葛飾派
ではこの葛飾派は黒露とどのような位置関係にいたのであろうか。前出の馬光・二世素丸・竹阿らは理論的に対立するのではなく交流していた。後半の九世錦江が著した『葛飾蕉門文脈系図』と同じく嘉永3年(1850)の『葛飾正統系図』にその記載がある。
《『葛飾正統系図』》
黒露。
宝暦、明和頃、来雪庵素堂といふものあり、連俳睦百韻 そのほか小集にその名見えたり。是また甲陽の人にて素翁の氏族也。黒露に友子の情深し。爰に略す。
《『葛飾蕉門文脈系図』》
黒露。摩訶十五夜・秋七草・連俳睦百韻等を著し、素隠士の墓碑を小石川厳浄院に営ず。按ずるに、黒露は素堂の血縁にあらず。少年より素堂に仕えて座右に教授をうけ、終りに山口氏を冒して素堂の姪と称し、其家具を受くる。是予が先哲に 聞く所、古集に考へて知る処なり。他日其証を記すべし。今爰に略す。
二世素堂。来雪庵、俳祖素堂血縁の姪なり。甲陽山口に住し、没後来雪庵二世素堂を称す。睦百韻の主たり。又葛飾の隠士を称す。宝暦二年門人曾令「ふた夜の影」を撰し、俳祖の追福となす。是が序を書す。曾令は水府の人なり。
この両書は黒露や百庵が没してから、かなりの時間を経ての記述であるから、誤伝や間違いが多分に認められる。殊に黒露が没してからは、二世素丸の活動が活発であった。蕉門系図(上掲二書)によれば、甲斐の黒露門の門人が葛門入りしたと、勝ち誇って書いている。葛門になびかなかった俳人に対しては「葛門を慕うといへども死して又聞こえず」とする。これは九世其日庵を名乗る錦江(馬場氏)が、おのれの父八世秦々事蹟を誇示するためでもある。これは三世素堂(佐々木来雪)の著した天明七年(1787)刊の『奥の細道解』に対する無視するような著述も見逃せない。また小林一茶についての記述「文化年中葛門の法則にもとる事あるを以て白芹より賓発風交を絶す」もその一例である。
兎にも角にも江戸の俳壇でにあって一大勢力の成っていた葛門が、自派を誇示発展するには、その頭領は理論家で無くてはならないといった傾向に有ったようである。葛門をより深く理解するためには、その事実上の祖である馬光の弟子二世素丸以下の歴代頭領の分析をする事が必要と思われる。概して葛門は一般に解説が為されているように、学者タイプの理論派であった。