引用史料 『日本随筆』より抜粋
《高坂弾正と言者高野の書帖有》可成三註(篠崎東海等)
則按、或云、軍艦は高坂弾正忠昌信記之。其臣春日惣三郎附記すと云へども、軍艦より結要本来書、中巻及び下巻、三韜本彼已の巻、寒暑兩本に至るまで、小幡勘兵衛景憲著す所と。一説には、文字に疎くして、清書の時叔姪に禅僧ありて手を借ると。独り軍法巻は高坂霜臺が遺書にして、景憲晩年に下巻を撰す。井上義備曰、備本南越福井の産なり。原氏、真田氏、高坂氏、其餘甲州之士在於福井。以甲軍志傳之於東都。談兵者又多。共以高坂昌信為眞。何以高野一書牘欺天下之士耶。可謂誤矣。井上義備子政。號石渓花。惣平。
《小幡勘兵衛景憲の養子》三省録(志賀忍)
小幡勘兵衛景憲が実子なきを以て、何某の次男を養子としける。そのころ若輩の面々は、丹前風とて髪の結やうより大小衣類にいたるまで、異様なる風俗なりし、小幡が養子も若年のことゆゑ、その風をまなびて、鏡二面を用て髪つくろひけるを、父景憲とがめて申は、若輩なれども武士の家に生るゝ身として、二面の鏡もてかたちつくろうふこと、遊女野郎の所為なりと立腹し義絶せられけり。この人武功におゐては人のゆるせし事なり。乱舞も巧者にて、その外細工もよくせられたり。(『明良洪範後編』)
《川中島》薫風雑話(渋川時英)
昔川中島の役に、謙信の一騎にて引るゝ處を、甲州方の士凡十八人にて取囲み討んとせしが、謙信に斬払はれて寄付こともならざりしといへり。謙信ならば左もあるべき事ににて、扨今日霜辛雪苦を犯して、心を苦しめ骨を折るかはりには、誰々もその場を自得しかき者なり。
《見きり》松の落葉(藤井高尚)
甲陽軍艦に、山本勘助がいへらく、まけ軍にも見きりをよくしてふみとゞまるべしといへり。げにさることにて、たゝかひのみかは何事をなすにも、此見きりといふことを心えてあらんには、いたくあやまることはあらじ。
《甲陽軍艦の著者、高坂弾正》卯花園漫録(石上宜續)
甲陽軍艦を高坂弾正書たると、世に傳ふる事久し。勝頼に仕へし反町大膳武功の人にて、甲州滅て後引籠り隠れ居たる物には、香坂としるせり。姓も違ひ、偽妄多き書なりといへども、軍国の事情を能書たる故、其虚妄を人は疑はず。控弦の家専読むべき物と、古人も云しなり。然れども其事実を按じ、其真意を考へずば、大に惑はれなん事必然なり。川中島九月十日の合戦の事、記せしに依て是を論ずる内、信玄の敗北たる事疑ふべからず。卯の刻に初りたるは越後の方勝、巳の刻に始りたるは甲州の勝なりと記せり。軍は芝居を踏へたる方をもって勝とする事を、甲陽軍艦に論ず、明白なり。然れば其日戦、信玄芝居(戦い)を踏へられしとは云べからず。
既に山本勘助が其軍を豫め云たりしにも、二萬の兵を一萬二千、謙信の陣西条山へさし向、合戦を始めなば、越後の軍勝つとも負るとも、川を越退ん所を、旗本組二陣を以て、首尾を撃んと謀しなり。然れば謙信客戦なる故に、思ふ勝利を得たりとも、越後へ引返すは極りたる事なり。是主戦の敵に勝たればとて、宜しく其地に在るべきに非るを以てなり。是を以ていへば、信玄芝居を踏たればとて、勝とは云べからず。是一つ。又信玄芝居を踏へたりとも云がたきは、甘糟近江守犀川を渋りて三日止りたるを、甲斐より押寄て軍する事能はざりき。是越後の軍芝居を踏へたるに非ずや。