『甲陽軍艦』などに見る武田信玄と勘助
『甲陽軍艦』 「品第三」(訳)
甲斐源氏の国主武田信虎のご秘蔵の鹿毛の馬は、身の丈四尺八寸八分(1m48cm)その性といい姿といい、かの頼朝公の「生食」「摺墨」にも劣るまいと近国までも評判の名馬であったので、「鬼鹿毛」と名付けられた。嫡男の勝千代殿(信玄・晴信)はこの馬を望みになったが、信虎公はなみはずれた非道の大将だったので、たとえわが子の望みであっても、この馬を与えるつもりは少しもなかった。そうはいっても、嫡男からの要望を無視するわけにもいかず、最初は、「勝千代はまだ若年のため、あの馬は好ましくない。明年は十四歳になり、元服するので、武田家に伝わる郷義弘の太刀、左文字の刀、脇差、二十七代伝わる御旗と楯無の鎧ともども、あの馬を贈ろう。 とのご返事であった。
これに対して勝千代殿が重ねてお願いするには、「楯無は、そのかみ新羅三郎義光公の御具足、なおもって御旗は八幡太郎義家公より伝わるものであります。また太刀・刀・脇差はお家代々の品々、それらにつきましては、御家督を下さるときにこそ頂戴すべきもので、来年元服であるからといって、部屋住みの身の私にとってどうしてお受けすることができましょうか。 しかし馬のことは今からこれを乗りこなして、一年後には父上がいずれご出陣の折には、お後ろにつきまして警護申し上げるつもりで、所望申し上げました。それなのに、父上があのように言われるのは承服できません」
これを聞いた信虎公は、並外れた短気な方であったから、大いに怒られ、怒鳴り散らしたと言うには、「家督をお前に譲ろうが譲るまいが、私の考えが誰にわかるものか。代々家に伝わるものを譲ってやるというのに、それがいやだというのなら、次郎(信繁)を惣領として父の命令を聞かぬものは追い出してくれるぞ。そうなった時に諸国を流浪して、その果てに頭を下げて許しを請うても決して許さんぞ」と。備前兼光の三尺三寸(1m)の太刀を抜き放ち、勝千代の使いの者を主殿の方に追い払われた。しかしながら、その場に居られた禅宗曹洞宗の高僧「春巴」が、信虎と勝代の仲を取り持ち、それ以上の揉め事にはならなかった。 しかし以後もお互いに心が通わずに、信虎公は事あるごとに勝千代殿を冷遇したので、ご家中の人々も身分にかかわらずみんな軽んじるようになってきた。 勝千代殿は、こうした様子を見られて、なおさら愚かな振りをなされ、一例を申せば、馬に乗れば落馬し、背中に泥を着けたまま信虎公の御前に座っていたりした。また字を書けばわざと下手に書き、泳ぎすれば溺れて人に救われ、大きな石や材木で力比べをすれば、弟の次郎殿が二度持つものを勝代殿はようやく一度しか持たなかった。 何をさせても弟に劣った者であると、信虎公が不満を申し上げるので家中の人々も勝代の悪口を申していたという。
にもかかわらず、駿河今川義元公のお世話によって、勝千代殿は十六歳の吉日、元服なされて、信濃守大膳太夫と晴信となられる。任官のためにかたじけなくも宮中より、転法輪三条左大臣公頼卿が甲府に下向された。
また勅命によって、三条殿のご息女を晴信公に娶わせられ、その年の7月に興し入れになられた。また同年十一月は、晴信公の初陣となった。その時の相手とは、信州海野口の城に籠もっていて、信虎公はそこのご出馬、直ぐに城を囲まれたが、城中には多くの軍勢がいて、しかも平賀源心入道という勇猛の者が加勢に来て籠もっていた。その上大雪も降りはじめて城が落ちる様子はない。
そこで甲州勢は集まり相談し、その結果を信虎公に報告した。「城の中には三千人もの軍勢が立て籠もっており、急いで攻めても城が落ちる見込みはありません。攻める味方の人数も七、八千人を超えぬ状態であります。今日は十二月二十六日で、年も押し詰まっています。ここは一度甲斐に帰陣して、来春に攻撃を再開することが賢明と思われます。敵方も大雪でしかも歳末のこ、追いかけてくることは決して有りません」 と申し上げた。この考えに信虎公も賛成され、それならば、明日早々に軍勢を引くことに軍議が決まる。
その時、晴信公が出てこられ、
