高木蒼悟氏は、伊藤松宇(Wikipedia)氏(古俳書の回収家として松宇文庫がある)が在世中(昭和十八年没)松宇氏所蔵の大虫(池永氏 ダイチュウ 明治三年没)の稿本「芭蕉年譜稿本」に糜塒のことがあり、したがって芭蕉の甲州流寓のことが明らかになることの示唆をうけて研究を始め、昭和二十三年頃から雑誌「小太刀」に発表し、芭蕉と糜塒の関係を明らかにしている。
『芭蕉翁年譜稿本』には、江戸を焼け出された芭蕉が、甲州谷村に半年ほど流寓したのは、誰を頼ったかわからなかったのに、佛頂会下の六祖王平を頼ったという旧説を打破して、谷村藩家老高山傅右衛門繁文(慶埼)を頼ったこと、また、芭蕉参禅の師佛頂の伝記も誌し、天和三年の条の冒頭に、当時の芭蕉と糜塒の関係を次のように記述している。
「世は元旦も元旦の心ならず、焚址の煙だにおさまらざる中なりけり、翁は浜島氏におはして、歳旦の吟だもおもひよせ玉はず、おりおり訪らう門子親友に対話し玉うばかりなり。爰に又秋元家の臣たる彼高山糜塒は、佛頂禅師会下のちなみといい、俳諧に師弟の因といい、ひとかたならぬ情ありて、翁焼庵の時もいちはやく此寓居を訪らい申し、其恙きをよろこびけり。さるに此頃帰国すべき事となりければ、翁に其よしを申て、焚後の乱雑なるを見玉はむより、しばらく甲斐の山中に遊び玉はんは如何おはすべき、事に物に不自由なるは山家のつねなれども、還閑寂の幽趣もありて、此粉々をわすれ玉はむ、幸い帰国の日も近づけば、御供申候はんとすすめけるに、翁大に喜びて、主浜島氏にも其事をかたり、糜塒の勧めにしたがひ玉ふ。
此事を杉風にも物語るに、幸なるかな姉甲斐の国郡内初雁村に稼してあり、秋元の城下谷村にはほど遠からねば、折々は其許へもおはして滞留したまへとぞ申ける。かくて約束の日にもなりければ、翁は糜塒に伴はれて甲斐の谷村へ趣き玉ふ。此高山慶埼は谷村の重臣にして、其居宅も広やかに、男女多く仕ひければ、ねんごろに翁をもてなし、官事のひまには禅を対話し、又俳を研究して倦む事なければ、翁もしたしく導き玉へり。糜塒が別荘を桃林軒と号せり。翁はつねに其別荘を寓居と定め、心のままに城外にも逍蓬し玉ふ。ある時庸埓に伴はれて山川のほとりに漫遊し玉ふに句あり。
いきほひあり氷消ては滝津魚 芭蕉
此魚は俗にヤマメといふ、魚のわざを見玉ひての作なりとぞ。
又初狩村もほど近ければ、彼杉風が姉の嫁したる許を訪らひ玉ふに、かねてより翁の徳は承りたる事にあれば、 懇ろにもてなし申て、其里なる等力山萬福寺といふ寺にも伴ひけるに、主僧の需に屡々筆をとり玉へり。其真蹟今なほ万福寺に多く蔵すといへり。」
大虫はまた、六祖五平を高山五平としている。元和元年に芭蕉が佛頂に参禅した事を記述して、その終りに
「秋元家の藩士に高山五平といふ人ありけり、佛頂禅師に参じて禅機よのつねならず、頗る恵 能の風ありければ、師これを渾号して六祖五平とぞ呼れける。桃青もをりく会下に面話して 其交日々に厚く、五平も俳諧にこゝろざして桃青の門に入、表徳を慶埼と称す」
註に「後年幻世と改む。又俗称の五平をも後傅右衛門と改めたり。詩抄此五平を佛頂の僕に して、一文不知の者也とす。そは恵能の事に引当て設たる妄説なるべし」とある。
大虫が何の資料によったかわからないが、多分に大虫の主観が入っていると思われ、今後の研究にまたねばならない問題が残されている。
『勢いあり』の句、縻塒邸宅については後記するが、初狩村に杉風の姉が嫁し、芭蕉は杉風の紹介でそこえも往来したらしく伝えられるが、いまだ確証されていない。