甲斐上代国政関係者一覧
『甲斐国志』「姓氏部」
『甲斐国志』「姓氏部」
甲斐前司家国(宗国)
建長、正嘉の引付番の内に見ゆ。初甲斐国に任ずる人なるべし。姓氏を知らず。建長(1249~1256)正嘉(1257~1259)『東艦』
甲斐守為時(為成)
同書正元、弘長中の記に見えたり。又姓氏不詳。
正元(1259~1260)弘長(1261~1264)『東艦』
甲斐次郎左衛門尉
甲斐三郎左衛門尉為成
甲斐五郎左衛門尉為定 『東艦』
等とあり為時の息子か。
延喜の後世既に陵遅の及び国史詳ならず。経歴二百年にして保元・平治(1156~160)に一変し、鎌倉創業時至諸国守護職を置き政を専にす。是に於て国守の威 権漸く衰へ紀綱弛みけれは叙任の事も分明ならず。凡て守護人を斥して国守と称する。類間々多し。本州は武田一門鎌倉の親族たるを以て、武威殊に厳なれば郡司庄官の所知を併合して国中に延蔓せり。然れども応仁(1467~1468)擾乱の頃までは猶微々として国衙の号令行はれし趣なりき。但し国守の交替僚属の姓名等は得て記するもの甚だ少なり。
甲斐大掾中原清重
延喜の後世既に陵遅の及び国史詳ならず。経歴二百年にして保元・平治(1156~160)に一変し、鎌倉創業時至諸国守護職を置き政を専にす。是に於て国守の威 権漸く衰へ紀綱弛みけれは叙任の事も分明ならず。凡て守護人を斥して国守と称する。類間々多し。本州は武田一門鎌倉の親族たるを以て、武威殊に厳なれば郡司庄官の所知を併合して国中に延蔓せり。然れども応仁(1467~1468)擾乱の頃までは猶微々として国衙の号令行はれし趣なりき。但し国守の交替僚属の姓名等は得て記するもの甚だ少なり。
甲斐大掾中原清重
延慶四年(応長元年/1311)三月三十日県召除目。『園大暦』
長井甲斐前司泰広
建武年間(1334~1338)の記に関東廂番の中に見ゆ大江一族なり。
武田甲斐守
太平記建武二年(1335)の項に『太平記』
甲斐守盛正『太平記』
建武年間(1334~1338)の記に関東廂番の中に見ゆ大江一族なり。
武田甲斐守
太平記建武二年(1335)の項に『太平記』
甲斐守盛正『太平記』
甲斐前司盛信
康永四年(貞和元年・1345)
天龍寺供養の記なり。園大暦には前司と記して盛信の字なし。盛信は岩崎氏にあり。『天龍寺記・園大暦』
天龍寺供養の記なり。園大暦には前司と記して盛信の字なし。盛信は岩崎氏にあり。『天龍寺記・園大暦』
一条源八時信
為甲斐守其孫甲斐太郎信方又為甲斐守以上不詳。『一蓮寺旧記』
為甲斐守其孫甲斐太郎信方又為甲斐守以上不詳。『一蓮寺旧記』
武田伊豆守信武
専ら惣領職なり。分流の家より甲斐守に任ずる事覚束なしとなん。
久下甲斐目成氏 太平記金勝院本に元弘元年(1331)主上笠置没落する条下生捕人の中に見ゆ。
『太平記』
専ら惣領職なり。分流の家より甲斐守に任ずる事覚束なしとなん。
久下甲斐目成氏 太平記金勝院本に元弘元年(1331)主上笠置没落する条下生捕人の中に見ゆ。
『太平記』
甲斐介藤原重尚
貞和二年(1346)二月十九日『園大暦』
貞和二年(1346)二月十九日『園大暦』
甲斐目藤井有彦
今日被始行県召除目也。二十二日入。夜聞書到来と云々。
甲斐権目坂田重久
康永三年(1344)正月の記にあり。
弾正忠業朝
貞治三年(1364)十二月十一日
寄進状一章の文中に前々目代方寄進状坡見之上は云々とあり。業朝も国衙に居りし目代なり。『一蓮寺所蔵花押』
斯波陸奥守
建武四年(1337)七月十六日柏尾大善寺所蔵国衙の在庁文書 散位花押、小岡郷内にて寄進の証状なり。
観応二年(1351)六月二十日
補任甲斐国東三眛田肆段名主職事最手房丸所云々 柏尾大善寺所蔵国衙の在庁文書
留守別花押・国別当花押
嘉慶元年(1387)十二月十三日
補任甲斐国国衙八幡宮法華経田公文職事柏尾大善寺所云々
留守所花押文安六年(宝徳元年/1449)五月二十六日
河村隼人・船越因幡守
花押禁制一章あり。文面によるに国衙の書法なり。右合わせて五通前文附録にのす。この頃本州に領地ありし人。観応二年(1351)『奈良原広済寺文書』
今日被始行県召除目也。二十二日入。夜聞書到来と云々。
甲斐権目坂田重久
康永三年(1344)正月の記にあり。
弾正忠業朝
貞治三年(1364)十二月十一日
寄進状一章の文中に前々目代方寄進状坡見之上は云々とあり。業朝も国衙に居りし目代なり。『一蓮寺所蔵花押』
斯波陸奥守
建武四年(1337)七月十六日柏尾大善寺所蔵国衙の在庁文書 散位花押、小岡郷内にて寄進の証状なり。
観応二年(1351)六月二十日
補任甲斐国東三眛田肆段名主職事最手房丸所云々 柏尾大善寺所蔵国衙の在庁文書
留守別花押・国別当花押
嘉慶元年(1387)十二月十三日
補任甲斐国国衙八幡宮法華経田公文職事柏尾大善寺所云々
留守所花押文安六年(宝徳元年/1449)五月二十六日
河村隼人・船越因幡守
花押禁制一章あり。文面によるに国衙の書法なり。右合わせて五通前文附録にのす。この頃本州に領地ありし人。観応二年(1351)『奈良原広済寺文書』
石堂右馬允義房・桃井播磨守直常・高播磨守師冬 京攻の条に桃井直常扇が一揆の中より秋山蔵人光政云々(秋山は本州の人。本伝の出づ。此時桃井に属し出陣す。高倉殿京都退去の条に石堂右馬允義房・桃井播磨守直常二人高倉殿へ参て申けるは、 甲斐国と越中国とは己に我等か分国として相交る。敵候はねば旁以て安かるべきにて候とあり。
同二年高師甲斐国に落ちて洲沢城の籠り討ち死にせし事。又阿保肥前守忠実・荻野尾張守朝忠采色邑の事等見ゆ。