「それならば、私に殿(しんがり・後備)を仰せつけられたい」 と、お望みになった。これを聞かれた信虎公は、大いに笑い、「武田の家の恥辱になるような事を申すものだ。老巧の者たちは、敵が追撃してくることはあるまいと申してあるのだから、例え殿を申しつけられても、いや、次郎に仰せつけられよなどといってこそ、惣領というものではないか。次郎であれば、まさかそのような事は申すまい」 とお叱りになった。だが晴信公がさらに殿を希望なされたので、それならば好きなようにせよと、仰せられ、二十七日の晩、信虎公はご出発なさって陣を引かれた。 さて晴信公は、東の道三十里ほどの所に残り、ようよう三百人程の軍を率いて用心深く陣をはった。その夜は食糧を一人当たり三食分づつそろえ、何時でも出立てできるように、皮足袋・脛(すね)あて・甲冑も着たままで、馬には十分に飼葉を与え、鞍も着けたまま明日は早朝から出発という仕度をさせた。そして、「寒空なれば、上戸下戸にかかわらず酒を呑んで体を冷やさぬようにせよ。夜七つ時(午前4時)頃には出発する。心積もりを万全にしておけ」とご自身で触れて歩かれた。
しかし自軍の人々は、晴信公の思慮深い考えが理解できないで、「なるほど、信虎公が晴信公のことを悪く言われるのは当然のことだ。この寒空にどうして敵が追撃して来るのものか」などとお互いにつぶやきあった。 ところが殿を務めるはずの晴信公は七つ頃陣立てして出発、甲府には帰らず、もと来たほうに戻り、城にいっきに攻めかかった。軍勢3百人ほどで二十八日の早朝、難なく城を占拠してしまわれた。
当時、城の中には主な武将は平賀源心だけで、その部下の者も二十七日には、すでに帰ってしまっていた。源心も一日の休養とって、寒さも厳しい折から二八日の日中には城を出ようとゆったりしていた。また土地の武士たちも正月の意をするからといって、皆、里に戻っており、城中には七、八十人の武士が居ただけであった。したがって、源心をはじめ城を警備していた者たちは討ち取られた。晴信公は「首級をあげることは無用だ。平賀源心の首だけをここに持ってまいれ」と命じられ、首を御前に置かせた。そして城付近の家々を焼き払い、不意をつかれた侍どもを、そこここで二十人、三十人と討って捨てる。(略)敵の中には武勇に優れた者たちも多く居たのであるが、既に城は取られてうえに、まさか晴信公の部隊だけとは気づかず、信虎公が引き返して戦っておられるものと思い込む、一万にも及ぶ軍勢が攻めかかってきたのでは、とてもかなうまい、女子供をつれて逃げるのが第一------と逃げ散り、崖や谷に落ちて死んでしまった。まことに晴信公のお手柄は、古今まれなものであると、他国の家中の人々までも賞賛したことがあった。(略)これは信玄公が十六歳のときのことであった。
《筆註》さてここからが信虎、駿河退隠に関する直接的な話となる。
ところが信虎公は、これについても、「その城にそのままいて、使いをよこすということもせず、城を捨ててきたとは臆病な振る舞いだ」 と悪くいわれたため、ご家中の者も、十人の内八人までは晴信公を褒めずに、「たまたま運がよかっただけだ。加勢の者も散り、地元の侍も里へ下りていたのだから、城は空き城だったのだ」 などという者もあって、なみなみならぬお手柄と感じる者はなかった。 そして、信虎公のご機嫌をとるためには、弟の次郎殿を褒めるのが第一と考え、心では晴信公に感心しても、表面では悪く言う者ばかりであった。弟の次郎というのは、後に典厩信繁と呼ばれた人である。
ところで晴信公は、まことに珍しい大人物であられた。これほどの手柄を立てながら、奢る様子もなく、なおさら愚かなふりをしておられた。そして、度々駿河の今川義元公に手紙を送られ、「信虎公は次郎殿を惣領に立て、自分を庶子にしようといっておられますが、このことについては、義元公のお考え次第できまることであります」などと、いろいろと頼みこまれた。そこでまた、義元公も欲を起こされた。「信虎公は自分の舅にあたり、年長の、しかも勇猛な人であるから、領地は甲州一国ではあっても、自分の家来になることはよもやあるまい。あの晴信を引き立てておけば、間違いなく家来となり、息子の氏真までも武田を従えておくことができよう」 と考えられたのである。かくして、義元公は、信虎公を駿河に呼び寄せておき、その留守に晴信公を駿河に呼び寄せておき、その留守に晴信公に謀判を起こさえ、信虎公を追い出されたのである。これはひとえに、今川義元公の計画によるものであった。以上
だがこれについても、信玄公の深い考えがあったのである。信虎公が次郎殿を惣領にとお考えになったことは、もっての外のお誤りであったが為に、ご先祖の新羅三郎義光公のお憎しみを受け、あのようなご浪人の身分となられたものと思われる。
≪真相はいずこ≫
