武田武将 高田備中守高松
家乗ニ江州佐々木ノ一流次郎兵衛義綱上ト云、始メテ横田氏トス、五世ニシテ高松本州ニ来奔ス、家紋四日結ノ割リタルナリ、釘抜ニ似タリ、又六本ノ箭車ヲ用イ、「軍鑑」ニ云本国伊勢人、足軽隊将、騎馬三十、卒百人ヲ統領ス、
場数三十四度、身二三十疵アリ、食邑三千貫ニ至ル、信州砥石ニテ戦死セリ、「勝山記」ニ天文十九年(1550)九月朔日、横田備中守始メ随分ノ衆千人計討死メサレ候トアリ(「軍鑑」ニ戸石ノ戦ヲ十五年三月十四日トスルハ非ナリ)
同十郎兵衛康景
(信州下ノ郷起請文ニ名押アリ、「家乗」綱松トセリ今従手書)軍鑑ニ実ハ原美濃守ノ長男ナリ、初名ハ彦十郎為ニ備中守嗣本部ノ兵将タリ、識量有リテ勇略超人、凡辺境ノ番手或ハ先鋒ノ土大将ニ差添ヘラルルハ、加勢ノ足軽隊将卜云、横田十郎兵衛、城意庵等、其右ニ出ツル者ナカリキトナリ、天正三年(1575)五月二十一日、長篠ニ戦死ス、年五十一、
(「四戦紀聞」備中守忠豊、信長記為備中守「編年集成」十郎兵長之、「異本徳川記」備中守、十郎兵衛二人討死トス、「古戦録」為守重、壬午記載ニ守豊者、「烈祖成積」作ニ重量汎々トシテ皆所レ徴ナシ)府中清運寺過去帳ニ二廿一日法入(横田於長篠討死)清運(同上)ト見ユ、寺記ニ清運ヲ十郎兵衛ナリト云伝へタリ、法人ハ末知何人或ハ二人為討死者蓋シ有所見カ、又後ノ書ニ横田次郎兵衛トアリ、始末ヲ知ラズ、北越ノ記録ニ永禄中横田源助ト云ウ者ヲ載ス末考。
横田甚右衛門尹松
(「三代記」光胤ニ作ル、「大坂軍記」尹植トモアリ未考)
十郎兵衛ノ男、始甚五郎名ハ勇謀父祖ニ相次ケリ、味方原ニテハ十九歳ナリ、天正壬午ノ時(天正十年 1582 武田滅亡)幕府ニ帰シテ御使番、「軍艦」ヲ勤ム、本州ノ人、初鹿野伝右衛門、城和泉守、真田隠岐守(「滋野世記」等云即チ加津野市衛門也)屋代越中守卜同列ナリ、清運寺ノ牌ニ「二覚誓院無言道本居士」、善光寺ニ建ニ石塔銘ニ「無言道本居士(天正十二年(1584)三月逆修)牌子ノ背ニ、本来の空にひとしき無縫塔これを名つけて無言道本寛永十二乙亥年(1635)七月五日卒ス、按ニ年八十、子孫幕府ニアリ。