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元禄十六年 江戸地震 その時江戸城は

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元禄十六年 江戸地震 その時江戸城は

新井白石「折たくの記」

 『古典日本文学集35』「江戸随想集」古川哲史氏他著
筑摩書房 昭和42年発行 一部加筆
元禄十六年十一月二十二日 
 わたくしがはじめ湯島に住んだ頃、元禄十六年十一月二十二日の夜半すぎの頃、大地震がおこって、目がさめ、刀をとって起きあがると、ここかしこの戸障子が皆倒れた。妻子らの寝ているところへ行ってみると、皆もう起きている。家の後ろの方は、高い岸の下に近いので、皆を引きつれて東の大庭に出た。土地の裂けることもあろうかと、倒れた戸などを出して並べ、その上に座らせ、やがて新しい着物に着替え、裏打ちした上下の上に道服(袖広く、腰より下に襲のある僧衣に似た上衣)を着て、「自分は殿中に参上する。供の者二三人ほど来い。その他の者は家に残っておれ」と言って、走り出た。途中で息の切れることもあろうと思ったので、小船が大きな浪にもてあそばれて動くよ
うな家に入って、薬箱を探し出して、かたわらに置きながら、衣服を改める間に、かの薬のことは忘れてしまい、そのまま走り出たのは恥ずかしかった。
 こうして走って行くうち、神田明神の東門の下まで来た時分に、大地がまたひどく揺れた。この辺の商人の家は、皆家を空っぽにして、多くの人が小路に集まっていたが、家のうちに燈が見えたので、家が倒れたら火事になるだろう、燈を消せ、燈を消せと呼ばわって行く。
昌平橋のこちらで、景衛(かげひろ 時に朝倉余三といった)が自分の方へ走って来るのに行き合い、「あとのことは、よろしく頼む」と言い捨てて行く。橋を渡って南に行き、西に折れて、また南へ進もうとするところに、馬をとどめている人を月光にすかして見れば、藤枝若狭守である。これは、地面が裂けて、水が湧き出たので、その深さや広さがわからないままにそうしていたのであろう。「者ども続け」と言って、一丈余りになって流れる水の上を跳び越えると、供の者どもも同様に越えた。その水を越えたとき、足を濡らした。草履が重くなって、歩きにくくなったので、新しい草履にかえて、走って行くうちに、神田橋のこちらまで来ると、大地がまた酷く揺れた。たくさんの箸を折るような、また蚊の群れて鳴くような音の聞えるのは、家々が倒れて、人が悲鳴をあげるのであろう。石垣の石が飛び、土が崩れ、塵が舞いあがって空を覆う。これでは橋も落ちたと思ったところ、橋と台との問が、三、四尺ほど崩れたので、跳びこえて門に入ると、家々の腰板が離れて、大路に横たわっていて、長い布が、風にひるがえっているように見える。竜の口まで来て、遥かに望むと、藩邸に火災が起こっている。その光が高くないのは、御殿が倒れて、火災が起こったためかと非常に心配になり、心はさきへ走るが、足はただ一所にとどまっているような気がする。ここから四、五町ほど行ったと思う頃、馬の足音が後ろの方にするので振り返ると、藤枝が駆けて来るのであった。自分はここまでは来たが、これから先の事はどうなるかわからないので、「若狭守殿と見うけられます。あの火災の様子は、はなはだ心配です」と言うと、「おっしゃるとおりです。おいで下さい。馬上のままで失礼します」と言って、馬を走らして迫って行った。
 やがて日此谷の門まで来ると、番小屋は倒れ、圧されて死ぬ者の苦しそうな声が聞える。そこに、また馬からおりて立っている者を見ると、藤枝であった。これは、楼門の瓦が、南北の櫓から地面に落ち、それが重なって山のようになったので、越えることができなかったためである。「さあおいで」と言って、いっしょに、その上を越えて、小門を出て見ると、藩邸の北にある長屋が倒れて、火災を起こしている。御殿には、はるかに隔っているので、心の晴れる思いがした。藩邸の西の大門が開けて、番所が倒れているのが見える。藤枝はここから入ろうとする。わたくしはいつも西の小門から参内していたので、「小門から入りましょう」と言って、別れた。こうして小門から入って見ると、家々が皆倒れ傾いているので、屋外に避難している人のために、路がふさがって進むことができない。そこを過ぎて、いつも参上する所に着いたが、そこも倒れていて入ることができぬ。藤枝がまたその辺にたたずんでいたのを連れて、御納戸口といわれている所から入った。ここかしこの天井が落ちかかっている所々を過ぎて、わたくしはいつも祇候する所に参上すると、今の越前守、詮房(あきふさ)朝臣がこちらの方へ来るのに行きあって、御無事でおられる由を聞き、「こういう非常の時ですから、推参いたしました」と言い捨てて、常の御座所に参上したところ、その庇のうえに、東の建物が倒れかかりていた。
近習の人々は、南の庭上に立っていた。上様はあちらの庭においでになるという。戸田、小出、井上などの家老たちも、ここに入って来る時は、庭上に立ったので、五十嵐という人と相談して、御庇の間に敷かれた畳十枚ほどを庭上におろして、皆をその上に坐らせた。地面がしきりに揺れるので、坐っている背後の他の岸が次々に崩れて、平らかな地面も狭くなった。
