Quantcast
Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
Viewing all articles
Browse latest Browse all 3088

山本勘助の生みの親、「甲陽軍艦」 勘助関連文書には偽書が多い

$
0
0
勘助の生みの親、「甲陽軍艦」
 
「甲陽軍艦」は書いたのは春日惣二郎
勘助の人気は既に江戸時代にできていた。それが明確になるのは浮世絵や武者絵に錦絵に描かれた勘助像が信玄や他の大物戦国武将より群を抜いて多い。インターネットで調べてみてもその数は50点をこえる画像が確認できる。特に歌舞伎役者が演じた勘助は戦国絵巻の形相はなく、信玄を慕う男妾の風体さえ感じる。
 数多ある勘助の著述や刊行物もある中で、今回は勘助と甲陽軍艦の関係を所載記事より探ってみる。 
 
  私は歴史に親しんで20年くらいになるが、歴史の中には「思い込み歴史」と、言葉は悪いが「洗脳歴史」が存在していることに気がついた。最近特にその傾向が顕著になってきている。洗脳歴史とは間違ったことでも基礎的知識のない人々は、重ねて見たり聞いたりすることにより、そこで展開される内容が史実と信じてしまう。特に歴史小説が題材の場合はその感が強く、公的なイベントや報道の行為はそれに拍車をかけている。
 山本勘助についてもまったく同じであり、長時間のドラマなどが終了すると、始まる前より認識新たな勘助像が生まれる。言葉を強くすれば、最近の歴史界はNEKが歴史の源で、圧倒的な権威と価値観が生まれている。勘助が甲斐に来たのはリタイアしてからで、現在では看護を受けるくらいの年齢であり、頭脳はともかく体力的には、ほとんど戦闘能力は失っていた。
山梨県や勘助ゆかりの地は勘助協奏曲に襲われ、それを先導する刊行行政には歴史確認の必要はなく、人集めに奔走して物が売れればよいのであって、NHKの朝ドラや歴史大河ドラマへの地域参入が観光の起爆剤として珍重される。これまで勘助と甲斐の関係など書いた歴史書は少なく。歴史家も相手にしていなかった。また彼らの習性で、国書や仲間書以外には見向かないもので、都合のよい時だけ「信じられない」・「間違いの多い箇所を持つ書だが」といいながら引用に明け暮れる。信玄が有名になったのもこの「甲陽軍艦」があったればこそで、これがなかったら武田三代もつまらない歴史参考書の中でしか生きることしかできなかった。

甲斐国志が描く助助
 
甲斐国志・山本勘助記載事項
 
山本勘助(諸録名晴幸に作ル未考)
軍鑑に天文十二年三月板垣借方ノ挙二由リテ、勘助ヲ駿州ヨリ招ク。
勘助ガ為人垣黒抄眼手足不具ナリ。
晴信見テ大二悦ヒテ云容貌如是ニシテ盛名アリ。其能可知トテ百貢ノ契約ナレドモ加倍之属卒二十五人、足軽隊将ト為ス。又、増五百貨卒五十人、旗本ノ足軽隊将原・小幡等ト列シ、五人衆ト称ス。
後信玄ト同シク除髪シテ号、道鬼斎。
知略絶倫兵法ノ微妙二達ス凡ソ後世武田家ノ兵法ヲ言フ者必ス勘助ヲ宗トス事ハ載諸録テ詳ナリ。
永録四酉年九月十日河中島二戦死ス。
年六十九。身千八十六創アリ。知行八百貰二至ル。
参州牛窪ノ人ナリト云。
按二勘助ノ死所ハ河中島八幡原トテ、八幡ノ小祠アル処ナリ。碑高畑村二在シガ、千曲河ノ涯崩レテ、今ハ芝村大宝寺二移シ、弥陀堂ノ傍二建ツ。旧物ニハ非ズ。山本入道鬼居士ト刻ス。銘文ハ略之。又、杵淵村輿厩寺ノ牌子ニハ神山道鬼居士トアリ。
 