当時武田一類六人、逸見・小笠原の一族十六人なりと云う文も見えたりと他姓の人も多く食采せし事なるへし。『太平記』
斯波陸奥守家長 建武四年(1337)七月十六日
甲斐国小岡郷内寄進状
暦応二年(1339)四月十九日『柏尾大善寺文書』国衙在庁の証状の添状も有之
同二年高師甲斐国に落ちて洲沢城の籠り討ち死にせし事。又阿保肥前守忠実・荻野尾張守朝忠采色邑の事等見ゆ。
当時武田一類六人、逸見・小笠原の一族十六人なりと云う文も見えたりと他姓の人も多く食采せし事なるへし。『太平記』
斯波陸奥守家長 建武四年(1337)七月十六日
甲斐国小岡郷内寄進状
暦応二年(1339)四月十九日『柏尾大善寺文書』国衙在庁の証状の添状も有之
一色氏・金丸氏・土屋氏の家系を按に本州の在りし。
一色氏は左京大夫範氏四世の孫満範より出る趣なり。武河(上条南割)の大公寺の所建大興寺殿(範氏法名)の牌子あり。始祖の香火場に営む所なるべし。『柏尾大善寺文書』
一色氏は左京大夫範氏四世の孫満範より出る趣なり。武河(上条南割)の大公寺の所建大興寺殿(範氏法名)の牌子あり。始祖の香火場に営む所なるべし。『柏尾大善寺文書』
一蓮寺過去帳に永享十一年(1439)二月十日縁仏房(一色参州息女)あり、其党ならんか。『一蓮寺過去帳』
渋川宮内右衛門尉義長 志麻庄上条八幡宮、大永四年(1524)の棟札に見えたり。
甲斐国武田臣(姓氏録云、竹田臣)
孝元天皇皇子大彦之男武渟川別尊ノ俊也。
(竹・武訓相通ス)日本記祟神天皇十年(日本書紀/紀元前88年)旧事記ヲ按スルニ武渟川ノ裔孫大臣命為諏方国造趣ナリ。
続日本記養老五年(721)割信濃国始置諏方国天平三年(731)廃諏方国伴信濃国トアルハ後再有置廃之事ニヤ。
本州ノ地モ諏方国ニ割キ併セラル故アリテ淳川(今武河ニ作ル)武田ノ地名キカ此ニ起ス日本武尊之皇子亦此ニ封ヲ受ク。武田王ト称スト云。古蹟部ニ委シ。
延暦廿四年(805)従五位下岳田王為二甲斐守一事日本後紀ニアリ岳田、武田ノ異同考)
後ニ武田太郎信義廃柏ヲ風シ絶エタルヲ嗣キ始武田ヲ以テ氏号ト為シ是ヲ以テ其家信義ヲ宗相ト称シ世々諏方法性大明神ヲ崇敬シテ氏神ト為スナリ信玄号法性院信勝ノ幼名云竹王丸ノ類皆本于此ト云
布施朝臣
姓氏緑ニ武田臣同相也中世ニ布施氏アリ。武田氏ヨリ紹ク親故部ニ出ツ以下所記都郷圧保旧池名ニ拠ル者ハ所賜ノ姓戸ニシテ氏族所賜ノ姓戸ニシテ氏族ニ非ズト覚エタリ後一変シテ氏ト為ル者へ此ニ略記シテ本伝ニ委ス他皆之ニ隣ヘリ。
靱大伴部連ユキヘヲヲトモノムラジ
景行天皇四十年(日本書紀/110)日本武尊征東夷(中略)至甲斐国居酒折宮中略則居是宮以籾部賜大伴運之遠祖武日也(武日此時副将軍ナリ)
姓氏録ニ大伴宿欄高皇産霊尊五世孫夫押日命之後也初天孫彦火瓊々杵尊神駕之降也。天押日命大来目部立御前降千日向高千穂峯然後以大来目部為天靱負部靱負之号起於此也雄略天皇御世以天靱員賜大連公ニ云々続日本紀神護景雲三年(769)陸奥国白河郡人外正七位下靱大伴部継人、黒川郡人外従六位下靱大伴部等八人賜二大伴蓮一ト見エタリ大伴ハ淳和天皇(823~ 831)ノ御誼也。『日本紀』
弘仁十四年(823)改大伴宿禰為伴宿禰蝕レ諱也トアリ。
従ヨリ爾後単ニ伴ト称ス。(信州有伴圧後伴野氏出之豊後大友氏目藤原姓出)甲斐国山梨郡ノ人伴直富威、三代実録貞観七年(865)八代郡擬大領無位伴直真員 同郡人伴秋吉等ノ事アリ酒折ニ兎宅倍山ト呼ブ処アリ。『続日本後紀』
師ハ軍器ノ名号手ニ繋ケテ受弦モノニテ其文ヲ鞆絵ト云。即チ後世所謂巴ノ紋ナリ。此山草莽ノ間岩石缺ケ落チテ自然ニ鞆絵ノ形アラハル。故ニ之ヲ名トス。酒折ハ古蹟 部ニ記ス。
上代ノ都会風致アル天府ノ境地大伴武日居之領靱部之地故ニ子孫靱大伴ト称セシナランカ。蓋シ資地名山大伴部ノ濫觴此処ナルヘシ(城州鞆岡、備州鞆律モ此類ニヤ)
郡司大少領ハ終身ヲ以テ限ト為ス。麿代之任ニ非ストアレハ伴姓亦連綿ト続キタル在庁ノ官人ナラン。一連寺過去帳ニ文明ノ頃(1469~1487)伴野作州法名行阿ト云者見ユ壬午ノ時ニ伴嘉石衛門等アレトモ闇エタル者ハ希ナリ酒折」酒依ニ作ル。今阪折トス。中世酒依氏アリ士庶部ニ記ス。
大伴山前運
姓氏緑ニ大伴宿禰同祖日臣命之後也トアリ。山前今山埼ニ作ル中世山前圧ト云又桜井村アリ桜井宿禰ノ事ニ因ルカ皆阪折ノ近隣ナリ。
建部公
姓氏緑ニ日本武尊之後也日本紀ニ日本武尊崩化白鳥(中略)作三陵号日白鳥陵欲録功名即定武部也トアリ。即是也古蹟部ニ記スル所小石和筋ニ竹居村アリ古竹生ニモ作ル。今モ鳥阪ノ下花鳥陵ニ日本武尊ヲ祀レリ。稚彦路ノ由ル所ニテ日本武尊ノ皇子稚彦王此ニ封ヲ受ク即チ武部ノ地是ナリト云。建、竹、武ハ古通シ用ヰタリ。建部タテベト訓シ或ハ源姓ヨリ出ツト云ハ非ナルヘシ
塩海宿禰
『旧事記』所戦甲斐国造ナリ己ニ前ニ見エタリ其姓へ後マデ本州ニ伝ハレリ(塩海ハ房州安房都ノ郷名ニテ和名抄ニ見ユ。
今塩見村存セリト云。本州北山筋ニ塩部村有り旧池名也若シクハ之ニ本力)
『旧事記』・『保元物語』ニ保元々年(1156)七月官軍勢そろへの条ニかひには、しほみの五郎同六郎(参考ニ云鎌倉本志保美ニ作ル)又御曹子為朝のために甲斐国の住人塩みの 五郎射殺さると云云。『保元物語』
大石寺本ノ曽我物語ニ建久八年(1197)富士野ノ裾井出ノ屋形云云。甲斐国住人ノ中ニ渋美弥五郎同六郎兄弟八人トアリ。渋実ハ塩見ノ誤ナルヘシ中古他之記載ニ顕ハレサレハ委シキ事ハ知レザレトモ此頃ニ至ルマテ姓氏伝ハリテ国士タル趣ナリ。後ニモ流落シテ其氏アリ。『曽我物語』
