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Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
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郡内地方の天和元年 芭蕉どころではなかった??

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郡内地方の天和元年
 
 何時の時代でも、幕閣に参加する藩主を持つとその地域の農民や地域の住民の生活は困窮の一途を辿る事が多いといわれる。
山梨県郡内地方を治めた秋元家にしても同じである。秋元治世が寛永十年()より始まり、寛文七年には大明見の庄屋想右衛門と朝日村の惣左衛門の二人が、年貢が九公一民となり、支払い不能を谷村城内の役所に訴訟を提出するも、聞き入れられずに入獄となり、翌八年には、金井河原に斬首となり両家ともお家断絶となる。この後大騒動となり、密かに相談して四十四人の惣代が集まり七人の代表総代を選ぶ。その後も取り立ては厳しくなり、延宝八年には再度の訴訟を惣代七名と外五十六人が秋元摂津守の江戸屋敷を訪れ提訴する。江戸屋敷家老岡村庄太夫が応対する。提訴は聞き入れられずに、七人は谷村に入獄延宝九年(天和元年)二月十四日秋山村惣代関戸左近は磔刑、他の六人は斬首となる。しかし仕置はこれではすまずに、騒動に参加した者百十七人は一命を失う。屋敷の裏にて抜き打ちにされている。当時高山傳右衛門は国家老か江戸詰家老なのかは定かではないが、芭蕉の世話どころの話では無い。芭蕉が訪れたのは翌々年の天和三年であり、騒動が一段落した時期にあたるのであろうか。郡内の困窮はこれに終わらず、甲斐を揺るがす天保の大騒動に続くのである。これは郡内に留まらずに甲斐全域を巻き込んだものであるが、甲斐国内の庶民の生活の困窮振りが目に浮かぶ様である。
 文学関係の人物を扱う場合に当時の歴史背景を視野に入れない場合が多く見られる。高山麋塒の師匠であり、現在では俳聖と崇め奉る芭蕉についても、幾多の研究にも関わらずその出生や家系及び生涯は正しく伝わってはいない。俳諧などその日その日を精一杯生きる人々にとっては関係のない世界であったのである。
 高山麋塒にしても、秋元家に於いての事蹟も明確にはなってはいない。国家老となり谷村に勤めた年次や、芭蕉との関係もより追求する必要がある。当時の時代背景からすれば、芭蕉が安心して麋塒の別荘「桃林軒」に仮寓していられる環境は無かった、そこで、参考(一)の説が歴史的にはより信憑性を持つのである。それによる芭蕉が貞享二年に甲斐山中に再度訪問することも可能になり、自然に受け入れられるのである。
 初狩村についても、すべて抹消する必要もなく芭蕉流寓の可能性は残して置く事が大切である。
 山梨県内には芭蕉の句碑も多く見られ、芭蕉の詠んだとされる句も刻されているが、芭蕉が本当にその場所で詠んだ句は少ないのである。多くは後の俳諧宗匠や愛好家が建立したものである。
 都留郡には未だ多くの史跡なども残っていて、ある意味では歴史の宝庫でもある。甲斐と言えば甲府を中心に歴史を展開しやすいが、古代から富士五湖地方には豊かな歴史があり、富士山の噴火で途切れる事はあっても、東海道側から見れば甲斐の一中心地で有ったことは間違いない。古代から平安時代の甲斐を詠んだ歌には都留地方に関連した歌が詠まれていて、これは甲斐の行政が都留を中心に行なわれていた様な錯覚さえ覚えてしまう。国中から見れば甲府盆地が中心地と考えられるが、都から見れば東海道から近い都留地方が軍事的にも政治的にも要所であり、多くの書に逸話が掲載されている。郡内地方こそが、古代甲斐の歴史を紐解く鍵を握っていると言っても決して過言ではない。
 甲斐谷村の秋元家の治世についても、正面から見直して欲しい。秋元家の華々しい活躍や繁栄の一方地域住民の疲弊の生活や、圧政と戦い多くの農民の犠牲となった人達を理解しながら、一揆が何故相次ぎ郡内に度々起きたのかも視野にいれて、その中を懸命に生き抜き現在に続く繁栄をもたらした住民の思いこそ後世に残されるべきあると思われる。
 芭蕉の甲斐流寓は今後も資料を積み重ね、一部の資料を偏重することなく、後世に伝える事が大切だと思われる。また芭蕉の親しい弟子とされる曾良もその出会いが谷村とする書もみえる。
 芭蕉の甲斐逗留について、素堂を甲斐出身とする研究者は何故素堂を外して話を展開しているのであろうか。 当時は素堂と芭蕉は兄弟以上であり、その関係は他に類しない程のものである。今回天和二年前後の素堂と芭蕉関係を資料をもとに提示してみた。全てを出してはいないが詳細は後日発刊される拙著『素堂の全貌』を参照していただきたい。素堂の序跋文や芭蕉の書簡から、芭蕉が如何に素堂の影響を受けていたかが読み取れると思う。芭蕉が甲斐に来たことも立ち寄ったことも事実である。しかしそれは『古事記』の日本武尊の記述のように唐突の記述である。今後新たな資料が出た段階で後筆する機会を得たい。
 尚、この機会に山梨県の歴史展開に苦言を呈したい。「甲斐御牧」や「甲斐源氏」・「信玄の動向」それに「市川団十郎」・「山口素堂」など、有効な資料が無いまま定説化が進んでいる。中には真説を唱えるのに十分な資料があるのに黙認し、真説擬きを史実として繰り返し筆著している。多くの研究者は山口素堂を甲斐出身として扱っている。だったら芭蕉の甲斐入りについも素堂の関与を探るべきではないのだろうか。

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