感状・安堵状・書状
からみた川中島の戦い
川中島合戦の調査報告
私が此の研究調査をしたきっかけは、「武辺咄聞書」の次の記事でした。
第44話
武田信玄を新羅三郎義光より二十七代と甲陽軍艦に所載事は大成誤り也。新羅三郎より信玄までは十九代也。惣じて甲陽軍艦に疑敷事多し。天文十六年二月十五日に八幡宮へ信玄詣給ひ、山本勘助を召し、西国の沙汰披聞史に、大内義隆を家老陶尾張守か討亡たることを語る。大内義隆は天文廿年九月の事也。勘助何として後六年後に滅亡せし、大内事を前方に知て語りしや。天文廿三年八月十八日の川中島合戦と弘治ニ年三月二十五日の川中島夜合戦と両度を誤て甲陽軍艦はには一度となし、然も年月も取ひ永禄四年九月十日と記せり。永禄四年九月十日の川中島合戦は上杉家に沙汰なし。我が親松本大学物語せり。
この記事が気になり調べてみました。参考には詠みものは一切排除してみました。驚いたことに、永禄四年周辺の記事が少なく、もし永禄四年の川中島合戦が無かったら勘助の存在や勘助討ち死にの日それに勘助の墓の存在も打ち消されることになります。この項は、近日第2弾として公開します。どなたけ永禄四年周辺の記事をお持ちでしたらご教示下さい。
北の杜歴史資料室 拝
からみた川中島の戦い
川中島合戦の調査報告
私が此の研究調査をしたきっかけは、「武辺咄聞書」の次の記事でした。
第44話
武田信玄を新羅三郎義光より二十七代と甲陽軍艦に所載事は大成誤り也。新羅三郎より信玄までは十九代也。惣じて甲陽軍艦に疑敷事多し。天文十六年二月十五日に八幡宮へ信玄詣給ひ、山本勘助を召し、西国の沙汰披聞史に、大内義隆を家老陶尾張守か討亡たることを語る。大内義隆は天文廿年九月の事也。勘助何として後六年後に滅亡せし、大内事を前方に知て語りしや。天文廿三年八月十八日の川中島合戦と弘治ニ年三月二十五日の川中島夜合戦と両度を誤て甲陽軍艦はには一度となし、然も年月も取ひ永禄四年九月十日と記せり。永禄四年九月十日の川中島合戦は上杉家に沙汰なし。我が親松本大学物語せり。
この記事が気になり調べてみました。参考には詠みものは一切排除してみました。驚いたことに、永禄四年周辺の記事が少なく、もし永禄四年の川中島合戦が無かったら勘助の存在や勘助討ち死にの日それに勘助の墓の存在も打ち消されることになります。この項は、近日第2弾として公開します。どなたけ永禄四年周辺の記事をお持ちでしたらご教示下さい。
北の杜歴史資料室 拝
和西暦 | 書状名宛先 月 日 | 書状内容 | 出展 文中人物 | |
不明 | 武田晴信書状 木島出雲守 原左京亮殿 | 11日注進状、今14日戊刻着府、如被見者・越国衆出張之由候哉、自元存知の前候条、不図出馬候、委曲於陳前可遂直談候、趣具ニ自飯富兵部少輔可申越候。恐々謹言、 | 山資5中2 p24 飯富兵部少輔 | |
天13年 1544 | 武田晴信感状写 | 今二日西刻、於信州中伊那箕輪松島前、頸(くび)壱ツ討捕之事、神妙之至候、弥可被抽忠信者也、仍如件、 | 山資5中2 p100 | |
天文16年 1547 | 武田晴信感状 | 今六日申刻、於信州佐久郡小田井原合戦、頸壱討捕之条、云々 | 山資5中2 p443 | |
天文16年 1547 | 武田晴信感状8月6日 内田清三との | 今六日申刻、於信州佐久郡小田井原合戦、頸壱討捕之条、云々 | 山資5中2 p623 | |
天文16年 1547 | 武田晴信感状8月6日 向山主税助との | 今六日申刻、於信州佐久郡小田井原合戦、頸壱討捕之条、云々 | 山資中2下P238 | |