 こうしているうちに、酒井左衛門尉忠真が仰せを受けたといって入って来て火を防ぐ。火の勢いが強いなら、御座所を移されるがよいなど申しあげると、御袴のみに、御道服をめされて、いつもの御所の南面に出てお立ちになり、わたくしの祇候しているのを御覧になってお召しになる。御縁のところに参上すると、地震のことを詳細に質問なさった後、奥へお入りになった。夜が明けそうな頃になって、将軍のところへ参上しょうとおっしゃる。自分は大久保長門守の耳に口を寄せ、「地案はなお頻繁につづいている。おいでになるのは、どうであろう」と言ったところ、「わたくしもそうは思うが、おとめするわけにもいかない」と言ううちに、出立なさった。こうしてかの火事の起こった場所へ行って見ると、倒れた家に圧されて死んだ者どもが、ここかしこに引き出されている。井戸も泉も、みな水がなくなってしまったので、火を消すすべもない。
 この時お庭の池水を汲むと言ったのに、今の曲淵下野守が、この水は使う時があると言って許さなかった。どう考えたのか、よくわからぬ。
 こうしているうちに、いまの隠岐守間部詮之が、わたくしを誘って、兄の詮房朝臣の家の庭に入って食膳をすすめた。昨夜、侍医の坂本という人が、庭に来て、わたくしだけを呼んで、袖から食物を出して与えた。湯にひたした飯を、茶碗に盛ったものであった。それを食べてのち、しばらく時間がたっていたので、飯を食べ、酒を飲んで出た。今の市正藤正直の家の前をすぎると、呼び入れて茶を与えた。こうしているうちに、お帰りになると聞いて、お入りになるべき場所に赴いて、お迎え申しあげる。そこから、家老たちと自分と四人連れだって、どこであったか、細い渡り廊下のある所を通って、常の御座所の方へ行くと、応急に造った場所に来た。人々は草履を袖に入れていたが、戸田にはその用意がないと見えた。自分は、こんなこともあろぅかと予測して、はじめ庭上にいた時、そこらにあった草履を左右の袖に入れておいたので、取りだして与えた。そのうちにふたたびさきの場所におでましになってわたくしを召し、「自分が幼時、上野の花見に人々が群集しているのを見たのに似ている」とおっしゃって、お笑いになった。そうこうするうち、火も消しとめた。 
昼の午後一時にもなろうとする頃、またおでましになって、わたくしを召された。参上すると、「妻子らのこと、その後の消息を聞いたか」と仰せがかった。「昨夜参上しましてからはここだけにおりますので、それらのことも聞いておりません」と申しあげる。「白分が谷中の別邸へ行く時に、人の教えたところによれば、居所は高い岸の下にあったと覚えているが」とおっしゃる。「そのとおりでございます」と申しあげる。「非常に心配なことだ。この様子では、地震は数日続くであろう。最初のときのように地震がない限り、来る必要はない。急いで家に帰れ」とおっしゃったので、退出して供の者を探し出して、「昨夜のままだったのか」と問うたところ、「今朝早く、家に留守番でいた者どもが来て代ってくれましたので、家に帰って、食事をして、また参りました」と言う。これによって、妻子に事故のなかったことをも知った。安心して家に帰ると、午後二時過ぎであった。
 翌日、藩邸に参上したところ、御殿は残らず傾いたので、東の馬場に仮屋をつくらせておいでになる。地震はなお頻繁につづき、きっと火災が起こるにちがいないと思われる。自分の塗籠は傾くまでではないが、壁のところどころ崩れおちた所が多いので、崩れた土を水にひたして、その毀れた所を繕い塗らせた。予測したとおり、同月二十九日の夜になって火事が起こった。資財はみな塗寵におさめたかと思うが、地震はやまない。塗籠が倒れるかも知れず、また塗って修理したところの土はまだ乾かず、火の勢は盛んで、新旧の土の間が開けたら、そこから内部へ火が入るかもしれないので、やがてその付近の地に穴を掘らせ、下賜された書物や、自分の手で抄録したものなどを塗籠から取りだして、かの坑の中に入れ、畳六、七畳をその上に並べて置き、土を厚くかぶせて、家を出た。ここかしこで、火のために道をふさがれ、火の勢の少し衰えたすきをねらって、その焼けすぎたあとの這を通って家に帰ってみたところ、かの書物を埋めた穴に近い岸の上にある家が焼けおちて、火がまだ消えないままであった。しきりに水をそそいで、火を打ち消し、焼けた家の柱などをとりのけてみたところ、その家の焼け落ちた際に、埋めた土をはね散らして、上にかさねた畳が焼け失せ、下の畳に火がすでに燃え移ったところへ帰って来たのであった。塗範は予測とはちがって、倒れもせず、焼け失せもしなかった。それでははじめ穴を掘り、書物をおさめたのは、徒労であった、と言って笑った。

《参考資料》『楽只堂年録』柳沢吉保・吉里

今暁八つ半時希有の大地震によって吉保と吉里急いで登城する、大手乃堀の水溢れて、橋の上を越すによって、供乃士背に負て過く、昼の八つ時過に退出する、夜に入って地震止されば四つ時吉保、登城して宿直する。

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