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芭蕉の谷村流寓と高山糜塒 『都留市史』通史編5節

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芭蕉の谷村流寓と高山糜塒
芭蕉庵類焼と谷村への流寓
『都留市史』通史編5節「人々の教養と遊芸」による*一部加筆*
 
 天和二年(1682)十二月二十八日、江戸駒込の大円寺から出火した火事は、本郷、下谷、神田、日本橋、浅草、本所、深川まで類焼し、江戸の七分どおりを灰燼と化した。俗にいう八百屋お七で名を残した大火である。
 火はついに江東に及んで、深川の芭蕉庵も急火にかこまれ、芭蕉は潮に浸って危うく難をまぬがれたという。
 この時の状況を宝井其角は「枯尾華」の芭蕉翁終焉記の中で次のように述べている。
天和三年(正しくは二年)の冬、瀕川の草庵急火にかこまれ、潮にひたり苫をかづきて、煙のうちに生きのびけん、是ぞ玉の緒のはかなき初め也。爰に猶如火宅の変を悟り、無所住の心を発して、其次の年、夏の半に甲斐が根にくらして、富士の雪のみつれなければと、昔の跡に立帰りおはしければ、人々うれしくて、白豚の旧草に庵をむすび、しばしも心とどまる(ながめ)もとてかぶの芭蕉を植えたり。」
この時、焼け出された芭蕉を谷村の自宅に引き取り、五ヶ月の間世話をしたのが、当時谷村城主秋元喬朝(喬知)の国家老高山傅右衛門繁文(俳名、糜塒)であった。
 芭蕉が甲州郡内に流寓したことは「枯尾花」をはじめ諸書に伝えられているが、甲州へどうした関係から行ったか、また、いかに生活したかについては、これを確かに語るものがなく、要するにいずれも「説」というべきものに過ぎなかった。
 これまでの谷村流寓説の研究とその疑問点については、樋口功氏が『芭蕉研究』の中で次のように誌されている。
「甲州で誰を頼ったかに就いては、『隋斉諧話』や湖中の『芭蕉伝』等には、佛頂和尚の下僕で、日に一丁字は無かったが、得悟が甚だ優れて、六祖と渾名されていた五兵衛という者を、同門の練りで甲州の山棲に訪ねたのであるとある。是等は他に徴すべき材料が無いので、確かとも謂い兼ねるが、亦疑うべき理由も無いようである。初狩村に杉風の姉がいたので、其所を頼ったのであろうともいう。是もありそうな事であるが確かかどうか。又此の旅行の途中の吟とて『馬ぼくぼく我を絵に見る夏野哉』が伝はっている。是を立句として、脇は滝の句で糜塒(高山氏)一晶との三吟歌仙がある。又『胡草垣穂に木瓜も無家かな』の糜塒の発句に「笠面白や卯の実むら雨」の一晶の脇で、芭蕉との三吟歌仙もあるが、後者の句意から察すると、糜塒が一晶及び芭蕉を我が家に宿しての挨拶の句らしい。そこで慶埼は当時甲州の住人であったとすると、事実がよく練通するのであるが、又疑問もある。『真澄鏡』に、糜塒の子某の語として
「亡父幻世(糜塒、晩年の号)懇(芭蕉と)にて、甲州郡内谷村へも度々参られ、三十日或は五十日逗留す。又ある時は一晶など同道す」
とある語気から察すると、当時糜塒が此の谷村に居たものとしか想はれぬが、又同書に芭蕉の真蹟を掲げて「上野国館林高山氏蔵」と記した処から見ると、少なくとも子某の代には館林に家のあった事だけは判る。すると其の父の糜塒を甲州住と一寸考えられなくなる。けれども右の文は、芭蕉が甲州へ行く序でも、館林の高山氏宅に立寄った意味とはどうしても取れぬようであるが如何であるか。或は当時糜塒が甲州に居住していたのではないかと想うが、固より確かでない。』と考究されている。
 文中の谷村での吟と言われる歌仙については後記するとして、この『真澄鏡』は、安政六年(1859)に守轍白亥(ハクガイ)が出版したもので、その中に糜塒の男が軸箱の裏に書いた文言の写しと、芭蕉や杉風が糜塒に送った書簡その他のものが誌されている。
 軸箱の裏書というのは、次の文言である。
 
『○傅右衛門子息の認しもの也、今用なきに似たれど、いさゝか証とすべき事のあれば此処に出す。
俳諧の宗匠芭蕉桃青翁は、伊賀の国上野の士なり(中略)亡父幻世懇にて、甲州郡内谷村へも度々参られ、二十日或は五十日逗留す。又ある時は一晶など同道す。但し鯉屋手代伊兵衛は桃青翁の甥なり、幻世世話して小普請手代になし、松村吉左衛門と名乗、本郷春木町に住す、其終る処をしらず。
  • 高山傅右衛門繁文俳名廉珊、後に幻世と改む。」
 
