北杜市の先人 近世の俳諧 高根町 馬城
『長坂町誌』
近世において俳諧という新しい抒情文芸が生まれた。俳諧の初期は貞門の俳諧であり、言語遊戯の幼稚なものであったが、風俗詩である談林の俳諧を経て文芸的な価値の高い蕉風の俳諧へと成長していった。
芭蕉は俳諧を文芸として確立させた画期的の存在である。
芭蕉とともに特筆すべきは山口素堂であり、教来石村山口(現白州町)に生まれ、甲府に育ち江戸において芭蕉とともに俳諧の確立に貢献した。山梨における俳諧は山口素堂によって始まり、山口黒露らの弟子に受け継がれていく。山口黒露の影響を受けた俳人たちとともに山梨の俳壇に登場した俳人に五味可都里がある。藤田村(現南アルプス市 若草町)に寛保三年生まれ通称は宗蔵または益雄といい、俳号には葛履、可都里、軒号には雪亭などを使っている。
『甲斐俳人伝』には「始め暁台に従ひ後関更の薫陶を享ける」とあり暁台、聞更によって俳風を確立していった。蕪風志向によって山梨の中心的な俳人となった可都里は俳諧結社「蕪庵」(かぶらあん)を創設する。
彼は名主として農村に生活していたので自然を詠んだ句に佳吟が多く、農民の生活が良く表現されている。
馬城
この可都里に師事して俳人として成長したのが馬城である。
馬城については文献が少なく詳細な伝記は分かっていないが、高根町五丁田に生まれ俳諧宗匠として生活しており『新嘗鳥』を刊行している。文政二年五月馬城の子供である万志羅は馬城追善句集『かれあやめ』を刊行
するが、序文を蟹守が次のように書いている。
夫光陰は百代の過客とかや。
人生れて五十年かの朝菌の齢なるべし。
馬城 居士は吾雪亭翁の風姿を学び、
さきに新嘗鳥を著して英名芳し。
橘の常世にしもあらで、
入さの月のみしかきころほひ死出の田長に誘れて、
既になゝとせの四時うつりぬ。
こたび荊の門万志羅同志の輩をかたらひ、
祥雲精舎に法定を開き超祥忌の俳諧なれり。
そを梓にゑりて不朽にせんと聞ゆ。
おのれ花 のあしたに額を合せ、
雪の夕べに杖をとゞめ幽賞を同うせしむかしをしのびて、
首に蕪辞をかいそゆるになん。
文政二己卯夏五月 鷹園蟹守
序文を蕪庵二世の蟹守が書き、跋文は保教が書いているが、保教は蕪庵三世守彦であるので、馬城は蕪庵の門人であったことがわかる。『かれあやめ』の刊行年月その他により守彦の先輩であり、『かれあやめ』は当時の代表的な句集であった。
しら露の身にも大玉小玉かな 小林一茶
この一茶の句をほじめとして、陸奥の乙二、下総の大須、江戸の道彦、蕪雨、京の雪雄、蒼虬、大阪の奇渕、信濃の素壁、若人、伊勢の椿堂、尾張の岳範、三河の卓池など当時の日本の一流の俳人の句が載っており、俳諧史上でも重要なものである。
この句集に長坂町中九の九麿、大八田の翠一、漢鳥、三夕、中島の兄国、大井ケ森の蓮青の句が掲載されてい
る。当時一流の俳人であったと思われる。
『かれあやめ』は馬城の発句による「脇起之歌仙」から始まっている。
脇起之歌仙
水音はいづこ水鶏の哺なべに 馬城居士
くるゝひまさへ仏帯木の月 万志羅
ざっくりと瓜わる人に秋見えて 花仏
急の外に飛ぶものもなし 万子彦
長安もある処には鳴子縄 兄国
虚気がほして覗く東屋 をしえ
琶琵とやら袋の侭に引かたげ 甫秋(塚原甫秋 白州町下教来石)
十夜もなゝよは夜とかぞへる 雅月
海山も恋の道具につかひけり 三夕
木幡の馬の人を見おぼえ 旭水
神垣や異なる夙の吹通り 漢鳥
歌の集編む数に加はる 其麦
明月を心の月にとり替て 枕流
つらりつらりと置わたる露 雲歩
角力取に山伏どのゝ打交り 九麿
言葉すくなに旅篭定める 里秀
華と雲奈良は七重に重りて 花六
小鮎のはしるながれ落あふ 酒泉
春を只追行ばかりをしむ也 和弓
髪もはやせし画師が跡とり 柳和
さりとては近付おほき傘の下 花遊
鴨も雀も西にかたむく 扇里
処々なす野が原は冬枯て 花仏
霜にあぶなき君か足元 万子彦
賤の業一つしまへばひとつ出来 兄国
居眠る鷺のとしはいつよる 雅月
杜若鳥羽僧正の雨やとり 三夕
鋸屑も用にこそたて 旭水
股たちの袴の(ネ取)をならす月 をしえ
松虫飛て酒ほしくなる 其麦
女郎花物もいひたき気色也 枕流
何風といふ風もふくかに 九麿
さっぱりと巻たも交る掛簾 里秀
酔泣するも長閑なりけり 酒泉
散花のうかべる水の音澄て 万志羅
雉子はねくらに入相の鐘 甫秋(塚原甫秋 白州町下教来石)
(中略)
長坂町の俳文芸はこれらの人々によって始まっていくのである。可都里によって結成された蕪庵は五味蟹守に受け継がれる。蟹守は通称五良左衛門といい叔父可都里の教えを受け蕪庵二世として宗匠になり、『俳諧古今発句集』・『俳諧文集』等を著す。