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信虎退隠についての甲斐諸書の記述

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信虎退隠についての甲斐諸書の記述
 
1、『王代記』(窪八幡神社記)
 
武田信虎六月十四日駿州へ御出、十七日巳刻晴信屋形へ御移、一国平均安全ニ成。
  『勝山記』
此年六月十四日ニ武田大夫殿様、親父信虎を駿河へ推越申候、余リ悪行ヲ被成ヲ候間、加様被食候、去程ニ地下・侍・出家・男女共、喜致満足候事無限、信虎出家被成候而、駿河ニ御座候。 
2、『妙法寺記』
 
此年六月十四日武田大夫殿様(晴信)親の信虎を駿河の国へ押し越え御申候。余に悪行を被成候間かように被食候。去る程に地家侍出家男女共に喜満足致し候事無限。
  《読み下し》
六月十四日に信玄が親の信虎を駿河へ押しこした。あまり悪行をしたのでこのようになった。されば、民・百姓・僧侶男女とも喜び満足すること限りない。
 
3、『高白斎記』(一部略)
 
 六月十四日、信虎公甲府御立、駿府へ御越、至今年、無御帰国候、於甲府十六日各存候。                
  《読み下し》
六月十四日に信虎が甲府を御立ちになり駿府御越しになった。甲府では十六日になって皆がそのことを知った。
 
4、『塩山向嶽禅庵小年代記』
 
信虎平生悪逆無道也。国中人民牛馬畜類共愁悩、然駿州太守義元娶信虎之女、依之辛丑六月中旬行駿府、晴信欲済万民愁、足軽出河内境断其帰道、即位保国々人民悉含快楽咲
  《訳》
 信虎は平生、悪行無道であった。国中の人民牛馬畜類ともに愁い悩んでいた。しかるに義元は信虎の婿なので、信虎は六月中旬に駿府に行った。信玄が万民の愁いを救うために足軽を駿河境に出して帰ってこれないように道を断った。人民はことごとく快楽の笑いを浮かべた。
  
5、『快川和尚法語(天正玄公仏事法語)』
 
 祖父大泉寺殿(信虎)三十三年已然出奔、三十三年巳後、不速來 合浦珠遷、雲山改奮 
≪(前記の)総解説 『甲府死市』中世 第4節 武田時代≫
 武田家の当主交代を示すもので、六月十四日、信虎は甲府を出立して駿府に向かったが、嫡男晴信は甲州と駿河の国境に兵を出し、信虎を強制的に駿河へ追い落とした。駿河の今川義元は信虎の娘を妻に迎えており、その関係によって信虎を引き取ることにした。これによって甲斐の領主交代が実現され、信虎の圧制に苦しんでいた領民は大変喜んだとしている。
 
 6、『今川義元書状』(静岡県韮山市、堀江家文書) 
 
内々以使者可令申之処、惣印軒参候由候際、令啓候、信虎女中衆之事、入十月之節勘易筮可有御越由尤候。於此方も可申候、旁以天道被相定候者本望候、就中信虎隠居分事、去六月雪斎並岡部美濃守進候刻、御合点之儀候、漸向寒候毎事御不・心痛候、一日も早被仰付員数等具承候者彼御方へ可有心得候旨可申届候、猶惣印軒口上申候 恐々謹言 九月廿三日  義元(花押) 甲府江参
《読み下し  『甲府市 史』資料編第一巻 中世 戦国時代》
内々使者以って申さしむべきところ、惣印軒が参るべきの由を承り候の際、せしめ候。信虎女中衆の事、十月の節に入り、易筮を勘せられ御越あるべきの由尤候。此方に於いても申付くべく候。旁(かた)がた以って天道を相い定められ候はば、本望に候。なかんずく信虎隠居分の事、去六月雪斎並びに岡部美濃守進らせ候刻、御合点の儀に候。漸く寒気に向い候。毎事御不便心痛に候、一日も早く仰せ付られ、員数など具に承り候はば、彼御方へ御心得あるべきの旨、申し届くべく候、猶、惣印軒が口上に申し候。恐々謹言
 九月廿三日 義元(花押)甲府江参
 
