江戸名所記松平甲斐守、六義園(駒込別墅(べっしょ)の記
江戸名所記松平甲斐守、六義園(駒込別墅(べっしょ)の記松平甲斐守(保泰大和郡山城主)下屋敷駒込にあり。(大和郡山藩第4代藩主。郡山藩柳沢家5代。3代藩主柳沢保光の次男。)...
View Article『甲陽軍鑑』の著者の真実
天野成徳随筆高坂弾正、佐渡国に行て新穂村に住んで、甲陽軍鑑を綴りしに、満尾せずして亡くなる。その時弾正は書簡を遺しおけるを、甲州に達して、弾正が甥春日惣次郎と云う者、渡海して竹田村大運寺に籠居して、軍艦を書き継ぎて終わりて、往年四十歳の三月身失せぬ。その寺の羅漢堂の傍らに墓在り、その後高坂喜平治と云う人、相川に来たり、金銀山を稼ぎ、「高坂間歩」と云う。今相川山の内に「高坂間歩」と呼ぶ所が有ると云う。...
View Article甲府の原始時代
甲府の原始時代『山梨県の地名』「日本歴史地名大系 19」1995刊 平凡社 一部加筆 旧石器時代の遺跡は未確認であるが、昭和59年(1984)相川河床からナウマンゾウ白歯の化石が発見され、八万年以前の後期旧石器時代前半に人々が生活した可能性が指摘されている。...
View Article武田信玄と「啐啄(さいたく)」の文字
武田信玄と「啐啄(さいたく)」の文字<註>『啐啄同機』さいたくどうき雛が孵化(ふか)しようとして、卵からの内側から、すするように嘴(くちばし)で殻壁をつつく。それに応じて親鶏が外側から、卵の殻をつつき、内外相応じて卵殻を破ること。 禅僧が求道中、師家の一喝でさっと悟る境地に譬えたことば。...
View Article武田信玄と喧嘩両成敗の裁断
武田信玄と喧嘩両成敗の裁断甲州の侍に赤口関(あこうぜき)左門と云うものあり、関東牢人にて武田の家風を慕ひ来るものなり。又寺川四郎左衛門と云うは、京方より遥々と甲州の武備を望みて奉公せり。共に屋敷は近し、新参衆なれば、日頃親しく語り合いけるが、何か言葉の間違いけむ、口論募り喧嘩となり、寺川座を立ち、赤口関が胸ぐらを取って、彼の壁へ押付ける、赤口関起き上らんとすれ共、寺川は其の頃四十余にして、血気今盛り...
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