 一本系図二ニ勘助ノ先験州源氏吉野冠者ノ後胤(鎮守将軍源満政ノ裔、本田重賢ノ男太郎重季号吉野冠者承久ノ乱二京方二在り。蓋シ是力。
 
今富士郡山本村吉野茂兵衛ト云者ノ所蔵天文永禄ノ間、今川家文書数通其外吉野氏ノ事間々見エクリ)
 
吉野浄雲入道貞倫累世山本村二住ス。八幡宮ノ祝戸ナリ。貞倫ノ二男弾正貞久、今川家二仕へ功アリ。更氏云、山本料ノ前立二八幡ノ神号ヲ彫ル家堅三巴ナリ。所領ハ山本ノ内三沢、石宮、参州加茂ノ内合三百貫、文明十戌年七月十二日戦死干参州「法名鉄関直入禅定門」、其男図書某(名亡)後改禅正妻庵原安房守妹也。
(異本ニ山本弾正ノ女庵原ノ妻トアルハ二代ノ安房守ナルヤ)
弾正ノ男数人アリ第四云源助貞幸年十二参州牛窪牧野看馬允ノ家令大林勘左衛門ノ養子トナリ改名勘助年二十二シテ、有故養家ヲ辞ス。諸州二偏歴スル事三十余年、後武田家=仕へ賜、諱字義晴幸時年五十二(戦死ノ事同前)
法名鉄岩道一禅定門、
駿州富士郡山本村宗持禅院二牌アリ。
 
北越軍談二勘助ノ父ハ牛窪ノ牧野新二郎成定ノ被官勘右衛門某也(又云半九郎)伯父山本帯刀左衝門成氏ニ従ヒ学兵法、又同州寺部ノ鈴木日向守重辰ニ兵法ノ奥秘ヲ伝へ参州加
茂都二帰り、今川ノ家老庵原安房守忠胤ニ倚ルトアリ。軍鑑ニモ庵原二倚居ス云。上京(但シ今川家二奉公ヲ望ミ庵原二頼ミ九年間駿州二在り云云。ト記シタルハ非ナリ。勘介原駿州ノ人庵原ノ近族ナル事ヲ知ラス。歯莽上玉へキ耳)
 
山本某
  勘助ノ男ナリ名未詳。一本系図作二勘蔵信供。天正壬午ノ後云ノ事アリ。軍鑑云子息両度場数モ有リシカト長篠ニテ討死ナリ(伝解源蔵二作ル)
源三郎ハ三国志ニモ見ユ幕府二奉仕壬午ノ起請文二同主殿助卜二人武田ノ近習衆トアリ、未夕勘助ノ男子ナリヤ否ヲ知ラス。又一系二饗場越前剰長ノ次男十左衛門頼元云者勘助ノ娘ヲ妻トシ山本氏ト改メ其男権平仕二永井信濃守森二山本勘助一上玉府中妙音寺過去帳二寛文十一亥正月二日
 
本覚院智証日意(山本勘助母)トアリ
 
○山本土佐守 
 
所祖未詳。羞シ本州二旧ク伝ハル氏ナルへシ土佐ハ武河南営二住セシト言ウ。彼士庶部ニモ記セリ。軍鑑ニ小人頭十人ノ列、横目付衆ナリ場数十一度ノ証文アリ一本系図二土佐ノ男弥右衛門、弥三左衛門、三看衛門
(壬午ノ起請文二小人頭山本孫看衛門昼屏アリ大坂軍記等二千本槍甲陽ノ旧臣云云山本弥五右衛門ト記セリ何レカ誤写ナラン)
弥右衛門ノ女嫁石坂金左衛門其子為山本嗣云、弥鵜衛門子孫武州八王子二在り。又一本二土佐守政道ノ男山本与次左衝門政法ヨリ系スル者アリ
 
○山本大琳 
軍鑑二伽衆トアリ医師ナリ幕府二奉仕ノ子孫有り
 
○山本帯刀成行
  始ヨリ幕府二仕フ烈祖成績云、永禄十一年辰三月命帯刀修築城郭改引間日浜松 (徳川歴代云帯刀甲州人勘介弟名重頼今従二松栄記事一)
参河風土記二帯刀ノ事載ス。始名ハ新四郎在越後、即チ勘助ノ弟ニテ兵学二達セシ由ナリ。後二幕府二奉仕シ賜五千石、但シ名頼重二作ル本州ニハ曽テ所聞ナシ。
 