寛氷三寅年(1626)北山西小松石宮ノ棟札ニ大工塩見左兵衛、同十七辰年(1640)和田村諏方明神ノ棟札ニ塩見官内丞ト見エタリ。今因州取鳥渚中ニ塩見兵太夫ト云者アリ。其先へ本州ヨリ出聞キタリ
波多八代宿禰
古事記ニ建内宿禰之子有波多八代宿禰波多臣、林臣波美臣、長谷部ノ 君等之祖也。『古事記』
渋川宮内右衛門尉義長 志麻庄上条八幡宮、大永四年(1524)の棟札に見えたり。
甲斐国武田臣(姓氏録云、竹田臣)
孝元天皇皇子大彦之男武渟川別尊ノ俊也。
(竹・武訓相通ス)日本記祟神天皇十年(日本書紀/紀元前88年)旧事記ヲ按スルニ武渟川ノ裔孫大臣命為諏方国造趣ナリ。
続日本記養老五年(721)割信濃国始置諏方国天平三年(731)廃諏方国伴信濃国トアルハ後再有置廃之事ニヤ。
本州ノ地モ諏方国ニ割キ併セラル故アリテ淳川(今武河ニ作ル)武田ノ地名キカ此ニ起ス日本武尊之皇子亦此ニ封ヲ受ク。武田王ト称スト云。古蹟部ニ委シ。
延暦廿四年(805)従五位下岳田王為二甲斐守一事日本後紀ニアリ岳田、武田ノ異同考)
後ニ武田太郎信義廃柏ヲ風シ絶エタルヲ嗣キ始武田ヲ以テ氏号ト為シ是ヲ以テ其家信義ヲ宗相ト称シ世々諏方法性大明神ヲ崇敬シテ氏神ト為スナリ信玄号法性院信勝ノ幼名云竹王丸ノ類皆本于此ト云
布施朝臣
姓氏緑ニ武田臣同相也中世ニ布施氏アリ。武田氏ヨリ紹ク親故部ニ出ツ以下所記都郷圧保旧池名ニ拠ル者ハ所賜ノ姓戸ニシテ氏族所賜ノ姓戸ニシテ氏族ニ非ズト覚エタリ後一変シテ氏ト為ル者へ此ニ略記シテ本伝ニ委ス他皆之ニ隣ヘリ。
靱大伴部連ユキヘヲヲトモノムラジ
景行天皇四十年(日本書紀/110)日本武尊征東夷(中略)至甲斐国居酒折宮中略則居是宮以籾部賜大伴運之遠祖武日也(武日此時副将軍ナリ)
姓氏録ニ大伴宿欄高皇産霊尊五世孫夫押日命之後也初天孫彦火瓊々杵尊神駕之降也。天押日命大来目部立御前降千日向高千穂峯然後以大来目部為天靱負部靱負之号起於此也雄略天皇御世以天靱員賜大連公ニ云々続日本紀神護景雲三年(769)陸奥国白河郡人外正七位下靱大伴部継人、黒川郡人外従六位下靱大伴部等八人賜二大伴蓮一ト見エタリ大伴ハ淳和天皇(823~ 831)ノ御誼也。『日本紀』
弘仁十四年(823)改大伴宿禰為伴宿禰蝕レ諱也トアリ。
従ヨリ爾後単ニ伴ト称ス。(信州有伴圧後伴野氏出之豊後大友氏目藤原姓出)甲斐国山梨郡ノ人伴直富威、三代実録貞観七年(865)八代郡擬大領無位伴直真員 同郡人伴秋吉等ノ事アリ酒折ニ兎宅倍山ト呼ブ処アリ。『続日本後紀』
師ハ軍器ノ名号手ニ繋ケテ受弦モノニテ其文ヲ鞆絵ト云。即チ後世所謂巴ノ紋ナリ。此山草莽ノ間岩石缺ケ落チテ自然ニ鞆絵ノ形アラハル。故ニ之ヲ名トス。酒折ハ古蹟 部ニ記ス。
上代ノ都会風致アル天府ノ境地大伴武日居之領靱部之地故ニ子孫靱大伴ト称セシナランカ。蓋シ資地名山大伴部ノ濫觴此処ナルヘシ(城州鞆岡、備州鞆律モ此類ニヤ)
郡司大少領ハ終身ヲ以テ限ト為ス。麿代之任ニ非ストアレハ伴姓亦連綿ト続キタル在庁ノ官人ナラン。一連寺過去帳ニ文明ノ頃(1469~1487)伴野作州法名行阿ト云者見ユ壬午ノ時ニ伴嘉石衛門等アレトモ闇エタル者ハ希ナリ酒折」酒依ニ作ル。今阪折トス。中世酒依氏アリ士庶部ニ記ス。
大伴山前運
姓氏緑ニ大伴宿禰同祖日臣命之後也トアリ。山前今山埼ニ作ル中世山前圧ト云又桜井村アリ桜井宿禰ノ事ニ因ルカ皆阪折ノ近隣ナリ。
建部公
姓氏緑ニ日本武尊之後也日本紀ニ日本武尊崩化白鳥(中略)作三陵号日白鳥陵欲録功名即定武部也トアリ。即是也古蹟部ニ記スル所小石和筋ニ竹居村アリ古竹生ニモ作ル。今モ鳥阪ノ下花鳥陵ニ日本武尊ヲ祀レリ。稚彦路ノ由ル所ニテ日本武尊ノ皇子稚彦王此ニ封ヲ受ク即チ武部ノ地是ナリト云。建、竹、武ハ古通シ用ヰタリ。建部タテベト訓シ或ハ源姓ヨリ出ツト云ハ非ナルヘシ
塩海宿禰
『旧事記』所戦甲斐国造ナリ己ニ前ニ見エタリ其姓へ後マデ本州ニ伝ハレリ(塩海ハ房州安房都ノ郷名ニテ和名抄ニ見ユ。
今塩見村存セリト云。本州北山筋ニ塩部村有り旧池名也若シクハ之ニ本力)
『旧事記』・『保元物語』ニ保元々年(1156)七月官軍勢そろへの条ニかひには、しほみの五郎同六郎(参考ニ云鎌倉本志保美ニ作ル)又御曹子為朝のために甲斐国の住人塩みの 五郎射殺さると云云。『保元物語』
大石寺本ノ曽我物語ニ建久八年(1197)富士野ノ裾井出ノ屋形云云。甲斐国住人ノ中ニ渋美弥五郎同六郎兄弟八人トアリ。渋実ハ塩見ノ誤ナルヘシ中古他之記載ニ顕ハレサレハ委シキ事ハ知レザレトモ此頃ニ至ルマテ姓氏伝ハリテ国士タル趣ナリ。後ニモ流落シテ其氏アリ。『曽我物語』
寛氷三寅年(1626)北山西小松石宮ノ棟札ニ大工塩見左兵衛、同十七辰年(1640)和田村諏方明神ノ棟札ニ塩見官内丞ト見エタリ。今因州取鳥渚中ニ塩見兵太夫ト云者アリ。其先へ本州ヨリ出聞キタリ
波多八代宿禰
古事記ニ建内宿禰之子有波多八代宿禰波多臣、林臣波美臣、長谷部ノ 君等之祖也。『古事記』
三代実緑ニ貞観六年(864)八月八日右京人故従五位下岡屋公祖代賜姓八多朝臣先出自八太屋代宿禰也トアリ波多、八多トモニ秦ニ同シ今モ姓氏ト為ス者アリ八代ハ都 名、郷名ニモ呼ブ。
『三代実緑』 小石和筋古跡部ニ委シ後ノ八代氏奴白トモ称セリ武田ノ親族ナリ屋代ハ信州ニ地名アリ其義八代ト云ニ同シ。
波美臣
速見又逸見ニ同シ。巨麿都ノ郷名ナリ。今逸見筋ト云逸見ノ冠者義清ノ拠ル所子孫相承ケテ氏トス。此筋ニ大倉、小倉(虚々井、又爰井ニモ作ル)二氏ハ後ニ小笠原氏ヨリ続ク。藤井保、熱都ノ圧、須玉ノ類旧族ト見エタリ古跡部ニ審ニス。
