集『白字集』に参加し、同12年露月ほか編の『閏の梅』(絵本『ことしの花』)に入集した。この年雷堂百里跋による『とくとくの句合』(素堂著)が刊行された。百里はこの集の跋を草して後5月に没している。この集を編んだ切っ掛けは素堂十三回忌追善であろうと思われる。


 
 
 

13、雁山、黒露となる。

 この辺りの雁山の去就は不明な点が多く、江戸を出て再び現れるまでの十年間、流浪の旅に出るが、元文元年(1736)八月の末に、江戸へ帰って麦阿(長水、後の柳居)の前に現れたのである。そして、麦阿・馬光・雁山改め黒露の三人による『燈下三吟』を催した。その序文を草した麦阿は、

 鳥とりのかつしかあたりに、あいしれる法師の有けるが、十とせばかりさきならん,
 さだかには覚えず。捨の月みむとて、虚をふりすてゝ去しに、そのゝちはいなばのそよりとも、音信をもせず。もし行先に死。もやうせけん、雲水の身のはかなさよと、立出ける日を思ひ出ては、回向をもし侍りしが、ことしの葉月の末ならん、久しき顔をも++++て来たれり。俤はさのみ昔にかはらねと、翠の眉の中に、白き毛一すじ二筋ほのかにみえたるは、殊勝にもいとあはれなり。偖いかがして有けるぞと問ふに、かな山月を望しよりそぞろあるき、神のいざなひにて越路の雪にさまよひ、あるはよのゝ花も聞たり。淀のわたりのほとゝぎすも見たりと、あちらこちらとりまじへての物語に、東++++家の叟も入来りて三吟を催ん。



 

14、雁山、江戸を出る。

 雁山が江戸を出たのは前述のように享保12・3年頃で「業産を破り、江戸を退き、遠国に漂白し」(『連俳睦百韻』)『翁ははじめ郷に在るときは富みかつ賤しからず、一旦没落して部江を去る」(『黒露追善集『留守の琴』安永四年編)のである。雁山は麦阿が『燈下三吟』でいう「姥捨の月見」が目的で江戸を後にした。知友への音信不通であったはずの雁山は享保14年の常陽編『花胆籠』歌仙に風葉(宗端)・素丸(馬光)らと一座している。雁山は、享保15年6月、駿河の宇津山に雁山の墓を建て(村上龍昇氏「山口黒露の研究再考駿河38」)黒露と改名した。改名の要因を推測すると、伯父素堂に対する不義理に悩み、俳号雁山が常に重くのしかかり、素堂の一周忌以後、おのれの進む道模索する中で、ようやく俳諧師として覚悟が定まり、故事に準えて宇津山に俳号雁山への決別の証の墓を建てたと考えられる。その後の黒露の足跡は享保21年(1736)春の宗端の甲斐入りまで不明である。改元して元文元年の八月の末に江戸の麦阿を訪れ、前掲の『燈下三吟』を催したのである。
 黒露の江戸出立つを思い留まらせなかった長水・素丸・風葉(宗端)等は、翌十六年、京都より東下した祇空(敬雨)の応援を得て、芭蕉俳諧の復興の運動「五色墨」を行なって気勢をあげた。一方の百庵は黒露の去った後を埋めるが如く前述のように、其角門の午寂編『太郎河』(享保15年)に登場し、嵐雪・沾徳系の青峨門と親しみ、享保19年4月に「五色墨」に対抗するように『今八百韻』を発表し江戸新風を誇示した。

《参考》『みをつくし』黒露追善集。
………山口黒露は其むかし享保の中頃、雁の山越える秋、甲斐が根にわたり、此地に仮の庵を結びてら不二の詠めに倦ず、烟も立ぬ塩の山、友呼かはす千鳥もなき、さし出の磯の淋しみを喜びて、星霜を重しは誠に風雅の道人也。(略)

《参考》『冷標集』序、鉾杉坊撰
………前略、爰に稲中庵の法師は享保の末、甲斐がねの夕日、富嶺の北むき南ともしろがりて、東都より来たりて遊ぶこと、茲に年ありし也。されや此人あまさかるひなにありは、木地の炉ふちに白梅を感じ、子規に幾代をふかし、萩の路ぢに秋を寂しがり、落ち葉の声を時雨と疑ふ、燈の下にはひとり源語の幽玄を愛し、あるは箏を弾じて雲井のふかきを好み、誠に風流のしれもの、(中略)翁また貧道を頼み、ものし給ふげにや……(後略)

 と記述する。つまり享保の末頃に甲斐に入り、府中に庵を構えたことが分かる。旧知の宗端が甲州入りしたのが享保21年春、そこには府中で稲中庵を結んでいた黒露がいた。
ここで久々の句会を催した。(『甲山紀行』・『燈下三吟』)享保21年改めて元文元年秋、宗端から江戸の消息を知ったのであろうか。黒露は江戸に出て麦阿の居に到って、前述の通り『燈下三吟』を催した。この集には伊勢の乙由の入集が見られる。宝暦10年刊(1760)の『秋の七草』に「麦林舎にまかりて…かく有るしも25年前の古ル事」とある。厳密に25年前とすると元文2年と云うことになるが、『燈下三吟』から見れば甲斐府中に落ち着く前の事と考えられる。さらに厳密にみると『燈下三吟』には、江戸へ行く黒露の送別をする俳友門人等の歌仙や送別吟が含まれている。諾自・魚道・臥雲・吾桐らの顔触れから見ると、『通天橋』以来の甲州俳友らの顔が見え、黒露はすでに甲斐府中に於いて宗匠として定着していたと考えられる。これからすると黒露の麦林舎訪問は享保19年(1734)前後と推察できる。