「山梨姓氏録」山寺和夫氏著
山本姓
全国の各地に山本という地名があり、この地から数多い流派の山本氏が発祥した。全国の山本姓は、大別すると賀茂姓・藤原姓・清和源氏流・泉族・菅原姓・平姓・三枝姓の七流派に分類される。
 
「誠忠旧家録」
  中巨摩那 田富町 花輪の山本氏について、「誠忠旧家録」は次のように、その由緒を記している。
「左大臣藤原魚名の末孫山本勘助晴幸の裔にして九代後胤、山本式右衛門尚良、同八郎右衛門長建・同伊左衛門幸建」。さらに誠忠旧家録は「相州津久井境鶴川上野原通警備役、山本土佐守忠玄後胤山本金右衛門篤敬」と載せている。
「姓氏家系大辞典」
  「姓氏家系大辞典」によると、山梨県下の山本氏は、巨摩郡(北巨摩・中巨摩・南巨摩の三郡)の豪族で、山本土佐守は甲州武河( 韮崎市 大草町)の南宮に住んでいたという。
 
また昭和町西条の山本氏は、
  山本土佐守の妻の実家で、清和源氏新羅三郎義光の後孫であるという。
寛政重修諸家譜に「山本冠者義重の十七代の後孫右衛門忠恒(九郎左衛門、武田信玄の家臣〉-弥右衛門忠玄(土佐、徳川家康に仕えた)-弥右衛門忠房(千人頭)」と載せている。松本次郎三郎の子七左衛門(法名了存といい、府中の検断役を勤めたが、故あって松木.の姓を山本に改めた。また五郎兵衛は甲金極印を賜ったと甲斐国志は載せている。尚前記山本金左衛門についての記事は、一部重複の点がある。
 
山本勘助「甲陽軍艦」
 甲陽軍鑑によると、
・天文十二年三月、板垣信方の推挙で、駿河から勘助を武田家臣に招いたところ、武田信玄は非常に喜び、最初は知行百貫の契約だったが、倍に加増のうえ、二十五人の足軽隊将に取り立てた。
・その後五百貫の知行を与え、五十人の足軽隊将に格を上げた。これは武田家の宿埠である原・小幡氏と同列で、五人衆といった。
・後除髪して入遺し道鬼斉といったが、永禄四年九月十日川中島の戦に戦死した。行年六十九歳で身体に八十六を数える創傷があったといわれている。結局知行は八百貫にのぼる大身であった。
・愛知県牛窪の人で勘助の墓碑は芝村大宝寺の弥陀堂の傍に建てられ、法名を山本人道道鬼居士という。
・また山本一本系図によると次のように記している。勘助の先祖、駿州源氏吉野冠者の後胤吉野浄雲入道貞倫は、累世山本村に住み、八幡宮の神官であった。
・貞倫の二男弾正貞久は今川家に仕えて武功をたて、氏を山本に改めた。兜の前立に八幡の神号を彫り、家紋に三巴を用いた。
・その頃の所領は山本村の内、三沢・看官・三河国(愛知県)加茂の内等合せて三百貫だったが、文明十年七月十二日、三河での戦に戦死した。
・法名を鉄開直入禅定門という。
・醸正貞久の子図書某は後に弾正と名を改めた。弾正に数人の男子があったが、
○四男源助貞幸は十二歳の時、三河国牛窪の牧野右馬允の家令大林勘左衛門の養子となり、名を勘助に改めたが、二十歳の時、故あって養子先の大林家を去りへ諸国を遍暦した。
○そして遍遊三十余年後、武田家に仕え、武田晴信の晴の字を賜り、時事に改めた。この時五十二歳で、法名を鉄若造一禅定門といい、静岡県富士郡山本村の宗持禅院に位碑が安置されている。しかし、勘助の経歴については別説もある。
 
