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Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
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素堂の一族

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素堂の一族

 素堂の家譜は『連俳睦百韻』と『甲斐国志』以外には伝わらない。この両書とても不十分な記述であり、他の俳諧系譜の家譜に関する記述は『甲斐国志』をもとにしているものが多く見られ、それに正確さを求めることはできない。また予断ではあるが、『甲斐国志』が独自に記載している『甲斐府中、濁川改浚工事』関与の記事は誤伝で『甲斐国志』編纂者の創作である。どうしてこのような過ちを犯してしまったのであろうか。
 さてこの章の本題である素堂の家譜により一族のことについて述べてみたい。

 江戸期までの系図を見ると、身分のある家や特別の事柄がないと、一般の女性の名は記載されていない。単に「室」「女」「女子」とのみ記されるだけで、武家の系図に見られるように「何々家に嫁す」は良い方で、殆ど記載されることはない。また系譜は過去に遡って記載されるのが殆どであり、代々書き綴られる場合は少ないと思われる。江戸時代初期の寛永18年(1641)、幕府による『寛永諸家系図』の編纂が為されて以降に、贋系図作りが横行し、享保期(1716~35)には最も流行する。これに手を焼いた幕府はたびたび禁令を発したが容易には止まらなかった。幕府は元禄から享保にかけては、妄りに先祖のことを掲載することを禁じた。しかしこの法令を守る者と無視する者や贋作を続行する者などが入り乱れて系譜は混乱する結果となった。

 こうした背景の中で素堂の家譜を見ることにするが、『連俳睦百韻』は安永8年(1779)『甲斐国志』は文化11年(1814)の刊である。素堂の生涯の一部について触れている享保2年(1717)の『通天橋』、享保6年(1721)の『素堂句集』は概念的な素堂事蹟のみの掲載で系譜につながる部分は少ない。

 まず寺町百庵についてであるが、百庵の親は寺町氏で山口素堂の親族である。寺町家は江戸幕府御坊主衆の家柄であり、父については当時の幕府の官職要覧に見える。この辺の系図について細かに見たわけでないが、寺町氏は室町末期に文化面で登場する寺町三左衛門の系譜に繋がると考えられる。素堂の山口氏も摂津の出である。『連俳睦百韻』(前述参照)によれば、蒲生氏郷の譜代の家臣と取れないが、氏郷に仕えた後町屋に下ったとする。この寺町氏と山口氏がどのように結ばれているか解明は及ばないが、百庵は素堂の直系に近い存在と考えられる。年齢的に見れば素堂の孫の部類に属する。

 次に黒露の系譜であるが『連俳睦百韻』によれば、素堂より家督を譲られた弟(友哲)が家僕を取り立て家を継がせた者の子と記してある。江戸期にあっては当主(主人)と嗣子以外の者は、例え兄弟であっても家人の扱いである。でなければ一家を纒とめて継続していくことは困難であった。恐らく素堂と弟の友哲とは腹違いの兄弟であり、黒露は外舅ともあるから、黒露の親は素堂の妻の関係者か、友哲の妹にした者の子と思われる。最も推測出来るのは野田氏との関係で、素堂の正妻野田氏の弟で素堂の妹を嫁にした者との子と考えられる。これは黒露が素堂を伯父と呼んでいる事からも推測できる。

 素堂家譜の系統順位で云うと、一位が句嫡孫山口素安、二位が百庵で三位が黒露となる。しかし、猶子でわる黒露が雁山時代に、相続放棄ともとれる行動が為され(放浪行脚)で嗣子の位置が素安に戻ったか、元々黒露は素堂の俳諧の系統を継ぐだけだったのか、何れにしても一時的に素安が門筋を預かったと考えられる。素安と黒露の関係はかなり複雑であったようである。

《『連俳睦百韻》を参考に作成した素堂家譜
 山口良助……□□□(?)…長男-山口素堂……?
 …次男-友哲(太郎兵衛)……山口黒露
 …三男-山口才助…山口清助素安…幸之助(片岡氏を継ぐ)
 …妹
 …妹

 山口素安は『連俳睦百韻』と『毫の秋』に名が見えるので間違いのないことで、また享保20年までは素堂亭も健在であったことも知ることが出来る。こうした素堂の家系は先述のように『甲斐国志』の記載する甲斐府中山口屋市右衛門の家系とは全く繋がらないもので、従って『甲斐国志』を盲信して山口素堂が甲斐の人物だとする多くの著書は再考を余儀なくされることになる。しかし素安の父儒学者才助にしても林家関係の書物に記載があるのか未見であり、究明は今後の課題である。
 黒露は江戸再登場以来、江戸・甲斐・駿河と三箇所を拠点に往来して俳諧に励み、素堂の後継者の位置を多くの俳人たちに認めさせた。素堂の生き方を求める黒露は点者宗匠には進まず、精錬と修業に徹して他の門派とも広く交流した。一方馬光の率いる葛飾派も前に述べたように黒露を素堂の後継者と一目置いていた。馬光の門人二世素丸(葛飾蕉門三世)は黒露の没後、自派勢力の拡大のために天明4年(1784)春、葛飾蕉門を称して素堂を自派の初祖とし。三世其日庵と号したのである。



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