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Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
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教来石氏(馬場氏とも)居址と鳥原屋敷跡

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教来石氏居址と鳥原屋敷跡
 甲斐国志古跡部に「下教来石村ニ上屋敷、中屋敷、裏門ナドノ名存セリ、其ノ地ニ枯井戸モアリ、上教釆来石村ニモ同氏ノ居述トシテ内杭板、外杭板、裏門卜云フ地名アリ、又古碑アリ、明応三年庚寅ノ字ヲ見ル、古事ヲ知ラズ」とある。
 この地域では釜無側を表と呼んでおり、下教来石の教来石氏居跡は、小字下木戸と屋敷裏との間、今の国道二〇号縁付近にあつたのではないかと推定する。 地の人は教来石民部の生れたところと言っている。
 その西鳥原にかけて、浦門、後林、三蔵、矢ノ下、内屋敷などの小字や俗称馬飯場、殿畑、お城坂などの 地名がある。教来石氏の鳥原屋敷は、下教来石から鳥原部落に行く道、鳥原部落北東の小高い所、殿畑にあったという。およそ一〇〇メートル四方の畑の南側と東側・西側に掘跡があるが、北側は確認できない。
城山(万燈火山)
 白州町鳥原の西、松山沢川の渓口に石尊神社がある。その南の山を万燈火といい、蜂火台があつたところといわれている。『甲斐国志』に鳥原ノ塁として「蓋シ煙火台ナリ、逸見筋笹尾ノ塁ニ抗衡シテ国選ニ備フトイフ」とあり、また笹尾墨跡の項に「小渕沢・小荒間両道ノ番所へ各モ一里、上笹尾村ニ遠観(とうみ)番所アリ大井ガ森卜抗衡ス、西ノ方ハ武川筋鳥原ノ亭候ニ相並ンデ教来石ノ番所へモ一里余、皆諏訪ロ、大門嶺ロノ警衛ニアタル…湟塁二三重ニシテ甚ダ広カラズ、左右ノ山腹ニモ塁形存ス、本城高キ処五六十歩、南ニ下ルコト十五歩ニシテ洞穴アリ数十人ヲ容ルベシ、鐘釣リ穴ト名ヅク、此ニテ鐘ヲ鳴セバ鳥原ニテ太鼓ヲ打テ相応ズ云ヒ伝フ」
とある。
 甲信国境に近く、北方警備のためのみでなく武田の信濃侵攻のための警備や連絡の重要な拠点であったといえる。笹尾の塁(標高七五九m)に対し鳥原の万燈火(城山、標高九四八m)は直線的に至近距離で相互に鳴り物で合図することは可能であつた。
この煙火台は、南は神官川、北は松山沢川の谷で、西は峰つづきで、東方が開けて笹尾と相対している。炉跡などはなく、城山の山頂から一段下った万燈火という辺りが番人小屋のあったところと目されている。数年前まで木祠があり、往時は提灯を点じて祭りが行われたと古老が語っていた。

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