林ノ臣
林戸ハ山梨都ノ郷名又林部ニ作ル。姓氏録ニ林ノ朝臣ハ石川ノ朝臣ノ同祖武内宿禰之後也トアリ。能呂於曽モ同郡ノ郷名ナリ共三枝ノ村連条ニ出ツ。
井上
同郡ノ郷名ナリ後ニ甲斐守源頼信ノ弟乙葉三郎頬季ヲ立テ命氏族ト云。将帥部ニアリ、塩田荘及岩埼ト云モ此筋ノ著姓ナリ。
石禾
同郷ノ郷名ナリ後ニ石禾御厨ト云国衙ニ隣レル都会也。今大石和筋ト呼ヘリ平治物語ニ石和四郎信景ト云者ヲノス。氏族アリテ武田ノ大姓ナリ。
中臣粟原ノ連
姓氏緑ニ天児屋根命七世孫雷大臣之後也トアリ栗原へ郷名今栗原筋ト称ス。武田家ヨ リ柏ヲ紹キ氏族トナル。(等力・トドロキ)ナル。等力或ハ轟ニ作ル。大野共ニ同筋ノ郷名ナリ今記スル所ナシ。
曽根ノ連
姓氏緑ニ神饒速日命之後也トアリ。八代郡ノ荘名ナリ。阿佐制ノ圧(又浅利ニ作ル)同郡ニ在り共武田ノ親族ナリ将帥部ニ記ス
長江
白井郷名ナリ是モ氏族アリ
市川
姓氏録ニ市川朝臣(又市川臣)大春日朝臣同祖、天足彦国押人命之後也ト云云。市川又市河ニモ作ル郷名ナリ。『姓氏録』
東鑑ニ市川別当行房等アリ将帥部ニ記ス大石寺本曽我物語ニ一河、城ノ小太郎ト記セリ。按ニ城氏ハ鎮守府将軍秋田城ノ介平維茂ノ後ヨリ出ツ。今此郷内ニ城山ト云処ヲ里人ハ相伝へテ城殿ノ堀址也ト云ヘリ。然レバ後ノ市河氏ト云者ハ本、城氏ニシテ平姓ナリシニヤ。『東鑑』
波美臣
速見又逸見ニ同シ。巨麿都ノ郷名ナリ。今逸見筋ト云逸見ノ冠者義清ノ拠ル所子孫相承ケテ氏トス。此筋ニ大倉、小倉(虚々井、又爰井ニモ作ル)二氏ハ後ニ小笠原氏ヨリ続ク。藤井保、熱都ノ圧、須玉ノ類旧族ト見エタリ古跡部ニ審ニス。
林ノ臣
林戸ハ山梨都ノ郷名又林部ニ作ル。姓氏録ニ林ノ朝臣ハ石川ノ朝臣ノ同祖武内宿禰之後也トアリ。能呂於曽モ同郡ノ郷名ナリ共三枝ノ村連条ニ出ツ。
井上
同郡ノ郷名ナリ後ニ甲斐守源頼信ノ弟乙葉三郎頬季ヲ立テ命氏族ト云。将帥部ニアリ、塩田荘及岩埼ト云モ此筋ノ著姓ナリ。
石禾
同郷ノ郷名ナリ後ニ石禾御厨ト云国衙ニ隣レル都会也。今大石和筋ト呼ヘリ平治物語ニ石和四郎信景ト云者ヲノス。氏族アリテ武田ノ大姓ナリ。
中臣粟原ノ連
姓氏緑ニ天児屋根命七世孫雷大臣之後也トアリ栗原へ郷名今栗原筋ト称ス。武田家ヨ リ柏ヲ紹キ氏族トナル。(等力・トドロキ)ナル。等力或ハ轟ニ作ル。大野共ニ同筋ノ郷名ナリ今記スル所ナシ。
曽根ノ連
姓氏緑ニ神饒速日命之後也トアリ。八代郡ノ荘名ナリ。阿佐制ノ圧(又浅利ニ作ル)同郡ニ在り共武田ノ親族ナリ将帥部ニ記ス
長江
白井郷名ナリ是モ氏族アリ
市川
姓氏録ニ市川朝臣(又市川臣)大春日朝臣同祖、天足彦国押人命之後也ト云云。市川又市河ニモ作ル郷名ナリ。『姓氏録』
東鑑ニ市川別当行房等アリ将帥部ニ記ス大石寺本曽我物語ニ一河、城ノ小太郎ト記セリ。按ニ城氏ハ鎮守府将軍秋田城ノ介平維茂ノ後ヨリ出ツ。今此郷内ニ城山ト云処ヲ里人ハ相伝へテ城殿ノ堀址也ト云ヘリ。然レバ後ノ市河氏ト云者ハ本、城氏ニシテ平姓ナリシニヤ。『東鑑』
許勢小柄宿欄
古事記ニ武内宿禰之男也許勢臣雀部臣等祖也。姓氏録ニ巨勢朝臣ハ石川同祖巨勢雄柄宿禰之後也トアリ。山梨中都ノ古蹟部士庶部委シクス。許勢ハ小瀬氏ナリ。武田ノ親族衆ニアリ。小柄ハ小河原氏ナリ変シテ二氏トナル人亦其姓ナル事ヲ云ハス。又小曲氏モ此辺ニ村名アリ、旧族ト見エタリ。『古事記』
古事記ニ武内宿禰之男也許勢臣雀部臣等祖也。姓氏録ニ巨勢朝臣ハ石川同祖巨勢雄柄宿禰之後也トアリ。山梨中都ノ古蹟部士庶部委シクス。許勢ハ小瀬氏ナリ。武田ノ親族衆ニアリ。小柄ハ小河原氏ナリ変シテ二氏トナル人亦其姓ナル事ヲ云ハス。又小曲氏モ此辺ニ村名アリ、旧族ト見エタリ。『古事記』
巨勢槭田朝臣
姓氏録ニ雄柄宿禰四世孫稲茂臣之後男荒人 畠極御世(日本書紀/642~644)遣佃葛城長田其地野上漑水難至荒人能鮮機術始造長槭川水潅田天星大悦賜徹田臣姓也(槭ハ和名秒云和名以比、准南子決塘発槭註云槭所以□竇トアリ今云埋樋也)北山筋ニ飯田村アリ其訓協ヘリ。後飯田氏ハ武田ノ氏族ニアリ。『姓氏録』
姓氏録ニ雄柄宿禰四世孫稲茂臣之後男荒人 畠極御世(日本書紀/642~644)遣佃葛城長田其地野上漑水難至荒人能鮮機術始造長槭川水潅田天星大悦賜徹田臣姓也(槭ハ和名秒云和名以比、准南子決塘発槭註云槭所以□竇トアリ今云埋樋也)北山筋ニ飯田村アリ其訓協ヘリ。後飯田氏ハ武田ノ氏族ニアリ。『姓氏録』
三枝連
日本紀ニ顕宗天皇三年(日本書紀・487)夏四月戊辰置福草部姓氏録ニ三枝ノ連、天津彦根命十四世孫建呂巳命之後也 『日本紀』
頭宗天皇御世集ニ諸氏賜饗醺于時宮廷有三茎之章献之因賜姓三枝部連云々(延喜式云福草端草也朱草別名也生宗廟中云々。
和名抄云佐木久佐、又加賀国江沼郡、飛騨国大野都等ニ三枝郷アリ佐以久佐ト訓ス、是福草ノ遺称ナルヘシ)『和名抄』
拾芥抄ニ率川社南在社三枝御子也以三枝華・餝・酒樽祭故日三枝ノ祭神祇令ニノセ和歌ニモ詠リ。『拾芥抄』
続日本後紀承和十一年(844)五月丙由甲斐国山梨郡人伴直富成カ女、年十五嫁郷人三枝直平麻呂生一男一女而承和四年(837)平麻呂死去也。厥後守節不改、年也四己十四而攀号不止、恒事斎食榜於霊床宛如存日量彼操履堪為節婦考勅宣終身免其戸田租即標門閭以旌節行トアリ。『続日本後紀』
三枝家伝ニ守国罪ヲ蒙り甲州東都能路ニ配流セラレ後ニ在庁官人トナリ鎌田氏之女ヲ娶リ四男子ヲ生ム(中略)柏尾寺ヲ建テ氏寺ト為ス長徳四年戊戊(998)九月十九日卒年百六十ト見エタレハ其生誕ハ承和六年(839)ニ当レリ。然レハ彼ノ配流以前ヨリ本州ニハ三枝直ヒ者アリシ事明ナリ。是即チ三枝部ノ祖ナルヘシ。
