小笠原牧は甲斐にあったが、それは現在の山梨県南アルプス市(旧櫛形町)小笠原(現在の小笠原小学校)付近である。
小笠原家は名門で、旧櫛形町の隣、旧甲西町秋山出身の秋山氏とともに早くから朝廷にに勤め活躍、源氏と平家時代には平家に属したこともあった。この地域には歴史で誤られた数多くの牧場があり、それはやがて南部氏により東北の名馬に移り変わっていく。
それを現在の歴史学者諸氏が無理して、真衣野牧・柏前牧・穂坂牧を強引に韮崎市と北杜市内に決定した結果、その後の歴史展開が史実が伴わないものになり、「小笠原牧」のような間違った解釈をする考古研究者が現れてしまう。
<和歌の世界と歴史>
和歌を正面に据えて歴史を展開することは出来ない。歌に読み込まれた地名や名称を鵜呑みにするとんでもない歴史展開となる。
このことは甲斐の地誌「甲斐国志」や「甲斐名勝誌」それに「裏見寒話」さえも詠み間違いをしている。
甲斐の御牧を論じるときに和歌を中心にすることはできない。あくまでも参考資料として取り扱うべきである。甲斐の御牧の存在は中央の歴史書の記録から窺い知ることができるが、御牧の所在地を限定することは無理で、これは甲斐に限ったことでなく、信濃の望月の牧以外は後世の地名比定が先んじ不確かである。
都に居て甲斐などに来たことのない宮廷官人たちの歌に振り回されて、そこに詠まれた歌地名を根拠に論を展開することは空しい作業である。また詠まれた年次も明確でなく更に混乱する。
小笠原地名と小笠原御牧
小笠原地名も櫛形町と明野村に在り現在でも何方が本家か決着がついていない。地域の拓け方それに古墳や甲斐源氏の発祥及び後の牧場の存在地それに小笠原氏の存在からみても小笠原地名及び小笠原牧は櫛形町小笠原が発祥であり、所在地である。
明野村の小笠原は小笠原氏族が知行した時から始まるとした方が自然である。
もし櫛形町小笠原地名が先んじていれば和歌に詠まれた小笠原牧も再考を要することとなる。
明野村には小笠原の他にも「辺見」の地名がある。
歴史資料の乏しい時代に、紀貫之が最初に和歌に詠んだ。その中の地名が明野村にもあるからして、
「をかさわらへみ御牧」
の所在が明野村中心に在ったとの結論は早急で、「思い込み歴史」の典型である。
それは文献資料に表れる以前のことで穂坂牧、真衣野牧、柏前牧も資料に表れ軌道にのりはじめて間もない年次に詠まれたものであり、紀貫之の詠んだ年次はその後の治績から晩年ではなく、『西宮記』などに記載された年次より数十年以前に遡る可能性が大きい。
不思議なことに駒牽の行事は八月に行なわれ真っ先に行なわれるのは通年八月七日の真衣野・柏前である。一年間待った駒牽行事の始まりである。その真衣野・柏前牧を詠んだ歌は皆無である。
隣の長野県望月の牧はもっとも長い期間駒牽行事に貢馬していた。歌の詠まれた件数も他を圧倒するが、次に詠まれたのは穂坂牧であり、小笠原牧である。
山城の近都牧、美豆の御牧と「三つの御牧」の混同も資料研究の浅さから来たもので、それは甲斐国志以来の甲斐の地誌にあらわれている。
さて甲斐の小笠原や穂坂はたくさん歌が詠まれている。
『日本書紀歌謡』
ぬばたまの甲斐の黒駒鞍着せば命死なまし甲斐の黒駒
『日本書紀』
小笠原、逸見牧
駒 引 紀貫之 貫之-貞観十年(868)~天慶八年(945)
都まてなつけてひくはをかさ原へみの御牧の駒にや有らん
『紀貫之集』 『類従群集』第三巻第二百四十七
