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甲府市の古代

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甲府市の古代
『山梨県の地名』「日本歴史地名大系 191995刊 平凡社 一部加筆
 
 「古事記」「日本書紀」には日本武尊(ヤマトタケル)が東征の帰途甲斐国酒折宮(場所には他説あり)に立寄り、火焼の老人と歌の問答を交わしたという説話がみえ、「古事記」にはその老人を東国造に任じたとある。これは甲斐国が早い時期にヤマト政権の支配下に置かれた状況を物語る伝説として受けとめられている。
律令制下の市域は、ほぼ中央を境に山梨・巨麻の両郡に所属していた。東部は「和名抄」山梨郡一〇郷のうち和戸を通称とする表門郷に属し、横根何の大坪遺跡からは「甲斐国山梨郡表門」と刻書した一〇世紀の土師器が出土している。西部は「和名抄」巨麻郡九郷のうち青沼郷に属した。正倉院宝物の天平勝宝四年(七五二)四月九日の奈良東大寺大仏開眼供養の際に用いられた伎楽面の袋の裏裂として使用された調絁には「巨麻郡青沼郷物部高嶋」などと墨書され、奈良時代には青沼郷に物部連の部民の子孫が居住したことが明らかである。郷域の東端部に位置する朝気遺跡では、古墳時代から平安時代の集落跡が発掘されており、豊富な遺物に加えて水田跡や護岸工事の痕跡などが発見され、青沼郷を形成する有力な集落の一つと考えられている。
 なお、安和二年(九六九)七月八日の法勝院領目録(仁和寺文書)にみえる巨麻郡九条四市河里に着目し、巨麻郡市川郷を市南西部から現昭和・田富町に及ぶ一帯に比定する説が近年有力となっている。同目録の分析から巨麻郡の条里の原点は一条小山とよばれた甲府城跡辺りに、九条三宮原里は宮原町一帯に比定されている。また同目録に示される市河庄は甲斐国における庄園名の初見で、巨麻郡を中心に八代・山梨両郡に及ぶ広範な地域に散在していた。目録の田地はすべて条里坪付で記載されており、甲府盆地への条里地割施行の証左となっている。
「中右記」保延三年(一一三七)四月一目条に関白藤原忠通への寄進が記録される鎌田庄は市南部から昭和・玉穂両町にかけての一帯が庄域と推定されている。一二世紀前半に常陸国から配流された源義清・清光父子が土着し、甲斐源氏発展の拠点となったのは市河庄であった(尊卑分脈)。この庄園の中心地域を開発し、摂関家に寄進して鎌田庄を成立させたのを義清とする説も提起されている。
その子清光は馬の産地である八ヶ岳南麓の逸見に移り、逸見光長・武田信義・加賀美遠光・安田義定など多くの男子を国内の要地に分封して、甲斐源氏発展の礎を築いた。武田信義からは市域に本拠をもつ一条・板垣・飯田・塩部・小松の各氏が派出している。
 古代の仏教文化の発展を示す遺跡として、市域では国分寺などの瓦を焼いた川田瓦窯跡や上土器遺跡が知られるほか、桜井畑遺跡からは九世紀代の小規模寺院跡も発掘された。神社は「延書式」神名帳に山梨郡は九社、巨麻郡は五社を記すが、前者では「甲斐奈神社」「黒戸奈神社」「金桜神社」「玉諸神社」「大井俣神社」、後者では「宇波刀神社」「笠屋神社」が市域に存在した可能性が指摘されている。山岳信仰も活発に行われたようで、秩父山地の主峰金峰山の山頂には平安時代の灰粕陶器や土馬、経典の埋納に用いた容器などの遺物が散布している。上積翠寺町の一の森山項にも経塚が造営された。

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