『三枝家伝』
長寛勘文ニ甲斐守藤原朝臣忠重、目代右馬允中原清弘在庁官人三枝守政絞刑ニ処スト見エタレハ、斯ル時ニ三枝ノ本家断絶ニ及ビシカ後ノ記載ニ顕レタル者ナシ。柏尾山所蔵正安三年(1301)上マキ用途勧進ノ記ニ三枝吉家、三枝正家アレト其 人へ審ナラス。『長寛勘文』
信虎ノ時石原丹波守ニ命シテ旧祀ヲ秦ジ三枝姓ヲ輿サシム事ハ将師部ニ委シ。三枝系図ニ所記守国五男子アリ(兄弟ノ行次ハ異説アリテ不分明)
石原太郎守氏
母ハ石原氏長男為り。或五男石原介守時ニ作ル後ノ三枝氏ハ此苗裔ヨリ興ル。
能呂介守将
母ハ鎌田氏以下同シ。能呂ハ山梨郡ノ郷名也。後ニ其一類ヲ称シテ能呂党ト云。辻ト云地名モ郷中ニアリ。別ニ氏トナル各土庶部ニ記ス。
林戸介守党(守当守常ニ作ル)
同郡ノ郷名ナリ。前ニ出ツ。
立河介守忠
同郡ノ庄名ナり。或ハ太刀河、竪河、館川ニモ作ル彼条ニ委シ。
隠曾介守継
於曾ハ同郡ノ郷名ナリ。後ニ武田家ヨリ紹ク。親族部ニ記ス。萩原ト云地モ近隣ニ在リ同族ナリト云。世ニ称スル所ノ三枝七名トハ三枝、能呂、林戸、於曽、石原、立河、辻(辻或萩原ト為ス)是ナリ。外ニ窪田、石坂、山下、沓間(久津間ニ作ル)内田 等ノ諸氏三枝姓目ラ出ツト云。但シ三枝ハ姓也諸記ニ三枝松氏トモ書ス。未ダ其所以ヲ知ラズ。又柏尾山、窪八幡等所蔵寛氷中(1624~1643)三枝伊豆守守昌等ノ文書ニハ皆源姓ト記セリ。其余紀姓トシ平姓ト称スル者アリ。明拠ナクンバ誤ト云へシ。
熊野村熊野神社応仁元年(1467)ノ棟札ニ三枝臣菱山真徳、同社天文十八年(1549)ノ棟札ニ三枝朝臣石原孫石衛門甫直ト記セリ。三枝グ尸(カバネ)へ連ナルヲ臣又朝臣トモ書セルコト如何ナレトモ姓ヲハ忘却セザリシナリ。
日本紀ニ天武天皇白鳳元年(672)発束海東山軍云々、甲斐勇者トアリ。又按諸史古時令諸国貢進捻膂力人(或相撲人ニ作ル)及軍団兵庫倉廩ヲ置キ防人ヲ命セラル。『日本紀』
日本紀ニ顕宗天皇三年(日本書紀・487)夏四月戊辰置福草部姓氏録ニ三枝ノ連、天津彦根命十四世孫建呂巳命之後也 『日本紀』
頭宗天皇御世集ニ諸氏賜饗醺于時宮廷有三茎之章献之因賜姓三枝部連云々(延喜式云福草端草也朱草別名也生宗廟中云々。
和名抄云佐木久佐、又加賀国江沼郡、飛騨国大野都等ニ三枝郷アリ佐以久佐ト訓ス、是福草ノ遺称ナルヘシ)『和名抄』
拾芥抄ニ率川社南在社三枝御子也以三枝華・餝・酒樽祭故日三枝ノ祭神祇令ニノセ和歌ニモ詠リ。『拾芥抄』
続日本後紀承和十一年(844)五月丙由甲斐国山梨郡人伴直富成カ女、年十五嫁郷人三枝直平麻呂生一男一女而承和四年(837)平麻呂死去也。厥後守節不改、年也四己十四而攀号不止、恒事斎食榜於霊床宛如存日量彼操履堪為節婦考勅宣終身免其戸田租即標門閭以旌節行トアリ。『続日本後紀』
三枝家伝ニ守国罪ヲ蒙り甲州東都能路ニ配流セラレ後ニ在庁官人トナリ鎌田氏之女ヲ娶リ四男子ヲ生ム(中略)柏尾寺ヲ建テ氏寺ト為ス長徳四年戊戊(998)九月十九日卒年百六十ト見エタレハ其生誕ハ承和六年(839)ニ当レリ。然レハ彼ノ配流以前ヨリ本州ニハ三枝直ヒ者アリシ事明ナリ。是即チ三枝部ノ祖ナルヘシ。
『三枝家伝』
長寛勘文ニ甲斐守藤原朝臣忠重、目代右馬允中原清弘在庁官人三枝守政絞刑ニ処スト見エタレハ、斯ル時ニ三枝ノ本家断絶ニ及ビシカ後ノ記載ニ顕レタル者ナシ。柏尾山所蔵正安三年(1301)上マキ用途勧進ノ記ニ三枝吉家、三枝正家アレト其 人へ審ナラス。『長寛勘文』
信虎ノ時石原丹波守ニ命シテ旧祀ヲ秦ジ三枝姓ヲ輿サシム事ハ将師部ニ委シ。三枝系図ニ所記守国五男子アリ(兄弟ノ行次ハ異説アリテ不分明)
石原太郎守氏
母ハ石原氏長男為り。或五男石原介守時ニ作ル後ノ三枝氏ハ此苗裔ヨリ興ル。
能呂介守将
母ハ鎌田氏以下同シ。能呂ハ山梨郡ノ郷名也。後ニ其一類ヲ称シテ能呂党ト云。辻ト云地名モ郷中ニアリ。別ニ氏トナル各土庶部ニ記ス。
林戸介守党(守当守常ニ作ル)
同郡ノ郷名ナリ。前ニ出ツ。
立河介守忠
同郡ノ庄名ナり。或ハ太刀河、竪河、館川ニモ作ル彼条ニ委シ。
隠曾介守継
於曾ハ同郡ノ郷名ナリ。後ニ武田家ヨリ紹ク。親族部ニ記ス。萩原ト云地モ近隣ニ在リ同族ナリト云。世ニ称スル所ノ三枝七名トハ三枝、能呂、林戸、於曽、石原、立河、辻(辻或萩原ト為ス)是ナリ。外ニ窪田、石坂、山下、沓間(久津間ニ作ル)内田 等ノ諸氏三枝姓目ラ出ツト云。但シ三枝ハ姓也諸記ニ三枝松氏トモ書ス。未ダ其所以ヲ知ラズ。又柏尾山、窪八幡等所蔵寛氷中(1624~1643)三枝伊豆守守昌等ノ文書ニハ皆源姓ト記セリ。其余紀姓トシ平姓ト称スル者アリ。明拠ナクンバ誤ト云へシ。
熊野村熊野神社応仁元年(1467)ノ棟札ニ三枝臣菱山真徳、同社天文十八年(1549)ノ棟札ニ三枝朝臣石原孫石衛門甫直ト記セリ。三枝グ尸(カバネ)へ連ナルヲ臣又朝臣トモ書セルコト如何ナレトモ姓ヲハ忘却セザリシナリ。
日本紀ニ天武天皇白鳳元年(672)発束海東山軍云々、甲斐勇者トアリ。又按諸史古時令諸国貢進捻膂力人(或相撲人ニ作ル)及軍団兵庫倉廩ヲ置キ防人ヲ命セラル。『日本紀』
延喜式ニ健児甲斐国五十人トアリ。凡べテ姓名ヲ記サズ。同書ニ持統天皇二年(688)五月戊午朔、乙丑以百渚敵須徳那利移甲斐国ト見ユ。其事解スヘカラス。『延喜式』
田辺史
姓氏録ニ豊城入彦命四世孫大荒田別命之後也。又田辺宿禰アリ。続日本紀天平中(729~765)甲斐国守田辺史広足見ユ後ノ田辺氏是ヨリ伝ハルカ。其世ハ既ニ□焉タリ。『姓氏録』