逸見の御牧(六帖夫木集云家集題駒牽甲斐或伊豆)
みやこまてなつけてひくは小笠原へみの御牧駒にや有らん
『夫木集』【成立-延慶三年(1310)。
正慶元年(1332)までに補訂】
顕仲朝臣
小笠原へみのみまきのはなれ駒いとゝ気色そ春はあれます
『堀川院百首和歌』春 『類集群従』巻第百六十
堀川天皇-承暦三年(1079)~嘉承二年(1107)
春 駒 俊成卿
小笠はらやけのゝ薄つのくめはすゝろにまかふかひの黒駒
『俊成卿五社百首』
『類集群従』巻第百七十六文治六年(1190)
春 駒 仲 實
小笠原すくろにやくる下草になつますあるゝ鶴のふちのこま
『堀川院百首和歌』春 『類集群従』巻第百六十七
題しらす 僧都覚雅
もえ出る草葉のみかは小笠原駒のけしきも春めきにけり
『詞花和歌集』 【成立-兼輔撰。仁平元年(1151)奉覧】
甲斐の黒駒
八月相坂の国の関に駒むかふる人あり
むさしのゝ駒迎にや関山かひよりこへてけさをきつらん
『源順集』 『類従群集』巻第二百四十九
源順(したがう)-延喜十一年(911)~永観元年(983)
信濃路のかたへ里馬引たかへたるを
さもこそは其名もしらね信濃ちょ引たかへたるかひの黒駒
『明日香井和歌集』 『類従群集』巻第二百四十二
藤原雅経家集 【成立-永仁二年(1209)完成】
春 駒
小笠はらやけのゝ薄つのくめはすゝろにまかふかひの黒駒
『俊成卿五社百首』 文治六年
『類集群従』巻第百七十六 俊成-永久二年(1114)~元久元年(1204)
駒 迎
相坂の関の杉村木くらきにまきれやすらんかひの黒駒
『夫木集』
春 駒
小笠原すくろにやくる下草になつまつあるゝ鶴のふちのこま
『堀川院百首和歌』 『類従群集』巻第百六十七
秋
あふ坂の杉間もりくる月ゆへにおふちに見ゆるかひの黒駒
『正治二年院御百首』
題しらず 不知読人
とし毎にかひの黒駒ひきつれてのりていさむる春日野の原
『南都名所記』
日本名所千句 宗祇法師
浜松の里は下葉に埋もれてしはしひかふるくろ駒のやま
『宗祇法師連歌百韻』
宗祇-応永二十八年(1421)~文亀二年(1502)
題しらず 不知読人
わかゞへる道の黒駒あらばきみは来すともおのれいなゝけ
『拾遺集』 【成立-寛弘三年(1006)頃】
引かへてなつけむ駒の綱たえにいかゝのかひの人はみるへき
『相模集』 相模-生没不詳、康平四年(1061)頃没か。
甲斐の国河口といふ所にとまりて曙ふかく御坂を
こえて甲府につくその道に黒駒といふ所あり
細川玄旨
ときのとき出へきさいをまつ一首あへてふるまふかひの黒駒
『東国陣道記』 七月十六日の項
駒 迎
相坂の関路にけふや秋の田の穂坂のこまをつむつむとひく
『夫木集』 (「つむつむ」が「むつむつ」の書もあり)
関の戸に尾花葦毛のみゆる哉穂坂の駒を引にやあるらん
『夫木集』 藤原長家 『新葉集』
秋の田のほさかの駒を引つれてをさまれる代のかひもありけり
長家-寛弘二年(1005)~康平七年(1064)
駒 迎 隆源法師
関の戸におなしあしけのみゆる哉ほさかの駒をひくにや有らん
『夫木集』 隆源法師-生没不詳。活躍年(1086~1100)
駒 迎
関の戸に尾花葦毛のみゆる哉穂坂の駒を引にやあるらん
『堀川院御時百首和歌』 堀河院-堀河天皇。
承暦三年(1079)~嘉承二年(1107)
橋本社に讀て奉り侍し秋十五首の歌
花すゝきほさかの駒やまかふらん玉しく庭の月の光に