1、 『武田信玄』上巻 上野晴朗氏著 「命がけのクーデター計画」 (略)若き晴信が、信虎からさまざまにうとんぜられ、冷たくされ、疎外されていよいよその危機がせまったとき、思い悩んだすえにその苦悩を譜代の重臣、板垣信方・甘利備前・飯富(おぶ)兵部らに相談してみると、日ごろ信虎の武政治に危機感をいだいていた重臣たちは、たちまちに秘密裏に晴信のもとに結して、逆に信虎を追放しょうと企てたのである。(略)いずれにしても、晴信にとって命がけのクーデターは、さいわい見事に成功した。云々
2、『風林火山』 無生庵宗良(山瀧功)氏著「武田信玄の和歌物語」
夏の嵐ほむらたつ 栄華を今に 偲びつつ 夜来の雨に 枝の落ちゆき
信玄は父信虎を駿河へ追放し、政権の交代を計った。信玄はなぜ実の父に対してクーデターを企てたのか。父信虎は戦いは強かったが、粗暴で評判が悪く、家督を弟の信繁に譲ろうとしていた事にも因があり、更に経済的問題があった。当時天候不順で農作物がとれず大飢饉の状態にかかわらず大軍を催して信濃攻めをした事で国中の人々の怨みを受けた。信玄は重臣と謀り、甲斐の国のためにあえて父を追放した。云々
3、『甲州・武田一族滅亡記』 高野賢彦氏著
(略)廃嫡されようとしていた信玄は、おそらくこの苦衷を指南役の板垣信方に打ち明け、父を追放する謀略を慎重に練ったものと思われる。 (略)信玄は「今川義元にとって父は恩人であり舅でもある。しかし義元は猛将の父に北方から睨まれていては不安であり、若年の自分に恩を売る方が将来のために得策と考えるであろう」と思い、熟慮の末、今川家へ追放することにした。(略)「甲陽軍艦伝解」によれば、信玄の謀略を知らない信虎は、次郎の信繁を居館の留守居とし、廃嫡する信玄を甘利虎康に預けたうえで、「一左右次第(いつそうしだい)、駿府へ参れ」と言い残して甲府を発った。しかし後からやってきたのは国境を閉鎖する板垣信方らの軍勢があった。信玄は易筮(えきぜい)により自分の運を信じた。そして事が成就すると喜悦し、信虎を悪人に仕立て上げることに腐心したのではなかろうか。
4、『武田三代』 新田次郎氏著 (略)信虎のあまりにも非常識なやり方に、武田の家臣団が結束して反抗し、信虎を追放して信玄を領主に戴いたのである。この無血革命には駿河の今川義元も一枚加わり、追放されて来た信虎を引き受けて軟禁し、その保護に当たったのである。云々
5、混乱する『甲斐国志』の記述
さて、ここまでさまざまな資料や歴史家の考えを見てきたが、信虎の駿河退隠の真相は一向にわからない。つい数ヶ月前までは信虎の治世であり、家臣団のほとんどが信虎の配下であり、信玄が用意周到のクーデター計画をしている隙間さえ見当たらないのである。 その信憑性は兎も角『甲陽軍艦』には、この件についての記述が散乱している。ここでは、こうした記載を羅列してみたい。(一部改編)
品第十八(引用、『甲陽軍艦』訳、腰原哲朗氏著)
1、 父信虎が28歳のときに、駿河の福島という武将が、主君の今川義忠を 亡命させた上、甲斐に侵入したが、討ち取られた。この日に信玄は生まれた。
天文5年の項 信玄16歳
1、 信虎、天文5年11月21日から信州海ノ口を34日間攻めたが、条件が悪く攻め落せなかった。
2、 信玄、(16歳)がこれを攻め落とした。信濃大膳大夫と称していた。ただし、戦場での名乗りは晴信公と言われた。云々
天文7年の項 信玄18歳
1、 天文7年、正月元日に、信虎公は子息の晴信公へ御盃をつかわされずに、次男の次郎殿へ盃をつかわす。それで板垣信方を通じて、信虎公より嫡子晴信公へ仰せがあった。その趣旨は、太郎殿のことは、駿河の義元公の肝いりで、信濃守大膳大夫晴信と名乗っている間に、今後とも義元の元で、さまざまな教示を受け、思慮深くなるための作法を身につけるようにとの事である。晴信公はお答えして、ともかくも信虎公の御意に従う旨申しあげる。かさねて飯富兵部のつかいで信虎公が申された。その趣旨は、「この三月より駿河へ行って、一、二年は駿河ですべてにわたって、学んできなさい」というもので、その間にも次郎殿を惣領にして、嫡子晴信公を長く甲府へ戻らせないおつもりが信虎公の真意らしい。それが晴信公十八歳の時のことである。
6、『甲州韮崎合戦』の項
