<◎信玄(晴信誕生)>
大永 元年 1521 11月23日【長野】
●武田信虎、駿河守護今川氏親と甲斐河内などで戦う。
《信玄の生い立ち。【甲陽軍艦】大永元年》
引用資料、『甲陽軍艦』吉田豊氏著。昭和四十六年。徳間書店発行。
……解題……
信玄が誕生した大永元年(1522)のころ、足利幕府の権威をとみに衰え、実力本位の戦国大名時代を迎える騒乱が全国をおおっていた。信玄の父信虎は甲斐一国の鎮定に成功しつつあったが、駿河から侵入してきた福島の大軍に甲府近郊まで迫られ、未曾有に危機に立たされていた。
●信玄素生之事(品第十八)
夫(それ)信玄公、稚(わか)き時の御名を勝千代と申す。子細は、御父、信虎公、二十八歳の時、駿河くしまといふ武士、今川殿を、かろしめ、結局甲州を取て、己が国に仕らんとて、遠駿の人数(にんじゅ)を、引きぐして、甲州飯田河原迄来り、しかも六十五日あまり、陣をはり居る。其時御一家の衆、尽く身構へをして、武田御家、既に滅却せんと仕る所に、信虎公の家老、萩原常陸守と申す、大剛の武士、武略をもって、信虎公勝利を得給ふ。敵の大将くしまを討取り給ふたる其日の其時誕生有る故、勝千代殿と、信玄公稚名(わかな)をけ申す。即ち其時の合戦は勝千代殿と合戦に仕ると、武田信虎公家老の沙汰なり。勝千代殿、誕生前に、種々の不思議、信州諏訪明神より、告げ来ると云々。
《註》
大永元年(1521)遠江土方城主福島兵庫頭正成(久島とも呼ぶ)が一万五千の軍勢をひきい、甲州に進攻、甲府市外にまで迫った。武田家最大の危機である。信虎は、懐妊中の夫人(大井氏)を市北郊石水寺(現積翠寺)要害山の山城に移し、六十余日の対戦の末、十一月二十三日、飯田河原での合戦でようやく勝利をおさめた。
大永 元年 1521 11月23日【長野】
●武田信虎、駿河守護今川氏親と甲斐河内などで戦う。
《信玄の生い立ち。【甲陽軍艦】大永元年》
引用資料、『甲陽軍艦』吉田豊氏著。昭和四十六年。徳間書店発行。
……解題……
信玄が誕生した大永元年(1522)のころ、足利幕府の権威をとみに衰え、実力本位の戦国大名時代を迎える騒乱が全国をおおっていた。信玄の父信虎は甲斐一国の鎮定に成功しつつあったが、駿河から侵入してきた福島の大軍に甲府近郊まで迫られ、未曾有に危機に立たされていた。
●信玄素生之事(品第十八)
夫(それ)信玄公、稚(わか)き時の御名を勝千代と申す。子細は、御父、信虎公、二十八歳の時、駿河くしまといふ武士、今川殿を、かろしめ、結局甲州を取て、己が国に仕らんとて、遠駿の人数(にんじゅ)を、引きぐして、甲州飯田河原迄来り、しかも六十五日あまり、陣をはり居る。其時御一家の衆、尽く身構へをして、武田御家、既に滅却せんと仕る所に、信虎公の家老、萩原常陸守と申す、大剛の武士、武略をもって、信虎公勝利を得給ふ。敵の大将くしまを討取り給ふたる其日の其時誕生有る故、勝千代殿と、信玄公稚名(わかな)をけ申す。即ち其時の合戦は勝千代殿と合戦に仕ると、武田信虎公家老の沙汰なり。勝千代殿、誕生前に、種々の不思議、信州諏訪明神より、告げ来ると云々。
《註》
大永元年(1521)遠江土方城主福島兵庫頭正成(久島とも呼ぶ)が一万五千の軍勢をひきい、甲州に進攻、甲府市外にまで迫った。武田家最大の危機である。信虎は、懐妊中の夫人(大井氏)を市北郊石水寺(現積翠寺)要害山の山城に移し、六十余日の対戦の末、十一月二十三日、飯田河原での合戦でようやく勝利をおさめた。