天文16年 1547 | 武田晴信感状8月11日 内田清三との | 今十一日、於信州佐久郡志賀城、頸一清水左近丞討捕之条、 | 山資5中2 p623 | |
天文16年 1547 | 武田晴信感状 8月11日 萩原弥右衛門との | 今六日申刻、於信州佐久郡志賀城、頸一笠原新三郎討捕之条、云々 | 山資5中2 p447 | |
天文16年 1547 | 武田晴信感状 8月11日 小井弓越前守との | 今六日申刻、於信州佐久郡志賀城、頸一高田右衛門佐尉討捕之条、云々 | 山資5中2 p752 | |
天文17年 1548 | 武田晴信書状 7月19日 内田清三との | 今十九日、於信州筑摩郡塩尻峠一戦砌、頸二ツ、云々 | 山資5中2 p623 | |
天文17年 1548 | 武田晴信書状 7月19日 内田清三との | 今十一日、於信州佐久郡一戦砌、頸一捕之条、神妙之至候、 | 山資5中2下P239 | |
武田晴信感状 8月13日 萩原弥右衛門との | 今十三日、於信州刈谷原城、頸十一太田弥助討捕之候、 | 山資5中2 p447 | ||
天文20年 1551 | 武田晴信書状 7月25日 飯富兵部少輔 上原伊賀守殿 | 内内早く自身出馬すべくといえども、去年の凶事以後始めて動き候条、先ず士卒を出し、敵の準えを見届け、その上で出陣をする。先衆として昨日全軍が出立した。私は今日若神子(北杜市須玉町)に居る。28日には必ず出馬するので承知してください。なおこのとを真田幸隆にも伝えること。密かに申し上げるところ、右筆の都合で私が認めました。 | 恵林寺所蔵文書(塩) | |
天文20年 1551 | 武田晴信感状写 10月24日 山家左馬すけ殿 | 今度平瀬城頸壱平瀬八郎左衛門ヲ被討捕之条、戦功至一段感入候、然者弥可被抽忠信候、 | 山資5中2下P547 | |
天文21年 1552 | 武田信玄(?)書状写 3月20日 田原主馬殿 小谷衆 | 今三月廿日、於地蔵峠走廻、無比類働神妙候、弥可抽忠信事肝要候間、以上、 | 山資5中2 p735 | |
年不詳 | 武田信玄(?)書状写 3月20日 田原主馬殿 小谷衆 | 馬場民部方へ注進之通、従白池千国迄謙信(?景虎)領、各以働切捕少々致取出之段神妙、忠功無比類候、弥可抽忠信可被得其意候、以上 | 山資5中2 p735 | |
天文21年 1552 | 武田晴信書状 3月20日 永寿 丸山兵庫とのへ | 今三月廿日、於地蔵峠走廻、無比類働神妙候、弥可抽忠信事肝要候間、以上、 | 甲州古文書2P264 | |
天文22年 1553 | 快川紹喜書状 2月6日 禅昌寺・侍衣閣下 尊答 | 快川紹喜、し武田晴信に招かれ甲州に入る。 | 塩山市史 | |
年不詳 | 武田信玄(?)書状写 3月20日 田原主馬殿 小谷衆 | 今十日、飯森十郎大勢ニ而平倉嶽江楯籠、近辺放火之由注進、押付取懸可申候、案内存知候間、先陣相勤可抽忠節事肝要、以上 | 山資5中2 p735 | |
天文22年 1553 | 武田家感状写 5月28日 田原主馬之丞殿 | 今度於信州滝沢、其方以働頸十二討捕、殊押落城主小泉兵庫、放火之条、粉骨無比類候、云々 | 山資5中2 p736 | |
天文22年 1553 | 武田家朱印状 6月16日 大須賀久兵衛殿 | 今度退在所、忠節無比類候、因茲三百貫之地可出置候、弥戦功肝要候者也、仍如件 | 山資5中2 p736 | |
年不詳 | 武田晴信書状10月23日 大須賀久兵衛殿 | 於干其地別而被相?之由候、祝着候、殊ニ一昨夜城中之兇徒与敵、小屋ニ火付候処ニ其方見合被召取候間、以其故城無災雖候歟、雖不始子細候,忠信無比類候、弥奉公可為神妙也、謹言 | ||