『藤原光經集』 『類集群従』巻第二百五十九
【完成-藤原顕輔著。仁平元年(1151)初度本】
光経-生没不詳。
所収和歌-建保六年(1218)~嘉禄二年(1226)
駒 迎
しろたへになひく眞袖や花薄ほさかのこまにあふ坂の山
『明日香井和歌集』
藤原雅有撰。 藤原雅経家集 【成立-永仁二年(1209)完成】
雅経-嘉応二年(1170)~承久三年(1221)
穂坂小野 入道大納言
時来ぬと民もにきはふ秋の田の穂坂の駒をけふそ引ける
『年中行事歌合』
ほさかのをの(甲斐春駒を)権中納言師俊卿
春くさの保坂をのゝはなれ駒秋は宮こへひかんとすらん
『夫木集』
ほさかのをの 前中納言匡房卿(大江氏)
はなすゝきほさかのこまにあらね共人おちやすきをみなへし哉
『夫木集』
匡房(まさふさ)-長久二年(1041)~天永二年(1111)
ほさかのをの 衣笠大納言
打なひき秋はきにけりはなすゝきほさかの駒をいまやひくらん
『夫木集』
穂坂小野 隆源法師
関の戸におなしあしけのみゆる哉ほさかの駒をひくにや有らん
『夫木集』
新名所歌合 荒木田長言
春深き御牧の小野の朝茅原に松原こめてかゝる藤浪
『伊勢名勝志』
伊勢宮内黙蔵著
日本名所千句 宗祇法師 『宗祇法師連歌百韻』
ほのかなる穂坂の小野の月更けて秋風のなる山梨の岡
美豆御牧 よみ人しらす
小笠原みつのみまきにあるゝ駒もとれはそ馴るこらが袖かも
『六帖集』
小笠原へみのみまきにあるゝ駒もとれはそなつくなりきてそとる
『夫木集』
ここまで読めば「小笠原」の地名など歌人に弄ばれた地名であることは間違いなく。
牧場跡と称する古代遺跡など、「小笠原牧」とする遺物や遺稿は皆無であり、従って大きな誤り「山梨の歴史誤伝」と断定する。
小笠原家は名門で、旧櫛形町の隣、旧甲西町秋山出身の秋山氏とともに早くから朝廷にに勤め活躍、源氏と平家時代には平家に属したこともあった。この地域には歴史で誤られた数多くの牧場があり、それはやがて南部氏により東北の名馬に移り変わっていく。
それを現在の歴史学者諸氏が無理して、真衣野牧・柏前牧・穂坂牧を強引に韮崎市と北杜市内に決定した結果、その後の歴史展開が史実が伴わないものになり、「小笠原牧」のような間違った解釈をする考古研究者が現れてしまう。
<和歌の世界と歴史>
和歌を正面に据えて歴史を展開することは出来ない。歌に読み込まれた地名や名称を鵜呑みにするとんでもない歴史展開となる。
このことは甲斐の地誌「甲斐国志」や「甲斐名勝誌」それに「裏見寒話」さえも詠み間違いをしている。
甲斐の御牧を論じるときに和歌を中心にすることはできない。あくまでも参考資料として取り扱うべきである。甲斐の御牧の存在は中央の歴史書の記録から窺い知ることができるが、御牧の所在地を限定することは無理で、これは甲斐に限ったことでなく、信濃の望月の牧以外は後世の地名比定が先んじ不確かである。
都に居て甲斐などに来たことのない宮廷官人たちの歌に振り回されて、そこに詠まれた歌地名を根拠に論を展開することは空しい作業である。また詠まれた年次も明確でなく更に混乱する。
小笠原地名と小笠原御牧
小笠原地名も櫛形町と明野村に在り現在でも何方が本家か決着がついていない。地域の拓け方それに古墳や甲斐源氏の発祥及び後の牧場の存在地それに小笠原氏の存在からみても小笠原地名及び小笠原牧は櫛形町小笠原が発祥であり、所在地である。
