甲斐国志にみる 馬場美濃守信房と関連記事
甲斐国志にみる 馬場美濃守信房◇天文十五年(1546)武川衆教来石民部を擢て五十騎の士(さむらい)大将とし馬場氏と改め民部少輔と称す。(三代記云、馬場伊豆守虎貞ト云者直諫爲信虎所戮嗣、晴信立令教来石民部影政爲紹馬場氏之祀云云。 虎貞の事未知明據故不采教来石ハ武河筋ノ村名ナリ。彼地ハ馬場氏ノ本領ナレハ時ノ人稱之カ爲氏族者本州ニ所見ナシ。...
View Article下部町常葉馬場家家系由来書 馬場美濃守信房
下部町常葉馬場家家系由来書其祖ハ清和天皇後裔丹後守忠次ト稱スル者元弘建武の乱ヲ避ケ甲州都留郡朝日馬場村北東ノ億ニ隠住ス。武田氏ニ仕ヘ地名ヲ取リ馬場姓トス。妙圓寺ヲ開基シ黒印五石ヲ寄付シ殿堂ヲ建立ス。清和天皇ヲ祀リ後相州鎌倉八幡...
View Article自元寺由緒書末尾『馬場美濃守信房公の子孫』史跡保存館発行
自元寺由緒書末尾『馬場美濃守信房公の子孫』史跡保存館発行自元寺開基馬場美濃守信房始メ号教来石民部少輔到信玄公美濃守信房改被下信虎・信玄・勝頼三代武田家爪之老臣云享禄四年十八歳ノ初陣ヨリ数十余度ノ戦ニ高名ヲ露シ一生終ニ疵ヲ不蒙然而天正三年乙亥年五月二十一日於三州長篠合戦引受け家康・信長等大敵其日兼而遺言シテ思定メ討死にスト云長篠ノ橋場ヨリ只一騎取テ返シ深沢谷ノ小高キ処ニ駆ケ揚リ馬場美濃行年六十二歳首取...
View Article中山砦(北杜市白州町・武川町)馬場美濃守との関係
中山砦(北杜市白州町・武川町) 『甲斐国志』古跡部に「三吹・台ケ原二村ノ西ニ在リ其ノ裏ハ横手村ナリ。北ニ尾白川、南ニ大武川ヲ帯タル孤山ノ嶺ニ方四、五十歩ノ塁形存セリ。半腹ニ陣ガ平卜云フ平地、又水汲場卜云フ処モアリ。麓ヨリ凡ソ三十町計リノ阪路ナリ…天正壬午御対陣ノ時ハ武川衆之ヲ警固ス。家忠日記ニ八月廿九日ノ条二武川ノ士花水阪ニ戦ヒ北条ノ間者中沢某ヲ討取ル、山高宮内、柳沢兵部首級ヲ得ル」とある。...
View Article教来石氏(馬場氏とも)居址と鳥原屋敷跡
教来石氏居址と鳥原屋敷跡 甲斐国志古跡部に「下教来石村ニ上屋敷、中屋敷、裏門ナドノ名存セリ、其ノ地ニ枯井戸モアリ、上教釆来石村ニモ同氏ノ居述トシテ内杭板、外杭板、裏門卜云フ地名アリ、又古碑アリ、明応三年庚寅ノ字ヲ見ル、古事ヲ知ラズ」とある。 この地域では釜無側を表と呼んでおり、下教来石の教来石氏居跡は、小字下木戸と屋敷裏との間、今の国道二〇号縁付近にあつたのではないかと推定する。...
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