姓氏録ニ豊城入彦命四世孫大荒田別命之後也。又田辺宿禰アリ。続日本紀天平中(729~765)甲斐国守田辺史広足見ユ後ノ田辺氏是ヨリ伝ハルカ。其世ハ既ニ□焉タリ。『姓氏録』
小谷直
続日本紀神護景雲二戊申年(766)五月辛未甲斐国八代郡人小谷直五百依以孝見称復其田祖終身ト按ニ八代郡ニ大谷山アリ。大ノ言へ小ニ混ズ大田切、小田切ノ類ノ如シ是其遺名なランカ。又其条ニ委シ。『続日本紀』
続日本紀神護景雲二戊申年(766)五月辛未甲斐国八代郡人小谷直五百依以孝見称復其田祖終身ト按ニ八代郡ニ大谷山アリ。大ノ言へ小ニ混ズ大田切、小田切ノ類ノ如シ是其遺名なランカ。又其条ニ委シ。『続日本紀』
石川・広石野
日本後紀延暦十八年己卯(799)十二月五日甲戊甲斐国人止弥若蟲、久信耳鷹長等一百九十人言己等先祖元是百済人也。仰慕聖朝航海投化即天朝降縞旨安置摂津職後依丙寅歳正月廿七日格更遷甲斐国自爾以来年序既久伏奉去既久伏奉去天平勝宝九歳(天平宝宇元年/757)四月胃勅稱其高麗、百済、新羅人等遠慕聖化来附我俗情願賜姓悉聴許之而己等先租未改蕃姓伏請蒙改姓者賜若蟲姓石川、鷹長等姓広石野トアリ。『日本後紀』
姓氏緑ニ石川朝臣孝元天皇皇子彦太忍信命之後也、広石野都留郡ニ小篠村アリ若シクハ其遺名ナランカ。『姓氏緑』
日本後紀延暦十八年己卯(799)十二月五日甲戊甲斐国人止弥若蟲、久信耳鷹長等一百九十人言己等先祖元是百済人也。仰慕聖朝航海投化即天朝降縞旨安置摂津職後依丙寅歳正月廿七日格更遷甲斐国自爾以来年序既久伏奉去既久伏奉去天平勝宝九歳(天平宝宇元年/757)四月胃勅稱其高麗、百済、新羅人等遠慕聖化来附我俗情願賜姓悉聴許之而己等先租未改蕃姓伏請蒙改姓者賜若蟲姓石川、鷹長等姓広石野トアリ。『日本後紀』
姓氏緑ニ石川朝臣孝元天皇皇子彦太忍信命之後也、広石野都留郡ニ小篠村アリ若シクハ其遺名ナランカ。『姓氏緑』
上村村・小長谷直
日本逸史天長六年己酉年(829)十月乙丑甲斐国人節婦上村主万女叙位二級終身免戸田租万女年十五嫁小長谷直浄足生三男一女去大同三年(808)浄足死去自爾以後礼敬虚霊猶甲如在村里称之ト按ルニ姓氏録ニ上村主出自魏武帝陳思王植之後也。一号東阿王又広階(ヒロハシ)連同祖通剛王之後也トアリ。『日本逸史』
山梨郡ニ加美郷、都留都賀美郷アリ。小長谷モ都留郡ニ強瀬村アリ。永正十七年(1520)岩殿権現棟札強瀬四郎三郎同六郎ト見ユ。又小長谷長門守道友ト云者壬午ノ後幕府ニ奉仕ス同十九卯年死六十二歳也法名常栄ト号ス。
大村ノ直
姓氏緑ニ天道根命六世孫若積命之後又紀直岡祖大名草彦命男枳弥命之後也。(紀州ニ名草都牟婁都アリ室、村ハ通用)山梨郷、加美郷ニ後牧之荘ヲ層キ馬城ヲ三段ニ分チテ中牧、西保(保ハ部也)等ノ名アリ。中牧ニ大村ト云処アリテ大室、大牟礼トモ呼ヘリ(牟礼トハ族集ノ義ニテ村室モ同言葉ナリ)是大村直ノ拠ル所カ。後ニハ大村一党トテ党ヲ樹ル土人アリ。室臥、奥葛間、西保、小田、武河等ノコトハ古跡部ニ記ス。
要部、田井、古爾、玉井、要部、大井、解礼、中井、
続日本紀延暦元壬成年(782)六月庚辰甲斐国山梨郡人外正八位下要部上麻呂等改本姓為田井古爾等為玉井鞠部等為大井解礼等為中井並以其情願也。『続日本紀』
日本逸史天長六年己酉年(829)十月乙丑甲斐国人節婦上村主万女叙位二級終身免戸田租万女年十五嫁小長谷直浄足生三男一女去大同三年(808)浄足死去自爾以後礼敬虚霊猶甲如在村里称之ト按ルニ姓氏録ニ上村主出自魏武帝陳思王植之後也。一号東阿王又広階(ヒロハシ)連同祖通剛王之後也トアリ。『日本逸史』
山梨郡ニ加美郷、都留都賀美郷アリ。小長谷モ都留郡ニ強瀬村アリ。永正十七年(1520)岩殿権現棟札強瀬四郎三郎同六郎ト見ユ。又小長谷長門守道友ト云者壬午ノ後幕府ニ奉仕ス同十九卯年死六十二歳也法名常栄ト号ス。
大村ノ直
姓氏緑ニ天道根命六世孫若積命之後又紀直岡祖大名草彦命男枳弥命之後也。(紀州ニ名草都牟婁都アリ室、村ハ通用)山梨郷、加美郷ニ後牧之荘ヲ層キ馬城ヲ三段ニ分チテ中牧、西保(保ハ部也)等ノ名アリ。中牧ニ大村ト云処アリテ大室、大牟礼トモ呼ヘリ(牟礼トハ族集ノ義ニテ村室モ同言葉ナリ)是大村直ノ拠ル所カ。後ニハ大村一党トテ党ヲ樹ル土人アリ。室臥、奥葛間、西保、小田、武河等ノコトハ古跡部ニ記ス。
要部、田井、古爾、玉井、要部、大井、解礼、中井、
続日本紀延暦元壬成年(782)六月庚辰甲斐国山梨郡人外正八位下要部上麻呂等改本姓為田井古爾等為玉井鞠部等為大井解礼等為中井並以其情願也。『続日本紀』
田井ハ地名不詳後ニ武田氏ヨリ紹キ田井五郎光義ト云者アリ。玉井ハ山梨郡東部ノ郷名也。八雲御鉱ニハ玉ノ井ノ里ト見ユ。本州ノ姓氏ニハ聞エタル人ナシ。鞠部「カナマリ」ト副スヘシ
東鑑ニ上総国ニ金鞠藤次アリ。後ノ記録ニ金丸氏トス。本州ノ金丸氏ハ武田ヨリ嗣キ鞠部ノ廃迹ヲ輿スナリ。将帥部ニ委シ信州ノ丸子駿州ノ鞠子亦之ニ類スヘシ。
国守部ニ記スル所ノ丸部臣ハ鞠部ニ同シカラス。東鑑ニ安房国丸ノ御厨又丸五郎信俊ト云者見エタリ。後ニ丸、東条、安西、金鞠トテ彼国ノ四家ト称ス。本州ニ丸氏ハ所聞ナシ『東鑑』
東鑑ニ上総国ニ金鞠藤次アリ。後ノ記録ニ金丸氏トス。本州ノ金丸氏ハ武田ヨリ嗣キ鞠部ノ廃迹ヲ輿スナリ。将帥部ニ委シ信州ノ丸子駿州ノ鞠子亦之ニ類スヘシ。
国守部ニ記スル所ノ丸部臣ハ鞠部ニ同シカラス。東鑑ニ安房国丸ノ御厨又丸五郎信俊ト云者見エタリ。後ニ丸、東条、安西、金鞠トテ彼国ノ四家ト称ス。本州ニ丸氏ハ所聞ナシ『東鑑』
解札
後世塩入氏ノ類ニテ加入海瀬ナト云氏族アリ。是其遺称ナランカト云者アリ未穏。
中井
本州ニ所闇ナシ。並ニ要部、古爾、未考。