天文7年、信州の大将の諏訪頼重と同国深志(松本)の小笠原長時が談合した。近国甲州の太郎晴信を、信虎が見限って、次男を惣領にしようとしたことから親子の仲が悪くなった。それで晴信は知略をめぐらして、姉婿にあたる今川義元を頼み、信虎を駿河に追放したしたと聞いている。そのため甲州の勢力は信虎と晴信の二つになっている。その上、信虎が信州の領地を少し治めていたけれども、今は甲州さえも晴信の手の負えずに混乱している。云々
(略)甲州勢は、ことし信虎を公を追い出した折だったから、勢力も分散しがちで、六千ばかりであった。云々
7、『品第十九』 信玄公十九歳、その一年は無行儀、御詩作並びに板垣信形の諌言。
天文18年正月元日
右の一年中晴信公は無行儀でよろしくなかった。このことについては、当時の人々が残らず語ることはできないほどであったと伝え聞く。(略)家老の人々も、諌め忠告申し上げることができなかった。というのは、近国からも鬼神のようにいわれていた父信虎公を、晴信公はなんの造作もなく追い出してしまわれた上、その年のうちに晴信公より老巧な信濃の大将衆が、見方に倍する兵力をもって四度も甲州の中へ乱入した。それを四度まで自分で軍を率いて勝利を得られたほどであるから、誰一人として諌言するものがいなかったのである。武田の家は二十七代に、もはや滅亡するのではないかと、うわさされるのももっともなほどであった。
(略)板垣は申し上げる。
「晴信公、御詩作はいい加減になさってください。国持ちなさる大将は、国内を治め、家来を嗜め、他国を攻め取って父と信虎の十倍もの功績を挙げられてこそ、はじめて信虎公と対等になります。その訳は、信虎公は無行儀で乱れ。無軌道淫乱であられ、重い罪人も大した罪も無い者も同じように成敗なされた。ご自分が腹が立つと、善人も悪人も区別無し成敗なさる一方で出、気に入った者には、一度謀反を起こした者でもただちに所領を下さり、反対に忠節忠孝の武士で罪も無いのに、お引き立てになされぬようになされ、万事に逆の御処置をなされました。このような信虎公のなさり方を道にはずれたものと見なされ、父上でしたけれども追放なされました。その晴信公がそれから三年と経たないのに、ご自分がお好きなことにふけり、意のままになさるとは、信虎公にに百倍もまさった悪大将でございます。そうお諌め申し上げるわけですが、それでご立腹なされ、この板垣をご成敗なさるなら、私は御馬前において、討ち死にさせていただきます。
(筆註、この諌言により、晴信は涙を流して反省されたという) これは天文八年十一月一日、晴信公十九歳の御時こことである。
8、品第二十二 甲信境の瀬沢合戦の項
天文十一年二月中旬、信州勢の晴信の退治について談合する。晴信も板垣信形・諸角豊後・原加賀・日向大和や多くの武将が集まり、談合して晴信公に申し入れた。
・今川義元に加勢を頼む。
・五年まえに父信虎を追い出した。
・一旦、甲斐の兵を引いて甲府で戦う。
これに対して晴信公は、 今川義元に加勢を頼む必要は無い。 五年まえに父信虎を義元に頼んで駿河に出し・ 信虎が駿河に留め置かれたのは、義元の働きである。これは義元公が、信虎を引き受けることで、自分が甲斐を支配できる・ と、考えていた。 また信虎は舅にあたり、自分の配下に置くことは出来ないが、私晴信は義元より二歳年下であるから、なんとしても配下に置きたいと考えている。(この話はさらに続く)
9、品二十三 信州平沢の項
(略)さて二十一日には、穴山・典厩・板垣をはじめ到着し、家老衆は書面をもって諫言した。信虎公の御代にご被官にしてもらった信濃侍大将どもは、今度はおおかた帰参いたすと存じます。 五年まえに信虎公を追い出しなされ成されたときは、危うくあって、それぞれ居城に引き篭り、このごろは村上殿の勢力が危ういといって、それなりに村上殿を崇めない侍どももおります。そういう侍どもを支配し、前代のように召抱えるご分別が大切と考えます。
(略)また一方では鬼人のような信虎を追放し、その後信州衆にたびたび勝ち、加えて若いにも似合わず、勝てば兜の緒をしめるように手堅いのは、どうみても普通の人間ではないと思われる。その上晴信の父の信虎にあっては、信州の平賀城を滅亡させ、村上殿も数度に痛い目にあっておられる。 そういう辛い目にあわせた父信虎の老功にもかかわらず、謀略とはいいながら何の造作もなく駿河に追い出し、即座に国の治守を静めた。家老一人たりとも頭をあげさせず支配に服させ、五年この方、幾度かの合戦に勝利しても思慮深く慎重に統率されている。そういう点では明日はどうなるかはともかく、今や晴信は日本国の若手の大将と考える。云々