中山砦(北杜市白州町・武川町)
『甲斐国志』古跡部に
「三吹・台ケ原二村ノ西ニ在リ其ノ裏ハ横手村ナリ。北ニ尾白川、南ニ大武川ヲ帯タル孤山ノ嶺ニ方四、五十歩ノ塁形存セリ。半腹ニ陣ガ平卜云フ平地、又水汲場卜云フ処モアリ。麓ヨリ凡ソ三十町計リノ阪路ナリ…天正壬午御対陣ノ時ハ武川衆之ヲ警固ス。家忠日記ニ八月廿九日ノ条二武川ノ士花水阪ニ戦ヒ北条ノ間者中沢某ヲ討取ル、山高宮内、柳沢兵部首級ヲ得ル」
とある。
『寛政重修諸家譜』によると、馬場美濃守信房の父「遠江守信保は武田信虎につかえ、甲斐国武川谷大賀原(台ケ原)根小屋の城に任す」とあり、また「信保の二男信頼(隼人)の子信久根小屋に任す」「その子信成(馬場民部)武田勝頼に仕え板小屋に住む」とある。
戦国時代武川衆の拠点となり、武田勝頼の新府城の前衛として、また徳川家康にとっても北条氏直との戦いのため軍事上重要な位置にあった。この砦は中山の南北に延びる尾板状の山頂部南北七〇メートル、東西二〇メートルを利用して構築し、尾根の南と北側を掘り切り、その範囲を削平して四つの小郭を形成している。山頂部には土塁に囲まれた二つの郭が南北に並んでいる。南端にある郭は一段下がつて設けられており弧状を呈している。さらに下がつて弧状の郭に沿って空濠と低い土塁をめぐらしている。東側には郭の下に二段から三段の帯郭がある。
土の山麓の台ケ原寄りの尾白川段丘上を根古屋といい、中山砦に対する城下の住居地で、住時は集落をなし鎮守「荒尾神社」があったが、のち人家は台ケ原に移って、荒尾神社も大正三年台ケ原の田中神社境内内に遷座された。