大井
巨摩都ノ郷名ナリ。山梨郡ニモ大井窪ト云処アリ。大井郷ハ後ニ大井ノ圧トモ云。
宇治袷遺物語ニ
甲斐国の相撲大井光遠はひざふとにいかめしく力つよく足はやくみめことからよりはいみじかりし相撲なり。それが妹に年廿六七ばかりなる女のみめことからけはひもよくすがたもほそやかなるありけりそれはのさたが家にすみけるにそれが門に人におはれたる男の刀をぬきてはしり入てこの女をしちにとりて脇に刀をさしあてゝ居ぬ人はしり行てせうとの光遠に姫君は質にとられ行ぬとつげられは光遠がいふやうそのおもては薩摩の氏長ばかりにこそはしちにとらめといひてなにとなくてゐたれはつけつるをのとあやしと流もひてたちかへりて物よりのぞけは九月はかりの事なれば薄色の衣重に紅葉の袴をきて口おほひしてゐたり男は大なるおのこのおそろしけなる大の刀をさかてにとりて腹にさしあてゝあしをもてうしろよりいたきてゐたりこの姫君左の手してはかほをふたぎてなく右の手しては前に矢のゝあとつくりたるが二三十ばかりあるをとりて手すさみに節のもとを指にて板敷にをしアてゝにじれば朽木のやはらかなるをおしくだくやうにくたくるをこのぬす人目をつけて見るにあさましくなりぬいみしからんせうとのぬしかな槌をもちて打くたくともかくはあらしゆゝしかりけるちからかなこのやうにてはたゞいまのまにわれはとりくだかれぬべしむやくなりにげなんと思て人めをはかりてとびいてゝにげはしる時にすゑに人ともはしりあひてとらへ行しばりて光遠かもとへぐして行ぬ云々
後世塩入氏ノ類ニテ加入海瀬ナト云氏族アリ。是其遺称ナランカト云者アリ未穏。
中井
本州ニ所闇ナシ。並ニ要部、古爾、未考。
大井
巨摩都ノ郷名ナリ。山梨郡ニモ大井窪ト云処アリ。大井郷ハ後ニ大井ノ圧トモ云。
宇治袷遺物語ニ
甲斐国の相撲大井光遠はひざふとにいかめしく力つよく足はやくみめことからよりはいみじかりし相撲なり。それが妹に年廿六七ばかりなる女のみめことからけはひもよくすがたもほそやかなるありけりそれはのさたが家にすみけるにそれが門に人におはれたる男の刀をぬきてはしり入てこの女をしちにとりて脇に刀をさしあてゝ居ぬ人はしり行てせうとの光遠に姫君は質にとられ行ぬとつげられは光遠がいふやうそのおもては薩摩の氏長ばかりにこそはしちにとらめといひてなにとなくてゐたれはつけつるをのとあやしと流もひてたちかへりて物よりのぞけは九月はかりの事なれば薄色の衣重に紅葉の袴をきて口おほひしてゐたり男は大なるおのこのおそろしけなる大の刀をさかてにとりて腹にさしあてゝあしをもてうしろよりいたきてゐたりこの姫君左の手してはかほをふたぎてなく右の手しては前に矢のゝあとつくりたるが二三十ばかりあるをとりて手すさみに節のもとを指にて板敷にをしアてゝにじれば朽木のやはらかなるをおしくだくやうにくたくるをこのぬす人目をつけて見るにあさましくなりぬいみしからんせうとのぬしかな槌をもちて打くたくともかくはあらしゆゝしかりけるちからかなこのやうにてはたゞいまのまにわれはとりくだかれぬべしむやくなりにげなんと思て人めをはかりてとびいてゝにげはしる時にすゑに人ともはしりあひてとらへ行しばりて光遠かもとへぐして行ぬ云々
日蓮年譜ニ弘安五年(1282)九月九日大士大井ノ荘司ニ投宿スト見エタリ。諸書ニ荘司ハ日蓮ノ弟子日興ノ父トス。
日輿ハ六老僧ノ一員ニテ富士派ノ所祖ナリ(信州ニ大井圧二所アリ東鑑ニ載セタル大井兵三次郎実治、大井紀石衛門実平等ハ紀姓也。
又小笠原次郎長清ノ七男大井太郎朝光ト云者佐久郡大井ヲ食テ岩村田ニ居ス。子孫繁シ皆本州ノ大井姓ト異ナリ(武田陸奥守信武ノ次男信明大井弾正少弼ト号ス)廃祀ヲ輿スナリ。
是ヨリ本姓源ヲ称シテ大井ハ氏族ノ如クナレリ。西郡士庶部ニ詳ナル故ニ此ニ略ス。
日輿ハ六老僧ノ一員ニテ富士派ノ所祖ナリ(信州ニ大井圧二所アリ東鑑ニ載セタル大井兵三次郎実治、大井紀石衛門実平等ハ紀姓也。
又小笠原次郎長清ノ七男大井太郎朝光ト云者佐久郡大井ヲ食テ岩村田ニ居ス。子孫繁シ皆本州ノ大井姓ト異ナリ(武田陸奥守信武ノ次男信明大井弾正少弼ト号ス)廃祀ヲ輿スナリ。
是ヨリ本姓源ヲ称シテ大井ハ氏族ノ如クナレリ。西郡士庶部ニ詳ナル故ニ此ニ略ス。
吉弥候部キミコベ
日本逸史弘仁十四年(823)五月戊午甲斐国賊首吉弥候部井出麻呂等大少男女十三人悉配流伊豆国。『日本逸史』
日本逸史弘仁十四年(823)五月戊午甲斐国賊首吉弥候部井出麻呂等大少男女十三人悉配流伊豆国。『日本逸史』
天長八年(831)二月戊寅甲斐国浮囚吉弥候部三気麻呂、同姓草手子二烟附實駿河国使無塩也。(類聚国史ニ吉弥候部ヲ作二吉弥雙部一誤也又使無塩也。作下便無塩也。
天平宝字元年(757)三月勅故君子部為吉美候部姓氏録ニ吉弥雙部ハ上毛野朝臣同祖也トアリ)
壬生直
三代実録元慶六年(880)十一月朔己巳甲斐国巨塵都人左近衛将曹従六位上壬生直益成男三人女四人山城国愛宕郡ヲ實隷ストアリ。逸見筋小尾ニ丹生ト云地名アリ。壬生ノ忠岑本州ノ役ニ補セラル事アリ。『三代実録』
壬生直
三代実録元慶六年(880)十一月朔己巳甲斐国巨塵都人左近衛将曹従六位上壬生直益成男三人女四人山城国愛宕郡ヲ實隷ストアリ。逸見筋小尾ニ丹生ト云地名アリ。壬生ノ忠岑本州ノ役ニ補セラル事アリ。『三代実録』
清原真人
三代実録元慶八年(882)十二月五日壬戌甲斐国言嘉未禾管山梨郡石禾郷正六位清原真人当仁宅一其一十三茎五十穂、其一十二茎三十六穂当仁是従四位下豊前王之子也(石氷当作石禾)其子孫ノ事ハ大石和筋ニアリ。『三代実録』
