$ 0 0 天野成徳随筆高坂弾正、佐渡国に行て新穂村に住んで、甲陽軍鑑を綴りしに、満尾せずして亡くなる。その時弾正は書簡を遺しおけるを、甲州に達して、弾正が甥春日惣次郎と云う者、渡海して竹田村大運寺に籠居して、軍艦を書き継ぎて終わりて、往年四十歳の三月身失せぬ。その寺の羅漢堂の傍らに墓在り、その後高坂喜平治と云う人、相川に来たり、金銀山を稼ぎ、「高坂間歩」と云う。今相川山の内に「高坂間歩」と呼ぶ所が有ると云う。武田武将 春日弾正忠 附「甲陽軍鑑」は佐渡で書かれた。