山本某
山本勘助晴幸の子で、名は詳らかにされていないが、一本系図によると勘蔵信供といい、長篠の戦に戦死した。また饗場越前利長の次男で十左衛門頼元という者は、勘助の娘を妻に迎えて姓を山本に改めたという。
その子権平は永井信濃守に仕、え、山本勘助といった。 甲府市 の妙音寺の過去帳に、寛文十一亥正月二日本覚院智鐙日意(山本勘助母)とある。
 
山本土佐守
祖先の事については詳らかにされていないが、山梨県に昔から伝わる家柄と思われ、 韮崎市 大草町の南宮神社に住んでいたという。甲陽軍鑑は土佐守は小人頭十人のうちの一人で、横目付衆であると甲斐凰志は載せている。戦場へ出陣の回数十一度という武篇の勇士で、山本氏一本系図によると、土佐守の子に弥右衛門・弥三左衛門二二右衛門の三男子がある。長男弥右衛門の娘は、石坂金左衛門の妻になり、その子が山本家の継脱になったという。この後孫は東京都の八王子に居住している。また土佐守政道の子山本与次左衛門政法の後孫も系を伝えており、今も栄えていると甲斐国志は記している。
 
山本帯刀成行
 永禄十二年三月、帯刀は城郭の修築をしたと甲斐国志は載せ、三河風土記は帯刀の初名は新四郎といい、越後国に住居していたと記し、山本勘助の弟にあたる人で、兵学に達し、その後徳川幕府に仕えて、五千石を領知し、名を頼重といったという。
 
山本大琳
 甲陽軍鑑は武田信玄の侍医で、その後徳川幕府に勤任した事が編年集成等に載せてある。
 
山本金左衛門( 甲府市 柳町)
 町年寄の役を坂田という者と二人で勤めた。五人扶持を支給され、侍屋敷の明地六百坪宛預けられたという。金左衛門の家記によると、祖先は松木次郎三郎という。
 
山梨市・ 塩山市 ・北都留郡・南都留郡・東山梨郡・西八代郡の調査対象中に山本姓は含まれていない。
 
山本内蔵助正秀・同新八郎昌書・同左近丞秀次
 宝暦年中二七五一~六三)、山本宮内丞という人が浪人して、 韮崎市 大草町の地に住んだが、後孫は 東京都八王子市 にあると甲斐国志は載せている。
  
山本姓と中村姓(北巨摩高根蔵原を探る)
《註》この高根町蔵原「勘助屋敷」存在は著名の先生方と報道が無理やり創作したもの。
 
「山梨県姓氏歴史人物大辞典」
 
 山元・山下・山元都・山茂都・山許とも書く。全国人口110万。上賀茂姓山本氏、伊勢内宮に奉仕する荒木田姓山本氏、近江国山本発祥の清和源氏流のほか、武蔵・三河・駿河などのも族があり、甲斐には巨摩郡の清和源氏義定流の氏がある
(姓氏家系)。
『甲斐国志』に、
武田家臣山本土佐守(忠玄)
巨摩郡武川南官(韮崎市)に住むとある。土佐守は『甲陽軍鑑』に小人頭十人衆・横目付衆とみえる。
その子忠房(弥右衛門尉)は武田氏滅亡後徳川家に仕える。
天正10年8月2日の徳川家印判状で巨摩郡甘利上条(韮崎市)などで42貫余が与えられ(韮崎市誌)、
同年9月5日の同家印判状では同郡若尾(韮崎市)・甘利上条などで45貫余、
さらに同17年11月23日の伊奈忠次知行書立では同郡長塚郷(敷島町・竜王町)・長松寺郷(甲府市)・上条東割(韮崎市)・上条北割(韮崎市)などで七四九俵余を与えられている(甲州古文書)。
関東入国後、忠玄・忠房は八王子千人頭となり、忠房の子忠告(弥右衛門)も同職をつとめた。
天正10年12月2日の武川衆定置注文に山本内蔵助がみえる。
 
天正起請文には、
近習衆に山本源三・山本主殿助、
小人頭衆に山本孫右衛門(弥右衛門)、
原隼人衆に山本源三、
一条衆に山本源三、
直参之衆に山本十左衛門の名がみえる。
 
