武田信玄と喧嘩両成敗の裁断
甲州の侍に赤口関(あこうぜき)左門と云うものあり、関東牢人にて武田の家風を慕ひ来るものなり。又寺川四郎左衛門と云うは、京方より遥々と甲州の武備を望みて奉公せり。共に屋敷は近し、新参衆なれば、日頃親しく語り合いけるが、何か言葉の間違いけむ、口論募り喧嘩となり、寺川座を立ち、赤口関が胸ぐらを取って、彼の壁へ押付ける、赤口関起き上らんとすれ共、寺川は其の頃四十余にして、血気今盛りなり、赤口関は齢観て五十六七歳、血気大に衰弱せり、然れ共、勇気猶衰えず、倒れながら両足を屈めて、寺川が脾腹息袋と覚しき処を、荒らかに踏みければ、寺川覚えず手を放ちて、三間ばかり跡へしさり、色を変じ気を取失う。
此のこと世上の風聞になり、終に晴信の耳に入り、晴信此の年廿七歳、其の座に有合う者を呼合せ、双方の仕方を聞召し、両方ともに少しも脇差心なし、武士が暫く取組合う内に、脇差心なきは、一向の童子や町人の仕るいさかひと云う物なり、侍が侍に出会いて、胸板を取るほどにて押付けおくは如何に、押付け置きて、人に取りさらへられむと云う意あればなり、これは寺川が無念なり、赤口関も押付けられて、足を屈めて践む程の猶予ありながら、脇差心なきは、是れも寺川に胸を押へ付けられたるを左程耻(はじ)と思はず、取り宥(なだ)むる人あらば、其の意に従って、宥めらるべく思えば也。何の為に脇差をは差しつるぞや、此の二人何の役にも立つまじきものぞ、耳鼻そぎて、雁坂を越せよと下知せられ、其の六月、五十七箇条の法度を定められ、其の第十七箇条に
喧嘩之事、不レ及是非一可レ加二成敗一但雖二取懸一於下令二堪忍之輩上考不レ可レ処二罪科一
(けんかのこと ぜひにおよばず せいばいをくはふべし たゞしとうかゝるといへども かんにんせしむのやからにおいては ざいくわはしょすべからす)云々と載せらる。
此れ後世、喧嘩両成敗と云うことの淵源なりと云えり。(続武将感状記)