武田三代年譜 永禄四年 1561
永禄四年 1561【長野】《信虎-68歳・信玄-41歳・勝頼-16歳》 ●二月十四日、武田信玄、諏訪上社の宝鈴を鳴らす銭額を上五貫文・中三貫文・下一貫二百文と定める。 ※三月、長尾景虎、信濃・越後と関東将士を率い、北条氏康を相模小田原城に囲む。 ※三月、長尾景虎、鎌倉鶴ヶ丘八幡宮の神前で関東管領就任を報告、上杉政虎と改名、 この日足利義氏擁立を約する。...
View Article感状・安堵状・書状からみた川中島の戦い 川中島合戦の調査報告
感状・安堵状・書状からみた川中島の戦い川中島合戦の調査報告私が此の研究調査をしたきっかけは、「武辺咄聞書」の次の記事でした。第44話...
View Article山本勘助は居なかった 歴史を一辺の書状で確定する危険性
市河(川)氏を称する武将と市河藤若の関連を探る 市川文書は甲斐の中世の歴史にとって重要な位置を占めている。 市川氏の発祥については甲斐国市川とされるのが一般的であるが、それが現在の 三郷町 市川(旧 市川大門町 ) か山梨市市川なのかは定かでない 。古代であれば 三郷町 市川は甲斐源氏新羅三郎義光の子息義清と孫の清光が、悪行の末に配流された場所である。中世に於いては武田家の活躍とその中枢的地域は...
View Article輿石森興 長坂町楯岡神社 「法楽百首」
輿石森興 長坂町建岡神社 「法楽百首」『長坂町誌』収録記事 一部加筆 「法楽百首」従五位土佐守森興は漢詩文、和歌に優れており、建岡神社の神官であった。建岡神社が有栖川宮家の御祈願所であったので京都に数度おもむき公家と親交があった。文化年間これらの人々により和歌が奉詠された。これが「法楽百首」であり、正四位賀茂角郷の撰文並びに書によるものである。現在奉納額として建同神社に掲げられ宝物となっている。...
View Article北杜市の先人 近世の俳諧 長坂町 馬城 万志羅
北杜市の先人 近世の俳諧 高根町 馬城『長坂町誌』 近世において俳諧という新しい抒情文芸が生まれた。俳諧の初期は貞門の俳諧であり、言語遊戯の幼稚なものであったが、風俗詩である談林の俳諧を経て文芸的な価値の高い蕉風の俳諧へと成長していった。芭蕉は俳諧を文芸として確立させた画期的の存在である。...
View Article甲府の能成寺にある松尾芭蕉の句碑 名月や池をめぐりて夜もすがら
甲府の能成寺にある松尾芭蕉の句碑 「甲州の文学碑」奥山正則氏著名月や池をめぐりて夜もすがら 芭蕉 この句碑は甲府市東光寺町、定林山能成寺(樋口顕竜住職)の参道左側に建てられている。碑には「名月や池遠をめく里天夜毛可羅 はせ於」と刻まれ、裏面に「蕉門七世 鱗々庵道載。漢詩(略)。天保十二年庚秋九月」とある。参道右側に「宿竜池」石碑があり、芭蕉の句碑と向き合っている。...
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