《訳  『甲府市 史』資料編第一巻 中世 戦国時代》
 内々使者をもって申し入れるつもりであったが、惣印軒(由比安里、冷泉為和の門人)が甲府へ参る由などで、かれから言上させることにする。信虎女中衆のことは、十月に入り好日を選んでお越しなさるとの事もっともに存せる。当方も受け入れ準備を申し付けておこう。どちらにしても道理のように、定めて貰えれば、当方としては満足である。とりわけ信虎の御隠居分としての手当ての件は、去る六月に雪斎と岡部美濃守とも甲府へ遣わした際に貴殿の諒解を得ていた。だんだん寒気に向かい、信虎は万事不足がちで心配している。一日も早く信虎のために送ってくれる人数や員数を詳しく承りたい。そうすれば信虎方に納得してくれるように申し伝えるつもりである。なお詳細は惣印軒が口上で申し上げることにしたい云々。
 ≪筆註≫  甲府市 史は、本書上からは、信虎が晴信と合意の上で駿河に赴いたという解釈は生まれてこない。と結んでいる。そうであろうか。合意の上で実現したからこそこうした交渉も成り立つとの解釈も十分できる内容である。
 
7、『裏見寒話』 宝暦4年(1754)野田成方著
 
義元晴信と組して、信虎を駿河へ呼参らせ、晴信思ふ儘に、策略 をめぐらせしは、偏に今川義元の分別なりと云う。
 
『静岡県の歴史』
 
氏親依頼勢力下に治めていた遠江や三河の情勢が流動的になり(略)遠江や三河の情勢安定の施策を展開していた。(略)その一つの施策として天文十年、義元は信玄と合意の上で、信玄の父信虎を駿府に幽閉したと伝えられている。
        
 ≪年表の再開≫
 
1542 天文11年
 義元、江尻の商人宿の諸役を免じる。8月、義元、織田信秀と三河小豆坂で戦う。9月、信玄、諏訪攻略、全領土を掌握する。
1543 天文12年 6月27日。
 信虎、京都・近畿を遊歴して本願寺門主光教、これに好を通じ、歓迎の使者森長門を信虎の宿舎に遣わす。(天文日記)
 1544 天文13年
 三河刈屋の水野信元、今川義元に背き織田信秀に属する。
 1545 天文14年 5月22日
 三者同盟により北条・今川の援兵、信玄の信濃箕輪城の攻めに参加する。北条氏康、駿河に侵入して義元と戦う。8月、義元、北条氏康
と駿河狐橋で戦い、武田晴信これを援ける。この時、北条も信玄に援軍を求めている。10月、今川義元と北条氏康が信玄の尽力で和睦。
 1546 天文15年
 三河今橋城の戸田宣成を攻める。
1547 天文16年
 田原城の戸田宗光・父子を攻める。
1549 天文18年
 安祥城を攻め、織田信秀の子信広を生け捕りにする。
1550 天文19年 6月2日。
 義元の正室、信玄の姉が死去する。
1552 天文21年
 義元の長女、信玄の長男義信に嫁ぐ。
1553 天文22年
 今川義元、仮名目録追加を定める。
1560 永禄 3年 5月4日。
 義元、三河守に任ぜられる。織田信長、義元を桶狭間の戦いで敗死さ           
 信玄の命を受けて穴山氏を駿府に派遣、義元死後の甲駿関係を議す。
このあたりの様子について『甲陽軍艦』の記載事項の確認をする。その後で多くの著者の見解も添えてみたい。この事件に山本勘助が関与したような記載のあるものもあるが、確実な史料から生まれた説ではないかも知れない。 
またこのあたりについては、やはり『甲陽軍艦』を紐解く必要がある。この著はあくまでも山本勘助の事績の確認の為であり、この辺の今川・武田両家の状況に勘助がどう関与していたのかを探ってみたが、不明であるとしか言えない結果となった。この経緯について書いてあるのは、『甲斐国志』のみで、他はその著者の推論が大半である。これについては後述する。

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