由緒書 北巨摩郡高根町某家 家系書
一、馬場美濃守信房ハ教来石民部少輔景政と号す。然ニ一族馬場伊豆守虎貞、武田家 の長臣なるが信虎公大悪無道の人なる故に虎貞を誅せられる。これに依って馬場の家断絶に及けるを其後信玄の代に至り此事を歎き一家なれハ教来石民部少輔を以て伊豆守が名跡を続しめ美濃守になされ信の字を賜って信房と改め武田菱の紋を賜りける。子息をハ民部少輔と云て嫡子なり。然に勝頼の代に至り其諫を用ひ給はず長坂・跡部等の侫人奸曲の語を而其巳誠と思はれけれハ、信房是を怒り今度三州長篠の合戦の時(天正三年なり)生年六拾弐才にて討死せらる。長篠の橋場より只一騎取て返し深澤谷の小高き処に駆上り馬場美濃守行年六拾弐歳首取て武門の眉目にせよと呼ハれハ敵兵四五騎駆寄って四方より鑓を付る。信房太刀に手をも掛す二王(仁王)立に成って討れしハ前代未聞の最期なり。
首ハ塙九郎左衛門直政が郎党河合三十郎討取たり。惜哉信房ハ信虎より勝頼ニ至って三代に仕へ、武田家爪牙の重臣にて享禄四年十八歳にて初陣に立しより十度の高名を顕すと雖とも一生疵を蒙らず此の合戦勝頼大に敗北し武田家伝の指物諏訪法性の兜孜金等を捨て逃けら れける。此の時町人の落書に
信玄の跡をやふやふ四郎殿敵の勝より名をハ流しの
下部町常葉馬場家家系由来書
其祖ハ清和天皇後裔丹後守忠次ト稱スル者元弘建武の乱ヲ避ケ甲州都留郡朝日馬場村北東ノ億ニ隠住ス。武田氏ニ仕ヘ地名ヲ取リ馬場姓トス。妙圓寺ヲ開基シ黒印五石
ヲ寄付シ殿堂ヲ建立ス。清和天皇ヲ祀リ後相州鎌倉八幡宮ヲ氏神ニ祀リ之始祖也(中略)
信房
伊豆守虎貞信虎ノ暴虐ヲ憂ヒ直諫ス。信虎容レス。虎貞之カ為メニ遂ニ殺サル。
馬場系血是ニ於テ手絶エントス而時常葉次郎ナル者馬場家ヲ継グ。馬場美濃守信房ト稱ス。(中略)
下部町馬場家関係記述 抜粋『甲斐国志』志庶部 第百十七巻代十六
○ 常葉院の牌子に昌厳院笑岩道快居士 天正拾午年六月廿一日(一ノ瀬妙圓寺ニ丹後守忠次、法名日瀬トアリ。北川ノ
妙立寺ニ丹後守ノ女法名ハ妙来ト云アリ。其状ニ記セ)
◉ 妻ハ繁宝妙昌大姉天正十一年四月 七日
○ 同但島守(丹後守ノ名ナリト)仙岳宗椿上座 同八辰年正月 一日
◉ 妻ハ雲岳理庵大姉 同年八月五日
○ 同五郎左衛門 東前院傑翁良英庵主同十八寅年八月十五日
◉ 妻ハ昌英院玉瀬清昌珍大姉文禄元辰年十一月十五日
(此二牌子ハ当村東前院ニアリ。五郎左衛門ノ位牌ハ早川法明院ニモアリ)
○ 同八八郎左衛門 清雲院宗岸宗茂上座文禄四未年七月十五日
○ 同彦之丞 恕山道思禅定門 右ニ載スル所原記ノ支干錯乱シシヲハ今繕写スト雖
モ亦其実ヲ得タリト云フベカラズ
○ 里人別ニ馬場弥五郎、弥次郎ナド云人ヲモ云伝ヘタリ
○ 本村諏訪明神ノ社記ニ元禄九丙子年(馬場八郎左衛門忠次、渡辺十郎右衛門正次)神殿再興云々是モ元禄ノ字ノ誤リアルヘシ又丹後守源信ト記セリ皆ナ後世ノ為飾信用シ難シ
○ 按ニ軍艦ニ穴山衆 馬場八左衛門見エタリ云々
加賀美遠光―秋山光朝―常葉光季……常葉次郎
馬場与三兵衛家系 朝気村(現甲府市朝気)
『甲斐国志』第百八巻士庶部第七浪人馬場彦左衛門ノ家記ニ云、馬場美濃守ノ孫同民部ノ末男丑之介壬午(天正拾年)ノ乱ヲ避ケ其母ト倶ニ北山筋平瀬村ニ匿ル、後本村(朝気)ニ移居シテ与三兵衛ト更ム、其男四郎右衛門、其男善兵衛(元禄中ノ人)今ノ彦左衛門五世ノ祖ナリ善兵衛ノ子弟分流ノ者アリ皆小田切氏ヲ稱セリ元禄十一年戊寅年ノ村記ニ依ル、苗字帯刀ノ浪人馬場惣左衛門ノ妻ハ江戸牛込馬場一斎ノ女トアリ善兵衛(六十歳)総左衛門(三十八歳)新五兵衛(三十三歳)三人兄弟ナリト云
自元寺 二十六世大仙秀雄大和尚談
馬場信房の石塔は始め寺僧の墓と並んでいた。区画整理の都合で馬場祖三郎家に接して建てられた。
馬場ほのさんの夫、祖三郎氏(北杜市高根町)は養子で、白須から甲府市に移り開狭楼(かいこうろう)という料亭を営んで居られたが、今はその子孫が東京の武蔵野市に住んで居られる。
同家の白須の屋敷は広大で、当時の菅原村が買い取ったこの屋敷に大欅と大きな石祠とがあって、その前に五輪塔があった。馬場家から、大欅と五輪塔は動かさずに保存してほしいと申し込んであったが、祖三郎氏・ほのさんが他界された後は、五輪塔は郷社八幡神社の裏に写された。このままでは馬場祖三郎家の五輪塔かわからなくなるので、当主に説いて、自元寺の現在位置に移した。