武田信玄の国力充実策
武田氏は甲府に居住する。甲斐は四方山を以て囲まれ、京都には東海道を経れば百九里二十町、東山道を経れば九十八里半を隔て、江戸には甲州道中を経れば三十六里、青梅道中を経(ふ)れば三十四里半、駿河の府中には二十七里、相模の小田原には二十六里、信濃の松本には二十四里三十町を隔つ。此の如く山間の都会にして他と相隔つること遠きを以て駅伝の法もまた能く備具し、府中の町の一部を、地子免許地と称して、租税を免じ、其報酬として住民に駅伝の義務を命じ、加藤八郎左衛門なるものを問屋として、道中駅役を命じ、各町を分ちて定助、大助となし、定助は常に駅伝に従事し、大助は事あるとき、駅伝を助けしむ。定助は二要一十人と蜃白玉十疋を出し、大助は五百三人半を出さしむ。
信玄の制度は、当時の他の領主と同じく、家長政治時代の産物にして、人民の権利なるものを認めずと雖も、人民を保護するの意は、即ち豊かにして、其結果として、津梁の渡し賃、籠担の賃銭までも、皆な公定賃銭にして、府中柳町より中条村に行かんとせば、四里余を隔つるを以て、其賃銭は木馬二百四十七文、軽尻百八十四文、人足百二十四文と定むるが如く、一切の往来賃銭皆な公定せらる。また他の領主は往々にして、其租税を平人より徴収するのみにして、武士と寺院とは、これを免ること多きに係はらず、信玄は之を諸士にも寺院にも賦課したりき。
甲斐国志に
『武田の時より諸役銭の事あり、地頭役、代官役と云うは、知行高の中、五十分の一を公収せり。天正壬午の後、大久保十兵衛等の受請書、面付ケ五分一の積り為地頭役云々とあり、皆十貫文の本高二百文宛なり。凡て知行地の内、寺社等領等にも公納の役銭あり、それを収めて他人知行にも給へる趣、古印書に多く見えたり。
又地頭の俵役と云う事あり、米取りし地より俵数に係りて収むるが、徳役とは内徳徳分など云い、本免に入らざる社田より出づ。恩地に新恩重恩の別あり。恩役を勤める。自分知行所の外に持ち添えたる公田を云ふか。棟別銭、家別棟数に係る役銭なり。諸士知行よりも、高に公約せし趣き、免許の印書、所在に多し。諸国表の役にて北条家の印書にも見えたり』
と云う。信玄の兵力の割合に巨大なりし所以と、信玄の部下の割合に質素倹約なりし所以とは、実に此の如く諸武士にも悪税を課したるの一点にありとする。(日本経済史)