 右の内○印の条は、著者白亥の記したものであり、軸箱裏書のほか、所収の尺牘(セキトク 文字を書きつけた短い木の札)に『上野国館林高山氏蔵する処の真蹟なり』と附記してある。編者白亥が親切心で記したものである。
 高山慶埼のことについては、昭和初期頃の一外、鳳二共編の『新選俳諧年表』に「高山氏、名繁文、豚傅右衛門、幻世と号す、芭蕉門ヽ甲州人、上州館林住」とあるのみで、廉珊の身分、職業等もわからず、また、館林の住人か、谷村の住人であったのか芭蕉研究家を大いに惑わしたのである。
 
 高木蒼悟氏は、伊藤松宇(Wikipedia)氏(古俳書の回収家として松宇文庫がある)が在世中(昭和十八年没)松宇氏所蔵の大虫(池永氏 ダイチュウ 明治三年没)の稿本「芭蕉年譜稿本」に糜塒のことがあり、したがって芭蕉の甲州流寓のことが明らかになることの示唆をうけて研究を始め、昭和二十三年頃から雑誌「小太刀」に発表し、芭蕉と糜塒の関係を明らかにしている。
『芭蕉翁年譜稿本』には、江戸を焼け出された芭蕉が、甲州谷村に半年ほど流寓したのは、誰を頼ったかわからなかったのに、佛頂会下の六祖王平を頼ったという旧説を打破して、谷村藩家老高山傅右衛門繁文(慶埼)を頼ったこと、また、芭蕉参禅の師佛頂の伝記も誌し、天和三年の条の冒頭に、当時の芭蕉と糜塒の関係を次のように記述している。
「世は元旦も元旦の心ならず、焚址の煙だにおさまらざる中なりけり、翁は浜島氏におはして、歳旦の吟だもおもひよせ玉はず、おりおり訪らう門子親友に対話し玉うばかりなり。爰に又秋元家の臣たる彼高山糜塒は、佛頂禅師会下のちなみといい、俳諧に師弟の因といい、ひとかたならぬ情ありて、翁焼庵の時もいちはやく此寓居を訪らい申し、其恙きをよろこびけり。さるに此頃帰国すべき事となりければ、翁に其よしを申て、焚後の乱雑なるを見玉はむより、しばらく甲斐の山中に遊び玉はんは如何おはすべき、事に物に不自由なるは山家のつねなれども、還閑寂の幽趣もありて、此粉々をわすれ玉はむ、幸い帰国の日も近づけば、御供申候はんとすすめけるに、翁大に喜びて、主浜島氏にも其事をかたり、糜塒の勧めにしたがひ玉ふ。
 此事を杉風にも物語るに、幸なるかな姉甲斐の国郡内初雁村に稼してあり、秋元の城下谷村にはほど遠からねば、折々は其許へもおはして滞留したまへとぞ申ける。かくて約束の日にもなりければ、翁は糜塒に伴はれて甲斐の谷村へ趣き玉ふ。此高山慶埼は谷村の重臣にして、其居宅も広やかに、男女多く仕ひければ、ねんごろに翁をもてなし、官事のひまには禅を対話し、又俳を研究して倦む事なければ、翁もしたしく導き玉へり。糜塒が別荘を桃林軒と号せり。翁はつねに其別荘を寓居と定め、心のままに城外にも逍蓬し玉ふ。ある時庸埓に伴はれて山川のほとりに漫遊し玉ふに句あり。
  いきほひあり氷消ては滝津魚     芭蕉
此魚は俗にヤマメといふ、魚のわざを見玉ひての作なりとぞ。
 又初狩村もほど近ければ、彼杉風が姉の嫁したる許を訪らひ玉ふに、かねてより翁の徳は承りたる事にあれば、 懇ろにもてなし申て、其里なる等力山萬福寺といふ寺にも伴ひけるに、主僧の需に屡々筆をとり玉へり。其真蹟今なほ万福寺に多く蔵すといへり。」
 
 大虫はまた、六祖五平を高山五平としている。元和元年に芭蕉が佛頂に参禅した事を記述して、その終りに
  「秋元家の藩士に高山五平といふ人ありけり、佛頂禅師に参じて禅機よのつねならず、頗る恵 能の風ありければ、師これを渾号して六祖五平とぞ呼れける。桃青もをりく会下に面話して 其交日々に厚く、五平も俳諧にこゝろざして桃青の門に入、表徳を慶埼と称す」
  註に「後年幻世と改む。又俗称の五平をも後傅右衛門と改めたり。詩抄此五平を佛頂の僕に して、一文不知の者也とす。そは恵能の事に引当て設たる妄説なるべし」とある。
 大虫が何の資料によったかわからないが、多分に大虫の主観が入っていると思われ、今後の研究にまたねばならない問題が残されている。
  『勢いあり』の句、縻塒邸宅については後記するが、初狩村に杉風の姉が嫁し、芭蕉は杉風の紹介でそこえも往来したらしく伝えられるが、いまだ確証されていない。
 高木蒼悟氏も、かって杉山杉風伝を雑誌『石楠』に発表しているが、初原村に姉が居たという記述は見出し得ないと誌している。

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