明野村の小笠原は小笠原氏族が知行した時から始まるとした方が自然である。
もし櫛形町小笠原地名が先んじていれば和歌に詠まれた小笠原牧も再考を要することとなる。
明野村には小笠原の他にも「辺見」の地名がある。
歴史資料の乏しい時代に、紀貫之が最初に和歌に詠んだ。その中の地名が明野村にもあるからして、
「をかさわらへみ御牧」
の所在が明野村中心に在ったとの結論は早急で、「思い込み歴史」の典型である。
それは文献資料に表れる以前のことで穂坂牧、真衣野牧、柏前牧も資料に表れ軌道にのりはじめて間もない年次に詠まれたものであり、紀貫之の詠んだ年次はその後の治績から晩年ではなく、『西宮記』などに記載された年次より数十年以前に遡る可能性が大きい。
不思議なことに駒牽の行事は八月に行なわれ真っ先に行なわれるのは通年八月七日の真衣野・柏前である。一年間待った駒牽行事の始まりである。その真衣野・柏前牧を詠んだ歌は皆無である。
隣の長野県望月の牧はもっとも長い期間駒牽行事に貢馬していた。歌の詠まれた件数も他を圧倒するが、次に詠まれたのは穂坂牧であり、小笠原牧である。
山城の近都牧、美豆の御牧と「三つの御牧」の混同も資料研究の浅さから来たもので、それは甲斐国志以来の甲斐の地誌にあらわれている。
さて甲斐の小笠原や穂坂はたくさん歌が詠まれている。
『日本書紀歌謡』
ぬばたまの甲斐の黒駒鞍着せば命死なまし甲斐の黒駒
『日本書紀』
小笠原、逸見牧
駒 引 紀貫之 貫之-貞観十年(868)~天慶八年(945)
都まてなつけてひくはをかさ原へみの御牧の駒にや有らん
『紀貫之集』 『類従群集』第三巻第二百四十七
逸見の御牧(六帖夫木集云家集題駒牽甲斐或伊豆)
みやこまてなつけてひくは小笠原へみの御牧駒にや有らん
『夫木集』【成立-延慶三年(1310)。
正慶元年(1332)までに補訂】
顕仲朝臣
小笠原へみのみまきのはなれ駒いとゝ気色そ春はあれます
『堀川院百首和歌』春 『類集群従』巻第百六十
堀川天皇-承暦三年(1079)~嘉承二年(1107)
春 駒 俊成卿
小笠はらやけのゝ薄つのくめはすゝろにまかふかひの黒駒
『俊成卿五社百首』
『類集群従』巻第百七十六文治六年(1190)
春 駒 仲 實
小笠原すくろにやくる下草になつますあるゝ鶴のふちのこま
『堀川院百首和歌』春 『類集群従』巻第百六十七
題しらす 僧都覚雅
もえ出る草葉のみかは小笠原駒のけしきも春めきにけり
『詞花和歌集』 【成立-兼輔撰。仁平元年(1151)奉覧】
甲斐の黒駒
八月相坂の国の関に駒むかふる人あり
むさしのゝ駒迎にや関山かひよりこへてけさをきつらん
『源順集』 『類従群集』巻第二百四十九
源順(したがう)-延喜十一年(911)~永観元年(983)
信濃路のかたへ里馬引たかへたるを
さもこそは其名もしらね信濃ちょ引たかへたるかひの黒駒
『明日香井和歌集』 『類従群集』巻第二百四十二
藤原雅経家集 【成立-永仁二年(1209)完成】
春 駒
小笠はらやけのゝ薄つのくめはすゝろにまかふかひの黒駒
『俊成卿五社百首』 文治六年
『類集群従』巻第百七十六 俊成-永久二年(1114)~元久元年(1204)
駒 迎
相坂の関の杉村木くらきにまきれやすらんかひの黒駒
『夫木集』
春 駒
小笠原すくろにやくる下草になつまつあるゝ鶴のふちのこま
『堀川院百首和歌』 『類従群集』巻第百六十七
秋