是二つ。昔老人の物語に云傳へし事あり。信玄嫡子義信を殺されしは、継母の讒言ありしといへども、其實は川中島にて、信玄、義信将□に換らして、信玄は廣瀬の方へ引退く、敗軍とは云ながら、義信を捨殺すべき勢なりし故義信深く恨めるを以て、終に不和に及て殺されしに至れるとなり。信玄其場を踏む事能はずして、迯たるを以て、芝居を踏へたると云べきや。是三つ。謙信もとより甘糟を以て、川を渉るの後殿と定められしが、三日止りたるを以て見れば、甲陽軍艦に、甘糟が兵散亂せしと記せるも、虚妄なる時論を待ず。甘糟三日芝居を踏へたるに、謙信何事に狼狽して、主従二人高梨山に還りて走るべきや。謙信既に其前夜軍評定ありしに、謀しごとくなる旨、甲陽軍艦に記せし所明らかなり。初の合戦に打勝て、巳の時まで徒に敵の帰り来るを待敗走すべきや。謙信の弓箭を取れる越中の戦は、父の弔合戦なり。信濃に師を出すは村上義清に頼れて、
其求めに應じて是を救ふなり。相模の軍は上杉憲政の来るを容て、巳む事を得ざるなり。故に其詞にも、強て勝敗を見るに非ず。當る所のなぎて叶はざるの戦をなさんとのべり。信義を守るを大将の慎むべき事にせり。爰を以て深く頼みたるには終始約をただへず、又其兵を用るに信玄の及ぶべきに非ず。山の根の城を攻落せしに。信玄氏康両旗にて後援する事能はず。遙々と敵の中を旅行して京都に赴きたるも、勝れたる事ならずや。信玄は謙信小田原へ攻め入たる跡に、討てなしたるはなし易きに非ずや。甲陽軍艦に、長沼を城を築れし時、判兵庫に信州水内郡にて百貫の地を與へ、信州戸隠にて、密供を修す。爰に北越の輝虎世に讒臣を企つと、〔割註〕此次切れて見えずと記せり。」
永禄十一年謙信戸隠山にて、謙信を信玄呪咀する直筆の書を見て打笑ひ、弓箭とる身の恥なり。末代の寳物にせよと、神職に云れし由語り傳ふ。今其書紀州高野山にありと云。事詳に書記せる物あり。實は謙信を恐るゝ事、虎のごとしとも云べきにや。村上義清信州に再帰り入し事、甲陽軍艦に載せずといへども、永禄年中信州の中四郡謙信に属し、義清を信州へ入られし事を記する物あり。甲陽軍艦に長坂調(長)閑、跡部大炊助二人を、姦曲の臣として勝頼寵せられし事を深く憤れり。實にさる事なれども、二人權を取ることに勝頼に始れるに非ず。信玄の時分寵せられし故、勝頼に至りて深く威權ありき、信玄の時北条の兵に跡部敗れ走りしを、皆寵愛を憎しみ由を、甲陽軍艦に載たるをもって知べきなり。又云傳へしに説に、甲陽軍艦を著せし本意は弾正にて、筆執りは猿楽彦十郎と云ものなり。彦十郎は甲州滅て後、大久保忠隣の所にありて、東照宮の御事を書加へて、一書となしたるとなり。又或人の云しは、川中島の合戦の事を前夜に論じて、謙信強敵たる對々の人数にてさへ危きに、まして信玄の兵八千、輝虎は一萬二千なり。勝といふとも打死数多あるべきと、武田の名存は埋りなりと云ふ事を、甲陽軍艦に載たれば、勝は謙信にある事、分明なりと論ぜし人もありき。亦同じ書に載たる持氏生害、両上杉ほこり恣にて、武州川越にて北条に負たるは、天の罸なりと云へり。持氏の滅せしは永享十一年にて、氏康とは遙に百八年を隔たるを、同じ時に記せり。北条早雲は延徳二年に相模に打入たり。其頃上杉顕定は越後にあり。顕定は越後信濃の境長森原には、高梨に討れぬ。早雲さへ両上杉と如斯を、氏康いまだ生れざる以前の事共を、甲陽軍艦に記せし事誤りなり。天正六年七月十五日、管領朝定と北条氏綱と、武州川越の館にて夜軍あり、朝定討死なり。此合戦を両上杉と氏康、夜軍となして記せるにや。
