宝永地震
『日本被害地震年表』
宇佐美瀧夫氏著 東京大学名誉教授 一部加筆
宝永四年一〇月四日(一七〇七年一〇月二八日)に発生、M8・4。
震央は東経一三五・九度、北緯三三二一度の紀伊半島沖。
安政元年(一八五四)に起こった安政東海・南海両地震の各地の震度の大きい方の分布と、震度分布が似ているので、この時の地震も東海沖と南海沖に同時に二つの地震が発生したと考えられている。
翌日には甲斐に大きな余震が発生し、同地方に大被害を与えた。
震害は伊豆以西の各地に、浪害は伊豆~九州の太平洋沿岸に発生した。被害
の最も大きかったのは遠江、三河、尾張、伊勢、志摩の沿岸の沖積地で、家屋被害は袋井では全滅、見付、浜桧、鳴海、宮、四日市で半ば潰れという。
大阪で崩家一〇〇〇ともいう。江戸は天水(当時の貯水槽)の水がこぼれる程度、また震源から遠く離れた出雲で倒家一三〇。津波被害の最大は土佐で、流失家屋一万一一七〇、潰家五六〇八、死者一八四四、行方不明者九二六に
上った。高知市の東部の地約二〇平方㌔㍍が最大二㍍沈下して、船で往来したという。
その他、紀伊、伊豆での津波被害も大きかった。また、室戸岬、串本、御前崎が一~二㍍隆起した。
この地震による全被害は死者五〇三八、潰家五万九二七二、流失家屋一万八〇二五、田畑損一万六三六〇町と一四万四七九八石、堤損四二万四〇五一間と五一八〇カ所、舟の流破損三九一五である。なお、この数字は最低のものと考えられる。また、この年の一一月二三日、富士山が大爆発し宝永火口をつくつた。
宝永4年富士山噴火資料
「隆砂記」富東一禿著 正徳六年(1716)
読み下し、永原慶二氏著「富士山宝永大爆発」
第一章 六二0年ぶりの大爆発(P34・35)
これ時に宝永四丁亥の年冬十一月二十三日昼辰の刻、大地俄かに動揺して、須臾(シユユ・しばらく)あって黒雲西方より出でて一天を蓋(オオ)う、雲中に声有り百千万の雷鳴の如し、巳の刻ばかりしきりに石砂を雨(フラ)す。大は蹴鞠の如し、地に落ちて破れ裂けて火烙を出す、草木を焦し民屋を焼く、時に雷声有って東西より中途に至りまた東西に別る、これを聞く者数十里のうち己が屋上にあるが如とし、火災なき所は日中猶暗夜の如し、燭を点じてこれを見れば黄色にして塩味有り、まさに憶え三災壊空(エクウ)の時至る、男女老少仏前に座し、高声に仏名を唱え、慇懃に聖経を誦し、唯□(祈カ)臨終速、夜半に至って雲間に星光を見る、識る、天未だ地に落ちず、然りと雖も世界一般石砂従(タトイ)天地有るとも生民何を以てか生命を存せん、なお速やかなる死を欲す。
二十四日に至って微明有り、燭を捨て始めて親子の面を見る、雨砂微少にして桃李の如く、
二十五日雲中日光を現す、雨砂なお微かにして豆麦の如く、間に桃李の如きあり、前日他方に行きし者帰り家人に告げていわく、これ士峰(富士山)火災なり、富東数郡に及びなお平安の土地有りと、生民これを聞きて蘇息す。資財を捨て重器を忘れ、老衰を扶け幼弱を負い、牛馬を牽き西南に走る、鳴呼悲しい哉禽獣は地無くして飛走(トビサ)るべきに打殺され斃れぬ、
二十六日に至って半晴辛暗、雨砂微塵の如く、まま豆麦の如き有り、
十二月初八日に至って雷鳴尽き雨砂なお止む、天気元の如し、国令命を下し、生民を弔い、石砂の深厚を計る、近村遠郷平地山沢おのずから浅深有り、富麓一村は平地一丈二尺、その山岸深沢は人カを以て計るべからず、我が村は富麓の村を去ることわずかに三里、士峰焼穴を去ること九里、なお平地三尺五寸、その山岸深沢は一丈二丈五丈七丈に及べり、士峰の火災それ希有哉、生民の辛苦大いなる哉、降砂の害を恐れ、一旦他方に走るといえども誰か食邑(ショクユウ)の地を与えん、再び砂石の中に帰り、虆梩(モッコ)を以て屋棟の降砂を山沢に除き、水カを仮りて田畠の砂石を川合に流す、累代の重器を売り老親の保養と為す、親愛の幼児を出して他郷の奴僕と為す、況や牛馬眷属に於てをや、ことごとく四方に散じ、砂を払う器具を求む、それ平世三尺の地を平げ一丈の井を掘る、人以て難事と為す、郷に食無く土地に旦夕飢渇の身あるのみ、深厚の石砂を膏腴(コウユ)の良田と為す、辛苦多少なり、余筆記して後世に伝うるものは海水の一滴、九牛の一毛なり、曲暢旁通に至って我れに孟軻子弁有り、班固子筆を与うるも未だ及ぶべからず。