あふ坂の杉間もりくる月ゆへにおふちに見ゆるかひの黒駒
『正治二年院御百首』
題しらず 不知読人
とし毎にかひの黒駒ひきつれてのりていさむる春日野の原
『南都名所記』
日本名所千句 宗祇法師
浜松の里は下葉に埋もれてしはしひかふるくろ駒のやま
『宗祇法師連歌百韻』
宗祇-応永二十八年(1421)~文亀二年(1502)
題しらず 不知読人
わかゞへる道の黒駒あらばきみは来すともおのれいなゝけ
『拾遺集』 【成立-寛弘三年(1006)頃】
引かへてなつけむ駒の綱たえにいかゝのかひの人はみるへき
『相模集』 相模-生没不詳、康平四年(1061)頃没か。
甲斐の国河口といふ所にとまりて曙ふかく御坂を
こえて甲府につくその道に黒駒といふ所あり
細川玄旨
ときのとき出へきさいをまつ一首あへてふるまふかひの黒駒
『東国陣道記』 七月十六日の項
駒 迎
相坂の関路にけふや秋の田の穂坂のこまをつむつむとひく
『夫木集』 (「つむつむ」が「むつむつ」の書もあり)
関の戸に尾花葦毛のみゆる哉穂坂の駒を引にやあるらん
『夫木集』 藤原長家 『新葉集』
秋の田のほさかの駒を引つれてをさまれる代のかひもありけり
長家-寛弘二年(1005)~康平七年(1064)
駒 迎 隆源法師
関の戸におなしあしけのみゆる哉ほさかの駒をひくにや有らん
『夫木集』 隆源法師-生没不詳。活躍年(1086~1100)
駒 迎
関の戸に尾花葦毛のみゆる哉穂坂の駒を引にやあるらん
『堀川院御時百首和歌』 堀河院-堀河天皇。
承暦三年(1079)~嘉承二年(1107)
橋本社に讀て奉り侍し秋十五首の歌
花すゝきほさかの駒やまかふらん玉しく庭の月の光に
『藤原光經集』 『類集群従』巻第二百五十九
【完成-藤原顕輔著。仁平元年(1151)初度本】
光経-生没不詳。
所収和歌-建保六年(1218)~嘉禄二年(1226)
駒 迎
しろたへになひく眞袖や花薄ほさかのこまにあふ坂の山
『明日香井和歌集』
藤原雅有撰。 藤原雅経家集 【成立-永仁二年(1209)完成】
雅経-嘉応二年(1170)~承久三年(1221)
穂坂小野 入道大納言
時来ぬと民もにきはふ秋の田の穂坂の駒をけふそ引ける
『年中行事歌合』
ほさかのをの(甲斐春駒を)権中納言師俊卿
春くさの保坂をのゝはなれ駒秋は宮こへひかんとすらん
『夫木集』
ほさかのをの 前中納言匡房卿(大江氏)
はなすゝきほさかのこまにあらね共人おちやすきをみなへし哉
『夫木集』
匡房(まさふさ)-長久二年(1041)~天永二年(1111)
ほさかのをの 衣笠大納言
打なひき秋はきにけりはなすゝきほさかの駒をいまやひくらん
『夫木集』
穂坂小野 隆源法師
関の戸におなしあしけのみゆる哉ほさかの駒をひくにや有らん
『夫木集』
新名所歌合 荒木田長言
春深き御牧の小野の朝茅原に松原こめてかゝる藤浪
『伊勢名勝志』
伊勢宮内黙蔵著
日本名所千句 宗祇法師 『宗祇法師連歌百韻』
ほのかなる穂坂の小野の月更けて秋風のなる山梨の岡
美豆御牧 よみ人しらす
小笠原みつのみまきにあるゝ駒もとれはそ馴るこらが袖かも
『六帖集』
小笠原へみのみまきにあるゝ駒もとれはそなつくなりきてそとる
『夫木集』
ここまで読めば「小笠原」の地名など歌人に弄ばれた地名であることは間違いなく。
牧場跡と称する古代遺跡など、「小笠原牧」とする遺物や遺稿は皆無であり、従って大きな誤り「山梨の歴史誤伝」と断定する。