武田信玄伝<誕生から初陣まで>
武田信玄伝<誕生から初陣まで>1、生誕地の生年月日武田信玄は大永元年(1521)十一月三日、甲府の武田館(騨鰯ヶ崎館)の要害城(要害山)で生まれている。2、父と母父は武田家十六代の信虎(父二十八歳)。母は甲府盆地西郡の武田氏一族である大丼信達の娘((母二十四歳)。3、誕生地『高白斎記』で、「九月、九島ノ凶(戸)事、十六日乙丑、亥刻富田落城、寅刻御前御城へ御登り、十月十六日丁未、於飯田合戦御勝利、同十...
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<◎信玄(晴信誕生)> 大永 元年 1521 11月23日【長野】 ●武田信虎、駿河守護今川氏親と甲斐河内などで戦う。 《信玄の生い立ち。【甲陽軍艦】大永元年》 引用資料、『甲陽軍艦』吉田豊氏著。昭和四十六年。徳間書店発行。 ……解題……...
View Article●武田軍法
●武田軍法 永禄十二年、武田軍法 1、乗馬・歩兵ともに甲を着けること。見苦しい甲でもよいから早く用意せよ。 2、槍は三間柄の槍を用いること。槍の様式は一統の衆(回し部隊)は同じように作ること。 3、長柄十本の衆は、そのうち三本は持槍、七本は長柄とせよ。長柄九本、八本、七本の衆は、二本は持槍、そのほかは長柄...
View Article曲淵勝左衛門由緒書 半日閑話(大田覃)
曲淵勝左衛門由緒書 半日閑話(大田覃) ○高祖父勝左衛門吉景、武田信虎より勝頼迄奉公仕、甲州武川と申す谷へ住居す。天正十年勝頼生害後、先方侍扶助信長停止に候共、神君武川之者共一同に御扶助被下、忍て遠州相良辺に罷座候處、同年六月信長生害有之、甲州之国主無之、北条家より種々計策有候得共、武川之...
View Article甲斐二十四将傳 一話一言(大田南畝)
甲斐二十四将傳 一話一言(大田南畝) 著述甲斐二十四将傳之説 世有甲斐二十四将圖者。不知何人作。而傳以珍蔵焉。予校諸舊記。無所據由也。昔者室町氏失其柄。諸侯力争。兼弱呑小遂為戦国。乃集類樹黨。以相誇張。於是家々有三老四天七槍之稱。吾玄公朝亦有號稱二十二将。威能感會風雲。奮其智勇。深圖遠算。後世所法。各志操之士也。玄公用此輩。同計議。明鑑不差。無一不死事者。雖往古烈士。何以加哉。所謂二十二将者。...
View Article諸書による山本勘助の実像と虚像
序にかえて 山本勘助は実在の人物か虚像なのか未だに意見の分かれているところであるが、来年度NHKの大型テレビドラマの「風林火山」において、多くの人々には実在したとの認識が深まることは間違いない。こうした現象は過去にも色々あり、「武田信玄」のように様々な映画やテレビドラマで放映され、小説家や著述家が視点を変えて様々な信玄を書くので、そこには幾通りもの武田信玄像が出現する。...
View Article甲斐上代国政関係者一覧
甲斐上代国政関係者一覧 『甲斐国志』「姓氏部」 甲斐前司家国(宗国) 建長、正嘉の引付番の内に見ゆ。初甲斐国に任ずる人なるべし。姓氏を知らず。建長(1249~1256)正嘉(1257~1259)『東艦』 甲斐守為時(為成) 同書正元、弘長中の記に見えたり。又姓氏不詳。正元(1259~1260)弘長(1261~1264)『東艦』 甲斐次郎左衛門尉 甲斐三郎左衛門尉為成 甲斐五郎左衛門尉為定...
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