同十五年四月廿日、持氏の五代の後、古河の晴氏と、管領上杉憲政と共に、川越にて氏康と合戦ありて、晴氏憲政敗北なり。是を甲陽軍艦に、両上杉と氏康と記せり。されば五代以前の持氏を公方と記し、五代以後の管領を両上杉となすなり。持氏四男成氏の長兄公方政氏なり。同人の長男に高基、高基の長男晴氏なりといへり。甲陽軍艦に載る功名の事、其虚妄多し。中に就て采配を手にかけてありし敵を討とりて首を得し事、いくばくと云事を知らず。すべて甲州の敵せし士八人がた、采配を手にかけしと見ゆ。寔に笑ふべきの書の記しさまなり。其儘虚妄勝て計べからず。然れ共其時に居て、戦国の勢を能知り、且士の事情に達せし者の書たる書なるゆゑ、弓箭とる者の翫ぶべき書にて、虚妄をもって棄べきにはあらず。又上杉義春入道入庵、京都に閑居してありしが、徒然のあまり甲陽軍艦を讀せて聞かれしが、事實謬れる事多く、又なき人の名を作りこしらへたるものあり。謙信の世の事は、予能く知りたるに、如斯誤れるなれば、此書更に信ずる足らずとて、復讀する事なかりしと云へり。今をもって是を見るに甲陽軍艦過半は贋物なり。又按ずるに、今世の専ら行はるゝ書に、川中島五戦記と云へる書あり。此書は川中島の戦五度なりと記せり。然れども其中に疑ふべき事なきにしもあらず。是又正しき書とも信ぜられず。謙信鶴ヶ岡に詣で、忍の成田を打たりしかば、関東の諸将人々心々に離散し、小荷駄を敵に奪はれ、僅に謙信遁得て越後へ帰りしと、甲陽軍艦に記したるも心得られず。関東の諸将なびき従ずば、いかでか其年京に上る事あるべき。是年
の情時勢の顕然たる事にして、甲陽軍艦の虚妄論を待ず。御上の説常山紀談に見えたり。
《甲陽軍艦の著者、高坂弾正》卯花園漫録(石上宜續)
荻生徂徠の南留別志に、高坂弾正と云者、高野に書状あり。香坂弾正左衛門虎綱といへり。されば甲陽軍艦他人の偽作なり事、いよいよあきらかなり。
《甲陽軍艦第八》南畝莠言(大田南畝)
甲陽軍艦第八云、人間六十二の身をたもとかねと云々。山谷跋舊書詩巻云、星家言。六十二不死。當壽八十餘。これらの事によりていふなるべし。一時の禅僧山谷の文をよみていひ傳へしなり。
《甲陽軍艦、峠と云ふ字》南畝莠言(大田南畝)
峠といふ字、甲陽軍艦に「到下」と書、臥雲日件録には江文峠とあり。中国には峠とかきて「タヲ」といふ。峠市、佐野のタヲうけのタヲなどなり。
《甲陽軍艦、須磨寺の桜》南畝莠言(大田南畝)
(前略)須磨寺に若木の桜制札とて紙に書しものあり。われは此制札の文を疑ふ事久し。(中略)因に云、甲陽軍艦〔第四十品〕関東上杉管領の制札に、此桜花一枝も折取候はゞ、あたり八間流罪死罪にん仰付らるべき者也。仍如件。とたてられたるなり。扨又、信玄公、甲府穴山小路眞立寺と申し法花寺に、紅梅の甲斐一国の事は申に及ばず、近国にもさのみ多なし。さるにつき右の眞立寺より花の制札を申請につき、則禁制の札に、此花一枝一葉たりといふともたおりとる輩これあるにおいて、げんかうかうようの例にまかせ申付べき者也。云々