また『甲陽軍鑑』は御伽衆に山本大琳を載せる。大琳は信玄の侍医であった。
 
山本十左衛門尉は
天正10年9月5日の徳川家印判状で巨摩郡下河原( 甲府市 )などで80貰余、
同2年間正月14日の同家印判状では下河原などで36貫余を与えられている(甲州古文書)。
 
天正7年6月1日の小山田信茂あて所に山本宗左衛門(義氏)が、
同10年7月9日の小池筑前守あての徳川家康書状に山本帯刀成氏の名がみえる(同前)。
 
また信玄の軍師と伝えられる山本勘助は、俗説では三河牛窪(牛久保)の出身で天文12年ごろ板垣信方の推挙で武田氏に仕え、足軽大将となって信玄の諸戦の軍議にあずかり、永禄4年の川中島の戦で戦死したという。
従来、勘助は『甲陽軍鑑』によって創出された人物といわれることが多かったが、
近年発見された市河家文書で実在が確認されている。
ただし、その活躍や役割については、『甲陽軍鑑』による脚色が多いとみられる。
 
『甲斐国志』には、巨摩郡蔵原村(高根町)の諏訪明神の江戸期の神主山本和泉、
八代郡内船村(南部町)の八幡峯神社の江戸期の神主山本修理の名がみえる。
 
慶応4年の書上では
蔵原村諏訪明神の神主は山本敬之介、
八幡峯神社の神主は山本肥後とある(甲斐国社記・寺記)。
 
『一蓮寺過去帳』には、
文明16年に山本とみえるほか、
慶長10年山本江雲ムスメ、
15年山本右近丞江雲斎、
同4年山本三郎右内主、
同21「年河尻町(甲府市)山本市衛門母とみえる。
 
「井伊家家臣」
山本元叙の曾祖父山本閑斎は山本勘助の末流で、武田氏滅亡後は医者として井伊家に仕えた(伊井家家士由緒書抄)。
八代郡内船村(南部町)の八幡神社本殿の文政六年の棟札に、大工源姓山本政兵衛森久の名がみえる(山梨県の近世社寺建築)。
『峡中家歴鑑』に載る西八代郡栄村船組の山本儀陸家は、本姓が藤原で、藤原鎌足の後裔藤原丹波之接を祖とし、嘉祥2年山城より甲斐に来て河合(河内)郷内船に住んだと伝える。
二四代与右衛門実賢は伊勢の北畠氏に仕えていたが、のちに浪人して同地に戻り、藤原を改め山本と称したとあり、同村八幡峯神主の山本家は同家より分家した藤原定光を祖とするという。
 
同書に載る北巨摩郡熱見村蔵原(高根町)の山本久稔家は、
武田義光の後胤山本七郎左衛門尉某氏を祖と伝え、
業氏は三河牛久保の郷士で、甲斐に来て武田晴信に仕え、武道兼勤の祝となり、神官職を継いだという。
慶応4年の書上にみえる内船村諏訪明神の神主山本敏之介は山本久稔のことで、明治7年解職ののち同村で帰農し、今の名に改めたという。
また同書に載る同郡大草村上条東割( 韮崎市 )の山本伊之作家は、
慶長年間同村に来て丸山(韮崎市大草町上条東割丸山東か)を拠点とした山本蔵之介に始まり、その子与三郎は帰農したという。
なお同家は三河牛久保の浪人で甲斐に来て晴信に仕えた山本土佐守を元祖と伝える。
さらに同書に載る中巨摩郡今諏訪村(白根町)の山本重太郎家の本姓は塚原で、永徳年間巨摩・山梨両郡に領地を有していた塚原讃岐守を祖とする。
その子弥六右衛門高雄は天正年間武田家に仕えたが、その子五郎市は故あって信濃諏訪に転居し、同地に帰来したときに諏訪明神の名をとって諏訪村と命名し、数代を経て巨摩郡一之瀬村(市之瀬村、櫛形町)の山本又兵衛の子五左衛門が養子となって同家を継ぎ姓を山本と改めたという。
 