三代実録元慶八年(882)十二月五日壬戌甲斐国言嘉未禾管山梨郡石禾郷正六位清原真人当仁宅一其一十三茎五十穂、其一十二茎三十六穂当仁是従四位下豊前王之子也(石氷当作石禾)其子孫ノ事ハ大石和筋ニアリ。『三代実録』
小野
姓氏録ニ小野朝臣大春日朝臣同祖、彦姥津命五世孫米餅搗大使主命之後也。大徳小野臣妹子家于近江国滋賀郡小野村因以為氏、又小野臣天足彦国押入命七世孫人花命之後也、『姓氏録』
本朝世紀天慶四年(941)十一月二日戊午甲斐国真衣野柏前御馬十五匹到来云云。其解文左馬少允小野国輿持参トアリ。都留郡ニ小野村アリ。又穂坂ノ小野ハ歌ニモ詠メリ。国輿ハ本州ニ在リシ牧監ノ類ナルヘシ同紀左馬権少届秦忠見御馬便彼国大目伴並高左馬少允源致等見ユ皆牧馬ノ吏ナリ『本朝世紀』
姓氏録ニ小野朝臣大春日朝臣同祖、彦姥津命五世孫米餅搗大使主命之後也。大徳小野臣妹子家于近江国滋賀郡小野村因以為氏、又小野臣天足彦国押入命七世孫人花命之後也、『姓氏録』
本朝世紀天慶四年(941)十一月二日戊午甲斐国真衣野柏前御馬十五匹到来云云。其解文左馬少允小野国輿持参トアリ。都留郡ニ小野村アリ。又穂坂ノ小野ハ歌ニモ詠メリ。国輿ハ本州ニ在リシ牧監ノ類ナルヘシ同紀左馬権少届秦忠見御馬便彼国大目伴並高左馬少允源致等見ユ皆牧馬ノ吏ナリ『本朝世紀』
榎下・宮道・麻生
東鑑ニ建久五年(1194)八月廿日戊申遠江守ノ(安田義定ナリ)伴類五人名越辺被刎首所語前滝口榎下重兼、前石馬允、宮道遠式、麻生平大胤国、柴藤々三武藤五郎等也トアリ。榎下ノ事ハ大石和筋ニ記ス。姓氏録ニ榎本連ハ大伴運同相也、麻生ハ逸 見筋ニ地名ニアリ今浅尾村ト云、宮道柴藤ハ所伝詳ナラス其頃官名ヲ帯ビタル人ハ皆在庁ノ国土ト見エタリ。称スル所モ姓ニシテ氏族ニ非サル人多力ルヘシ。『東鑑』
東鑑ニ建久五年(1194)八月廿日戊申遠江守ノ(安田義定ナリ)伴類五人名越辺被刎首所語前滝口榎下重兼、前石馬允、宮道遠式、麻生平大胤国、柴藤々三武藤五郎等也トアリ。榎下ノ事ハ大石和筋ニ記ス。姓氏録ニ榎本連ハ大伴運同相也、麻生ハ逸 見筋ニ地名ニアリ今浅尾村ト云、宮道柴藤ハ所伝詳ナラス其頃官名ヲ帯ビタル人ハ皆在庁ノ国土ト見エタリ。称スル所モ姓ニシテ氏族ニ非サル人多力ルヘシ。『東鑑』
榛源公
姓氏緑ニ息長真人同祖 誉田天皇ノ皇子大山守ノ命ノ後也トアリ。榛原ハ泰原(ハリバラ)ニ同シ。遠州泰原郡(倭名抄訓波伊波良)貝原ガ大和本草ニ榛ノ葉榿木(ハンノキ・ハリノキ)似タリ。故ニ榛原ヲ「ハリハラ」ト訓スル由見エタリ。『姓氏緑』
姓氏緑ニ息長真人同祖 誉田天皇ノ皇子大山守ノ命ノ後也トアリ。榛原ハ泰原(ハリバラ)ニ同シ。遠州泰原郡(倭名抄訓波伊波良)貝原ガ大和本草ニ榛ノ葉榿木(ハンノキ・ハリノキ)似タリ。故ニ榛原ヲ「ハリハラ」ト訓スル由見エタリ。『姓氏緑』
武州ノ榛谷(ハンガヤ)榛沢ト云地名ノ如シ。本州ニ榛原氏アリ又埴原ト書ケルハ信州埴科(ハンシナ)郡ノ地名ナリ「ハニ」ト訓スヘシ。 相混セシト見エタリ。
余戸
和名抄所載ノ郷名也。他州ニモ同名多シ其義延喜式等ニ見ユ「アマリ」ト副スベシ。後甘利ニ作ル武田ノ親族ナリ『和名抄』
和名抄所載ノ郷名也。他州ニモ同名多シ其義延喜式等ニ見ユ「アマリ」ト副スベシ。後甘利ニ作ル武田ノ親族ナリ『和名抄』
真衣
(真衣野・真木野トモアリ)共ニ武河筋ニ在ル郷名ナリ。氏族ノコト未考。
高村ノ宿禰
姓氏録ニ出目魯恭王之後青州刺史列宗王也。今作高室地名在巨摩西郡小笠原氏ヨリ紹ク所也。『姓氏録』
錦織村主
同書ニ出目韓国人波努志也。地名同郡奈胡圧ニ在リ。錦織判官代ト云者太平記ニ見エタリ。奈胡五味等モ此庄ニ出ツ。
加賛美部(又鏡ニ作ル〉
姓氏録各務(カガム)ハ未者ノ内ニアリ。武田親族加賀美氏ノ拠ル所ナリ。小笠原モ此西ニ在リ。『姓氏録』
川合
姓氏緑ニ上毛野同氏多寄波世君之後ナリ。川合ハ郷名ニ在リ。後ニ河内ト云。武田親族ヨリ紹ク南部、下山岩間、下部等此郷ノ庄名ナリ。『姓氏緑』
(真衣野・真木野トモアリ)共ニ武河筋ニ在ル郷名ナリ。氏族ノコト未考。
高村ノ宿禰
姓氏録ニ出目魯恭王之後青州刺史列宗王也。今作高室地名在巨摩西郡小笠原氏ヨリ紹ク所也。『姓氏録』
錦織村主
同書ニ出目韓国人波努志也。地名同郡奈胡圧ニ在リ。錦織判官代ト云者太平記ニ見エタリ。奈胡五味等モ此庄ニ出ツ。
加賛美部(又鏡ニ作ル〉
姓氏録各務(カガム)ハ未者ノ内ニアリ。武田親族加賀美氏ノ拠ル所ナリ。小笠原モ此西ニ在リ。『姓氏録』
川合
姓氏緑ニ上毛野同氏多寄波世君之後ナリ。川合ハ郷名ニ在リ。後ニ河内ト云。武田親族ヨリ紹ク南部、下山岩間、下部等此郷ノ庄名ナリ。『姓氏緑』
神服部
逸見郷ニ神取村アリ。或加鳥ニ作ル。日本紀神護景雲三年(769)奉神服部天下諸社トアリ。是其遺名ナルヘシト云。
青沼
北山筋ノ郷名ナリ後ノ青沼氏ハ将帥部ニアリ。又穂坂庄モ此筋ニ在リ。
逸見郷ニ神取村アリ。或加鳥ニ作ル。日本紀神護景雲三年(769)奉神服部天下諸社トアリ。是其遺名ナルヘシト云。
青沼
北山筋ノ郷名ナリ後ノ青沼氏ハ将帥部ニアリ。又穂坂庄モ此筋ニ在リ。
葛野
鹿角(カツヌ) 又加澤野ニ作ル。ヌノ仮名ハ通用ナリ。将帥部ニ出ス。亦勝沼氏之ニ同シカルヘシ都留郡ニ葛野村アリ。
鹿角(カツヌ) 又加澤野ニ作ル。ヌノ仮名ハ通用ナリ。将帥部ニ出ス。亦勝沼氏之ニ同シカルヘシ都留郡ニ葛野村アリ。
波加利
都留郡ノ荘ノ名ナリ。初雁氏。初鹿野氏ニ之ニ同ジカラント云ヘリ。将帥部ニ出ツ。
古郡 古都ハ同郡ノ郷名ナリ東鑑ニ古郡左衛門尉保志ノ事アリ。旧キ国人ナルヘシ。後ノ古郡氏ハ蓋シ此ニ出ツ。将帥部ニ委シ。