 
 
 
 
 
 
 
 

15、黒露と駿河

 黒露は駿河にしても、甲斐府中定着以前の享保5年の京都よりの東下時以降に、深い繋がりが出来あがったものである。恐らく駿河の稲中庵は有渡山に近い三保の磯辺に構えたものではないだろうか。これは元文5年(1741)に入ってからのものと推察される。
 元文5年『すゞり沢』紀行の冒頭に、「二月中嶺南の稲中庵を出るとて」、「嶺北の草庵をたつ日、我いなば琴はひとりやすみれ草」、『すゞり沢』付録の「東行脚より武陵にもどりし頃」の中で寥和が「黒露叟は甲斐の国に庵を結び、又ある時はさかしき道を這て駿陽に出、三保を門飾に詠て春を迎へ……(略)」。駿河の門人雁州が「(略)かつしかの故園に遊び、嶺南の居に長途行脚の草鞋をとかゝるは長月の八日の比なるべし。……」


 
 
 
 

16、甲斐の黒露

 甲斐に於ける黒露の住まいは『みをつくし』に『老師久圧煩劇、結廬于府之緑巷」あり、『留守の琴』に「我いなば琴はひとりや菫草 須磨屋 黒露」。甲斐の稲中庵は府中の 緑町 に有った。『みをつくし』の撰集を手がけた久住は「露叟の扉は府の柳町といふにつゞきし 緑町 と申所なり。むかし素堂も此所にしばし仮居せられしとなん」とある。素堂が甲斐に来たのは元禄8年の夏のことである。その折の府中の宿は妻方の親の野田氏宅であり、府中の町外れに泊まる必要はみえない。ここで黒露の江戸再登場以後を年譜風にしてみる。

○元文元年(1736)晩秋。『燈下三吟』麦阿序。黒露・麦阿・馬光三吟。珪琳両吟。
○元文2年(1737)4月~9月『有渡日記』馬光序。10月より甲斐に向かう。
○元文4年(1739)夏刊。『駿河百韻』
○元文5年(1740)『すずり沢紀行』。2月駿河を立って身延を経て甲府へ、江戸か
らきさ潟へ行き、再び江戸に帰着し駿河帰庵まで。
○寛保2年(1742)『酒折百句』未詳。
○寛保3年(1743)『芭蕉林』馬光主催。芭蕉翁五十回忌追善。黒露序。
○延享元年(1744)『老山集』夏刊。宗端との両吟。江戸在住。
○延享2年(1745)『俳諧職人尽集』寥和編。馬光序。
○延享3年(1746)『寝言』江戸在住。
○延享4年(1747)『いつも正月』春刊。江戸在住。
○寛延2年(1749)『俳諧職人尽集後編』寥和編。黒露序。素堂三十三回忌追善(未)
○寛延4年(1751)『つゆ六かせん』大梅編。黒露らの6人の独吟歌仙。
○宝暦2年(1752)『睦百韻』春刊。佐々木来雪編。黒露叙。二世来雪襲名記念集。
○宝暦3年(1753)『こふくべ』9月刊。8月甲駿行脚。8月、黒露は6年ぶりに甲
斐を訪れる。
○宝暦4年(1754)『甲陽廿歌仙』上下二巻。5月~8月まで甲斐俳諧興行。
○宝暦6年(1756)『さいたん』正月刊。
○宝暦7年(1757)『住吉文集』上下二刊。七月刊。
○宝暦8年(1758)『甲斐さいたん』春刊。
○宝暦12年(1762)『壬午旦牒』正月刊。(稲中庵車中)『秋の七草』上中下三巻、
7月刊。黒露喜寿記念集。百庵参加。
○宝暦14年(1764)『申歳旦』
○明和2年(1765)『摩訶十五夜』素堂五十回忌追善集、三十三回忌合併集。百庵序。
『甲相二百韻』刊。
○明和4年(1767)『すねぶり』3月刊。綉葉編。竹阿・二世素丸序。黒露入集。
『田舎集』上下巻。黒露、最後の撰集。

 百庵の『連俳睦百韻』の序文には、従兄弟同士でもある百庵と黒露の交流はほとんど無かったかに見えるが、以外と密接な関係を保っていたように思われる。黒露も百庵も其角・嵐雪・沾徳系の江戸座俳人の周辺にいたわけで、ともに点取り俳諧よりの脱却を目指した。黒露は俳系を問わず交流し、百庵は主に江戸座中心に交流して、素堂や芭蕉を目指して活動してしたのである。


 
 