『続峡中家歴鑑』
中巨摩郡睦沢村獅子平(敷島町)の山本文兵衛家は、豊臣秀吉の家臣で浪士となり、同地に来て寺院などを設立した山本某を祖と伝える。同書に載る北巨摩郡中田村中条上野(韮崎市)の山本又左衛門家は、三河牛窪郷士山本又左衛門の子で天文年間より武田家に仕え永禄四年川中島の戦で戦死した山本某を祖とし、その子帯刀は武田氏滅亡後同村にて帰農したという。
また同書にみえる東八代郡黒駒村(御坂町)の山本幸左衛門家の本姓は高野で、諸国を遍歴して真影流の達人となった高野雅楽之介を祖とする。その子幸左衛門は開墾事業に専念し名主をつとめたが、男子なく山本家より智を迎え姓を山本に改めたという。  
巨摩郡西条村(昭和町)の若宮八幡・義清神社の江戸期の神官山本忠告は山県大弐と親交があり『月鳴集』などを著した。
義清神社の神官山本高城の次男として生まれた山本節(元治元年~昭和13年)は早くから自由民権論を唱え、明治19年の『甲陽日報』創刊に参与し、『山梨日日新聞』主筆をはじめ新聞界で活躍、のち甲府商業学校教諭をつとめ、また峡雨と号して詩文に優れ、昭和14年『山本峡雨遺稿』が発行された。
なお作家の山本周五郎(明治36年~昭和42年)は本名を清水三十六といい北都留郡初狩村( 大月市 ) に生まれた。
『山梨鑑』には西八代郡市川大門村( 市川大門町 )の製紙業山本松書が載る。県内に山本は2039戸、山元は2戸。 甲府市 に多い。
【三つ巴・割菱・丸に三つ柏・丸に違い鷹の羽・丸に桔梗】
県内四三戸。 甲府市 に多い。【丸に違い矢】
 
北巨摩郡高根町蔵原 中村姓
 
『武田家過去帳』に弘治二年逸見蔵原( 高根町 )の中村右近丞がみえる。
『誠忠旧家録』によれば、孝安天皇の時代に山城国の砥仙太老司が甲斐に来て耕作を教えたといい、その子孫が巨摩王と号し、その後胤という巨摩郡小池村( 高根町 ) の中村治兵衛正俊。
また同書によれば、北巨摩郡熱見村( 高根町 )の中村与平の祖先は尾張の人といい、江戸期には長百姓をつとめたとある。
  
 北越軍談《勘助の項のみ抜粋、詳細は本分を熟読してください》
 
 天文十六年(1547)
 
 十月廿二日、景虎公年を越府へ班玉(かえしたまう)を、後殿(しんがり)は定の如く、長尾政景たりし。敵兵是を慕ふ事なし。其後甲信に入置るる諜者、春日山へ帰来て話けるは、…今度の逮口、甲州勢咬留(くいとめ)て分捕すべき評議たりしを、小幡山城守・山本勘助守の老武者頭を悼(ふっ)て、「景虎手合の一戦而巳(のみ)にて、何となく引入らるる事、深き慮有とこそ見へたれ。是を遂(おわ)んは不可也」と申けるを、晴信允容して諸軍を制止せらる、と云へり。
 
 又勘介晴信に耳語(ささやき)けるは、
「景虎は微弱と云へども、大丈夫の志気あり、天性弓矢の道を得られたる乎(か)。兵の捌き大奇の格たり。是陽中の陰にして大正変じて大奇と成れり。良将は克すれども、愚将は克し難きの格なリ。景虎内に物有て、純(もっぱ)ら偏強の体粧(ていたら)を示し、底に陽中陰の縮(しま)りを含蓄せらると見へたり。形の如くの敵には容易に戦を好まず、只不敗の備を設け、陰中腸の格を用て、彼変隙を待れん事至要なり」
 と諌めければ、晴信及腹心の族甘心すと云々。
 