天文23年 1553 | 武田家感状写 6月 田原主馬之丞殿 | 今十日、於信州小岩嶽城、頸一山崎右近討捕、神妙候、云々 | 山資5中2 p736 | |
天文23年 1553 | 武田家感状写 6月 堀内右エ門殿殿 | 今十日、於信州小岩嶽城、頸一討捕之粉骨無比神妙候、云々 | 塩山市史 | |
天文24年 1555 | 武田晴信朱印条写 4月25日 | 就佐野山(長野)在城、其方知行北大塩廿三人之捕、押立公事令免許者也、仍如件 | 山資5中2 p511 | |
年不詳 | 武田晴信書状写 8月15日 東条在陣衆各 | 今日各動心地能候、向後者千曲河之浅深被見届、瀬越候者、 | 山資5中2下P251 | |
弘治元年× 1555 | 武田家j感状写 5月16日 | 弘治元年(?)、於平倉城大将杉山右衛門尉討捕之、云々 | 山資5中2 p735 | |
(推定年・山梨県史)弘治元年 1555 | 武田晴信書状写 6月16日 市川籐若殿 | (推定年) 山資5中2 p518 | ||
天文24年 弘治元年 1555 | 武田晴信感状 7月19日 内田監物殿 | 今十九於信州更級郡川中島逐一戦之時、頸壱被討捕之条、戦功之至感入候、弥抽忠信候、謹言 | 山資5中2 p24 | |
天文24年 弘治元年 1555 | 武田晴信感状 7月19日 大須賀久兵衛殿 | 今十九於信州更級郡川中島逐一戦之時、其方被官頸壱討捕之条、戦功之至感入候、云々 | 山資5中2 p737 | |
天24年 1555 | 武田晴信感状 7月19日 勝野新右衛門殿 | 今十九於信州更級郡川中島逐一戦之時、云々 | 山資5中2 p351 | |
天24年 1555 | 武田晴信感状 7月19日 小平木工助との | 今十九於信州更級郡川中島逐一戦之時、云々 | 山資5中2 p764 | |
天24年 1555 | 武田晴信感状 7月19日 向山主税助殿 | 今十九於信州更級郡川中島逐一戦之時、云々 | 山資5中2下P239 | |
天24年 1555 | 武田晴信感状 7月19日 橋爪七郎右衛門尉殿 | 今十九於信州更級郡川中島逐一戦之時、云々 | 塩山市史 | |
天24年 1555 | 武田晴信感状 7月19日 古屋彦右衛門尉殿 | 今十九於信州更級郡川中島逐一戦之時、云々 | 塩山市史 | |
天24年 1555 | 武田晴信感状 7月19日 古屋彦右衛門尉殿 | 今十九於信州更級郡川中島逐一戦之時、内藤新右衛門並び渡邊弥左衛門尉、頸壱令討神妙之至感入候、弥可抽忠信者也、仍如件 | 甲州古文書四P154 | |
弘治元年 | 10月23日改元 | |||
弘治2年 1556 | 武田晴信感状 7月19日 久保平五郎殿殿 | 今辰剋、於信州平倉嶽、杉山左衛門討取之粉骨無比類神妙候、云々 | 塩山市史 | |
弘治2年 1556 | 武田晴信判物者6月2日 井上左衛門尉殿 | 綿内之内、、隠居免三百五十貫文之所進置候、 | 山資5中2 p871 | |
弘治2年 1556 | 武田晴信書状 7月19日 市川孫三郎 (市川籐若?) | 山資5中2 p24 | ||
弘治2年 1556 | 武田信玄書状 8月25日 西条殿 | 東条普請の義頼入候旨、染一、翰候、則被其意、自身有着城、辛皆之至、殊更去年以来、還附未可有安居候処ニ、如比不知所謝候、弥就被相?者、可為快悦候、恐々謹言 【東条ー長野県】 | 山資5中2 p29 | |
弘治2年 1556 | 武田家朱印状 12 |