馬場美濃守信房はどうして信春や四天王と称されたか?
<検証記事> 山梨日日新聞の記事(20083月29日付け) 勘助の築城技術を受け継ぎ功績 武田四天王の一人に数えられる馬場信春は、春日虎綱と志もに、その出旨が異例であることで知られる。 信春は、もと「教来石民部」といい、甲信国境の教来石郷を支配した豪族の出身で、この地域一帯を警固する武川衆の一員であった。...
View Article馬場美濃守信房公の生涯
馬場美濃守信房公の生涯享禄四年(一五三一)四月、武田信虎、国人層の叛将今井、栗原、飯富らとこれを援けた信州の諏訪頼満、小笠原長時の軍と、塩川河原部(韮崎市)で決戦しこれを破る。諏訪衆三〇〇人、国人衆五〇〇人討死し、栗原兵庫も斬られた。この戦いにおいて板垣駿河守信形、馬場伊豆守虎貞とともに出陣した教来石景政(信房公)は、十七歳にして殊勲の功をなした。それ以来駿河出兵、信州佐久攻略などに参加し、出陣のた...
View Article山梨県 下部町の馬場氏
下部町常葉馬場家家系由来書其祖ハ清和天皇後裔丹後守忠次ト稱スル者元弘建武の乱ヲ避ケ甲州都留郡朝日馬場村北東ノ億ニ隠住ス。武田氏ニ仕ヘ地名ヲ取リ馬場姓トス。妙圓寺ヲ開基シ黒印五石ヲ寄付シ殿堂ヲ建立ス。清和天皇ヲ祀リ後相州鎌倉八幡宮ヲ氏神ニ祀リ之始祖也(中略)信房伊豆守虎貞信虎ノ暴虐ヲ憂ヒ直諫ス。信虎容レス。虎貞之カ為メニ遂ニ殺サル。馬場系血是ニ於テ手絶エントス而時常葉次郎ナル者馬場家ヲ継グ。馬場美濃守...
View Article【徳川忠長と武川衆の動向】 石見銀山代官支配 山高信俊
【徳川忠長と武川衆の動向】 石見銀山代官支配 山高信俊 (『山梨県の地名』日本歴史地名大系19平凡社一部加筆) 石見代官支配...
View Article芭蕉の甲斐訪問の諸文献の紹介
芭蕉の甲斐訪問の諸文献の紹介……芭蕉の甲斐落ち……引用資料『俳聖芭蕉』 野田要吉先生(野田別天楼) 昭和十九年発行 天和時代の芭蕉 《前文略》...
View Article芭蕉の谷村流寓と高山糜塒 『都留市史』通史編5節
芭蕉の谷村流寓と高山糜塒芭蕉庵類焼と谷村への流寓『都留市史』通史編5節「人々の教養と遊芸」による*一部加筆* 天和二年(1682)十二月二十八日、江戸駒込の大円寺から出火した火事は、本郷、下谷、神田、日本橋、浅草、本所、深川まで類焼し、江戸の七分どおりを灰燼と化した。俗にいう八百屋お七で名を残した大火である。...
View Article松尾芭蕉 甲斐入り 史実の見えない大虫説
高木蒼悟氏は、伊藤松宇(Wikipedia)氏(古俳書の回収家として松宇文庫がある)が在世中(昭和十八年没)松宇氏所蔵の大虫(池永氏 ダイチュウ...
View Article鵡川衆の謎 鵡川衆の武士名
武川衆下之郷起請文(長野県上田市 生島足島神社) 永禄10年 丁卯(1567)8月7日 六河衆(武川衆)の馬場信盈らが六郎次郎(武田信豊)を介し、武田信玄に起請文を捧げる。〔懸紙〕(ゥハ書)「 青木 山寺 柳沢 六河衆丁卯 八月七日六郎次郎殿」(武田信豊)馬場小太郎信盈 (花押) (血判有り)青木与兵衛尉信秀(花押) (血判有り)山寺源三昌吉 (花押)宮脇清三種友 (花押)...
View Article小笠原牧は北杜市明野町ではない
小笠原牧は甲斐にあったが、それは現在の山梨県南アルプス市(旧櫛形町)小笠原(現在の小笠原小学校)付近である。 小笠原家は名門で、旧櫛形町の隣、旧甲西町秋山出身の秋山氏とともに早くから朝廷にに勤め活躍、源氏と平家時代には平家に属したこともあった。この地域には歴史で誤られた数多くの牧場があり、それはやがて南部氏により東北の名馬に移り変わっていく。...
View Article『文昭公記』 柳沢吉保
『文昭公記』 柳沢吉保 『文昭公記』(徳川六代将軍家宣) 「柳沢吉保公一代記」(仮称) 一部加筆宝永六年六月三日、甲府の城主松平美濃守吉保隠居する、子吉里継ぐ(十五万千二百八十八石、二男経隆、三男時睦に、各一万石の地を分ける)。...
View Article甲斐関係の木簡
…奈良文化財研究所の「木簡デ-タベ-ス」によれば、甲斐関係の木簡として次の物を挙 げている。 ●本文……………………………………………………………形式番号 出展 □「甲斐国」山梨郡……………………………………039……平城宮1-14 「甲斐国」山梨郡雑役胡桃子-天平寶宇六年十月………031……木研1-56頁 「甲斐」山梨郡雑役胡桃子-天平寶宇六年十月…………031……平城宮1-20...
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