件の勘助晴幸は背矮(ひき)て色黒く、関鴻(かしだ/スガメ)にて越跛(びっこ)なるが、築城栄法天官までも頤(おとがい)を探て練磨の士たり。父は東参河牛窪の領主牧野新三郎成定が被官にして勘右衛門某(又云半九郎と云り。勘助若年より武道に志厚く、京都将軍家以来間西に流布する中条流の剣術を伝えて、刺撃の法に達す。然ども「一劔の術一人の敵に対する而巳(のみ)にて万夫の雄を成し難く、主将の用に足らず」 と謂て、楚項羽の廢弛せられし芳躅(ちょく)に心を着、其伯父山本帯刀左衛門成氏に従ひ、士法を日夜に学び、同国寺部の鈴木日向守重辰に懇望して、兵権の微妙の味漸く佳境に入、管領上杉家に仕えて小禄を食めり。中年の比辞して遊客となり、関八州奥羽を始め畿内・中国の辺まで武者修行し、然して本国三州賀茂郡に帰り、今川家の宿老庵原安房守忠胤に椅て、義元の直参を願ふと云えども、種姓素より陪臣にして、五体不合期(ふごうこ)なるを陋(いやし)められ、其望達せず。空しく光陰を送る処に板垣駿河守信形が推挙に過(よっ)て、五年以前晴信是を甲府に招き、弓矢の師範とし、数貫文の所知を与えて、軽卒の隊長とせられる。其翌年年信州戸倉合戦の時、破軍建返(すがえし)の軍配を以て、甲兵の狼狽を救たる奇策、近国唱へて佳色を発す。
 
 是より武田家麾下の輩、勘介を称して「軍神の変化也」と申すと云々。
 或は云、彼勘介、軍術伝統の次第では、醍醐天皇の朝文博士中納言大江維時、勅命を蒙て、延長元年(923)癸羊五月(一本延喜五年乙丑三月十一日)葦航して入唐し、荘宗皇帝に聘礼を遂げ、明州の竜頌将軍に黄金若干斤を奉て、兵道軍符悉く附属得たり。凡そ在唐十余年、其間呉越の王元権、□(びん)の恵宗延にも謁見し、朱雀天皇の御宇承平四年甲午に本朝に帰帆、則携へ来る処の「陸韜三略勝図説四十二ケ条」、「天文取捨伝」等の兵書を桝}妊へ献納し、奏覧を歴(へ)るの後、辱も製解を賜り、維時参互考訂して、「訓閲集」を輯録し、日城軍誅の根元となす。天暦九年乙卯源満仲三日三夜斎戒して雄徳山八幡宮の宝前に會し、江家の伝規を受け、夫より「訓閲集」は小笠原家之相続と云り、紺時六世権中納吉匡房は、源義家に軍旅の指南有し。又中比洛の七条朱雀(一本今出川に住す)に鬼一坊義圓と云る宿曜師あり。張子房が虎之巻と号する。一軸を秘蔵す(伝来未詳)九郎冠者義経是を侍て熟読し、軍配戦代に発明して、規(のり)を大抵尉遼子の格執れり。件の一軸は故右て奥州曾津藤倉の邑難波(むらなんば)寺に遺れりとぞ。
 
 多聞丸(楠木)正成河州(内)に産して、八歳の時錦部郡檜尾山観心寺に入、学問の業を終し。十五歳に至て同郡加賀田の領主毛利修理助亮時親(維時の後胤、廣元之四世経光の男、老後芸州に移り郡山に住)に従ひ、彼家数代伝統の妙要を綿密に受継ぎ、武智計の道に長じ、用る処~六韜を専として良将の誉れ天下に震へり。此時日向の伊東六郎左衛門祐持在京して、公務の余暇、正成に會談を遂げ、其秘術口授を聴て、簡冊に記し留め、永く子孫へ伝へたりしを、
 
 勘介武者修行として鎮西へ下向の砌、伊東大膳大夫義祐(叙従三位)より授与せられ、是より軍道に徹底すと云々。
 又勘助城築の法に鍛錬の子細は、関東に於て、太田金吾入道道灌の流儀を習ひ、粗(あらあら)按排(あんばい)して甲府に来り、晴信の家臣大隅守虎吉、天狗山伏教誨を受し、榎(ちきり)の曲尺と云を伝授し、縄張の大綱を決得せり。晩年其要法を馬場美濃守信房に相伝ふと云々。
 

Viewing all articles
Browse latest Browse all 3088

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>