 
 
 
 
 
 
 

17、百庵の位置

 百庵は蔵前派・葛飾派と交流し友好を保っていたされるが、果たしていかな位置にあったのであろうか。残されている少ない資料から探ってみる。
○元文元年(1736)『毫の秋』愛児一周忌追善集。
 作者は江戸座宗匠を中心に歌舞伎役者まで広く含まれている。先にも述べたようにこの集に寄せた素堂嫡孫山口素安が「二世素堂号を百庵に与えた」とある。これを百庵は「ただちにうけがひぬ」とある。しかし後年の『連俳睦百韻』序では「恐れあれば名乗らず。
此趣は予が撰る『葦の秋』(未見)と云ふ撰集の中に記す」とあり、何か葛藤が有ったようである。
○元文4年(1739)『跡の錦』露月編。宗端・馬光・露邑・珪琳らの歌仙に参加。
○寛保元年(1741)冬、御連歌御連衆を願い「あやまつ事侍て勤所を転ぜられ、時の鼓の高楼を守べきよし」(『林叢余談』)
○寛保2年(1742)寛保二年三月十三日時守の身と成て十五年、歌連俳事繁ければも
らしつ」とある。組頭から時守に降格させられてから歌連俳事に励んだと述べる。
○寛保3年(1743)十月、『ふるすだれ』湖十編。歌仙に一座。
○宝暦6年(1756)買閑の身となる。(小普請入り)6月『心のしおり』栄峨編。
○宝暦7年(1757)『華葉集』(『花葉集』)百庵編著。全五巻。この著の中に偽書とされる素堂著の『松の奥』に関する記載がある。
○宝暦年間(1751~63)『俳家奇人談』(玄々一著、文化13年刊)の越谷吾山の項に「ある時、百庵が吾山の室町の庵に遊女を引き連れ食客となる。時守となりて十五年歌連俳事かるゆえ云々」とある、吾山は江戸室町の庵号を師竹庵と云い、明和元年、江戸馬喰町に移り古馗庵を結び宗匠となった。これからすると百庵が買閑の身となったのは宝暦6年以前のことと思われる。
○宝暦12年(1763)『秋の七草』黒露編。黒露喜寿の賀集。
○明和2年(1765)『摩訶十五夜』黒露編著。素堂五十回忌追善。百庵序。
○明和8年(1771)『梅花林叢漫談』刊行。西行法師の研究。
○安永3年(1774)『林叢余談』(明和九年春正月奥書)。詩歌連歌の論書。中で芭蕉の『奥の細道』の句に触れ、西行の遊行「柳の歌」について画題詠であるのを、芭蕉が現地詠と誤解しての詠であると指摘する。しかも沾徳評の後「今おもうふに(中略)余まだしき頃なれば論に能はず、芭蕉も沾徳も今世にあらば余がよき遊敵ならんと思ふ物を」と豪語している。
○安永8年(1779)『連俳睦百韻』三世素堂編。百庵序。《素堂の家系の箇所》
 抑々素堂の鼻祖を尋るに、その始め、蒲生氏郷の家臣山口勘助良侫(後呼ぶ侫翁)町屋に下る、山口素仙堂太郎兵衛信章、俳名来雪、その後素仙堂の「仙」の字を省き素堂と呼ぶ。その弟に世を譲り、後の多里太郎兵衛、後保井法体して友哲と云う。後桑村三右衛門に売り渡し侘家に及ぶ。その弟三男山口才助訥言林家の門人、尾州摂津侯の儒臣。その子清助素安、兄弟数多くあり、皆な死す。その末子幸之助、侘名片岡氏を続く。
 雁山の親は友哲、家僕を取立て、山口氏を遣し山口太郎右衛門、その子雁山也。後ち浅草蔵前米屋笠原半平子分にして、亀井町小家のある方へ婿に遣し、その後放蕩不覊にて業産を破り、江戸を退き、遠国に漂泊し黒露と改め俳諧を業とし、八十にして終わる。
 蓋、古素堂翁和漢の方士、芭蕉翁に象る叟にあらず。□然此の叟詩歌を弄び茶事を好
む。乱□その余多芸、俳諧の妙手なるといへども、俳諧のみにあらず。門弟子をとらず、誠に絶者なりけらし。

 最後に百庵の事蹟について多少触れておく。その著書には『楓考』・『蕨微考』・『花月弁』・『芭蕉考』などいずれも晩年に近い時期の論書である。和歌は『林叢余談』に見えるが如く、冷泉為久・為村門、茶道は伊佐琢門。先述したが百庵は故実考証や本草学に詳しく、観世流謡の更訂も行ない、歌連俳の考証論者でもある。
 引用すべき書が少なくこの著が必ずしも素堂没後の素堂周辺俳諧人の全てを明らかにしたものではない。甲斐俳人の動向については池原錬昌先生や故人になられた清水茂夫先生の著がある。ただ清水先生は研究論文が多く刊行書は見えないので、多くの人に知られる機会も少ない。先生の論文は『山梨大学研究紀要』に多くは所収されているので是非ご一読下さい。

 
 
 
 
 
 

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