武田武将 日同大和守
比志神社(現須玉町比志)ノ棟札ニ大永戊子年(1521)日向大和守是吉、同子息新助虎忠、弥四郎秀泰トアリ(諸録名昌時ニ作ル非ナルベシ入道宗英)
「大官神馬奉納記」ニ日向玄徳斉宗栄花押見エタリ、逸見筋村山北割(高根町)光村教寺ニ大和夫婦、藤九郎、二郎三郎ノ列牌ヲ置ク、大和ノ法名ハ「景照院光岳村公大居士」寺記ニ大和ノ名ヲ光村卜伝へクリ(同筋比志村徳泉寺逆修ノ碑ニ「徳泉寺殿花屋宗栄居士」日向大和守源朝臣兼繁トアリ、其名皆異ナリ、仏寺ノ記ハ誤ルモノ多シ)軍鑑ニ天文中信州深志ノ城代トナル、後大島ニ移ル、天正壬午ノ時、諸城自落スルニ及ビテ大和尚大島ニ在リ、甚老テ軍役ニ堪ベカラス、猶震テ馳ントス、家人透カシ以テ所領村山ニ帰ル、大和初メ不知之、以テ敵ニ向フト思ヘリ、大イニ怒リテ終ニ自殺スト云々
日向藤九郎
軍鑑ニ奥近習五人ノ一ナリ、永禄五年(1562)松山ノ役炮ニ中テ死ス、次郎三郎ハ村山ニ於テ大和卜同シク自殺スト、甲乱記、三国志等ニ見エタリ、光村寺ニ「覚等勇閑禅定門」(藤九郎)音宗空観禅定門(次郎三郎)
日向玄東斉宗立
(諸記作見桃、賢桃、源藤非也)大宮神馬奉納記ニ名押アリ、「兵家茶話」ニ日向家説ヲ引テ北越ノ臣新津右京ノ子某甲州ニ来リ、日向大和ニ倚リテ信玄ニ仕エル、源当斉是ナリト、一説ニ大和ノ妹婿と云ウ(「軍鑑」ニハ大和ノ親類御使者衆信州ノ人ナリトアリ)「身延祖師堂過去帳」ニ慶長十三戊申(1608)八月十四日宗五日明(日向玄東斉、「大野過去帳」ニ妙光院日明ニ作ル、年号ナシ)同年五月廿八日南清院妙五日陽(日向半兵衛悲母)寛永二丑(1625)四月廿七日現宝院妙祐(同人姉)トアリ、凡本州人除髪法名ヲ記ス時、又氏ヲ称ル者無カリシニ日向玄徳斉、同玄東斉、城ノ意庵三人氏ヲ記スヲ視ル、或人 云、彼三人ハ浮屠者流ニ非ラズシテ自ラ薙髪シテ雅名ヲ号卜為スノミ、法名ニハ非スト今尚此類多シ。
日向半兵衛正之
系図ニ名正成ニ作ル、玄東斉ノ男ナリ詔禄同シト推モニノ宮、御岳等所蔵ノ寛永八年(1668)八月八日天野伝石衛門信方連名花押ノ書ヲ視ルニ政之トアリ今訂之、「軍鑑」ニ小姓衆日向伝次郎アリ玄東斉ノ男疑ウハ、半兵衛即チ同人ナルベシ、前年集成天正壬午(十年 1582)九月廿五日ノ記ニ横田甚五郎ノ妹聟日向伝治郎、又十一月十一日ノ記ニ日向半兵衛御家人ニ列ス云々、系図ニ同十一末年閏正月十四日本領駿州厚原甲州竹居ニテ御朱印ヲ給ヒ石水寺城番ヲ勤ム、慶長十八年(1613)足軽五十人預ル(按ニ此年ヨリ本州ノ奉行ナリ)元和四年(1618)加増甲州国分村、末木村、下産沢村、合千石(按ニ此年ヨリ忠長卿ニ附属)寛永二十未年(1643)五月二日逝ス、法名「慈恩院道慧日景」(身延会合所過去帳ニ見ユ)子孫幕府ニ在リ家紋丸ノ内ニ贋羽違ヒ日向ハ地名信州佐久郡ニ在リ。
日向平兵衛
身延過去帳廿一日華光院殿日耀(日向半兵衛妻)ト見エタリ
日向五兵衛可加
半兵衛本州ノ奉行タル時名代トシテ甲府ニ在リシ人ナリ蓋シ族人ナルベシ。