宝永大噴火奇聞(泉昌彦氏著「伝説と怪談」より)
<昼日中提灯をつけた大噴火>
二十二日、朝から富の富士山は「腹の底」にこたえるような鳴動をはじめた。「ゴロゴロゴロ」と、山鳴りのはげしくなった午後二時頃からは、二十三日の朝までに家の倒れるような地震が相ついで三十数回もおこった。
この間にも軽震は絶えまなくおこり、ついにお山は火を吹き出し、樹海といわず、溶岩の隙問といわず、ボイラーのフタをとったようにはげしい白煙をふき出した。このため木の葉は爛れ(ただれ)、穴へもぐっていたヘビやカエルも、冬眠をやぶられてノロノロと這い出しては熱気で茹(ゆだ)ってしまった。
もうこの頃になると、翅のある鳥はとっくにとび去り、足のある野獣も御坂山脈の方へ姿をかくして、お山はもうからっぽだった。
<宝永年間諸覚>
十一月廿三日(新暦12月16日)
未ノ日、終日曇リ。朝ヨリ昼迄地震間モナク、申ノ刻ニハ、暗ク成コト日暮ノ如ク、火ヲ燈シ候程ナリ。震動度々ナリ。雷ノ如ク鳴コト強シ。午刻ヨリ白キ灰ニナル。夜五ツ時迄ニ余程フル。後黒キ灰ニナル。夜戸障子ビリビリ動クコト、地震ノ如シ。雷不絶鳴。
<翁草>
廿三日四時ヨリ、富士郡中響キ渡リ、近里ノ男女絶死仕候者多ク候。然ル処、同山雪ノ流、木立ノ境ヨリ夥敷(おびただしき)煙リ巻出、猶以山大地吏ニ鳴渡、富士郡中一通ノ煙リニ時計ウヅ巻、暮時ヨリ火焔ト見候。焼口一ツ、在所ノ者共一人モ不残、木ノ枝二手足掛リ居候。
<翁草>
二十三日午の刻時分、いづくともなく震動し、雷鳴頻にて、西より南へ墨を塗りたる如き黒雲たなびき、雲間より夕陽移りて、物すさまじき気色なるが、程なく黒雲一面になり夜の如く、昼八つ時より鼠色なる灰を降らす。江府の諸人魂を消て惑ふところに、老人の申けるは、此の三十八九年以前、斯様の事あり、是は定て信州浅間の焼ける灰ならんと云、仍て諸人少しく心を直しけるに、段々晩景に至り、夜に入に随て、やゝ強く降しきり、後には黒き大夕立の如く降り来て、終夜震動して、戸障子も抔(など)繭益く峰㌻,.り後に値黒き大汐立の如く降來て、絡夜震働し、戸障子杯(など)も響き裂け、恐しさ譬(たと)へん方なし、総て昼八つ頃より、空くらき事夜の如し。物の相色も見えねば、悉く家に燈をとぼし、往来も絶えて、適々通行の人は、此の砂に触れて目くるめき、怪我などもせしも有とかや、諾人何所以を不知、是なん世の滅るにやと、女童な泣きさけぶところに、翌日富士山焼候よし注進有てこそ、さてはその砂を吹き出して、如此ならんと始めて人心地付けたりける。
砂降る事凡七八寸、所に寄り一尺余も積りしとぞ。事終わりて砂を掃除すると雖も、板屋などは、七八年過ぎ候までも、風立つ折には、砂を屋根より吹き落とし、難儀いたしける由。また翌月より春にいたり、感冒咳嗽一般にはやり、家々一人洩らさず是に悩まさる、その節の狂歌に
是やこの行も帰るも風ひきてしるもしらぬも大方は咳
奥秩父の山火事のとき、とび出してきた数百頭もの山うさぎをアミでとったという話もある。富士山の噴火ともなれば野獣の、のがれていく姿も多く見かけた。
二十三目の十時頃、大地震、山鳴りというすさまじいるつほのなかで、ついに富士山は、雲をつき破って大火焔を噴きあげた。「ド、ド、ド、ドヵーソ」「ド、ド、ド、ドカーソ」耳の障子は破れんばかり、大地はゆれる、山は鳴る。十二、三キロ四方に真赤の火山弾がとび散って、たちまち甲、駿、相模は夜昼灰の闇にとざされてしまった。
火山灰がまるきり太陽の光りをさえぎってしまったのだ。ものすごい降灰で、江戸も昼日中まっくらやみ、ましてや富士山のおひざもとはまっくらけで、鼻をつままれても分からないので、日中、提灯(ちょうちん)をつけて歩いた。
灰の降ること二十日間、この問富士山はただ暗やみの中で火を吹き続けた。ともかく、十二月中旬にいたるまで噴火は続いたのだ。
ようやく人の顔が見えるようになった頃、富士山麓はまさに灰色の底にすっぽりうもれていた。家はつぶれて灰にうずまり、田畠は溶岩でゴロゴロ、これに灰がニメートルも三メートルもつもって、まったく死の世界であった。
宝永の大噴火で、スマートだった富士山の胸のあたりには、デッカイたんこぶ宝永山ができ上っていた。
幕府は関東一円に灰を降らせた田畠の復旧と、住む家を失したった農民に対して、救済するために、一万石に対して二百両(いまの五百万円)当たりの金を拠出させた。十万石の大名は、いまの金で二千五百万円も出した勘定だ。石高百石取りの下級武土まで二両を拠出した。この金、〆て四十八万両にのぼったが、幕府は十六万両を出しただけで、三十六万両は将軍さまの台所へまわってしまった。(江戸時代史)
宝永大噴火奇聞(泉昌彦氏著「伝説と怪談」より)
<宝永大噴火の日記(富士吉田師職田辺安豊記)>
宝永四年十月四日、大地震おこる。二夜三日神事をおこなったところで神の告げあり。大火来ると…(以下分かりやすくして付記した)
●二十二日、暮六つより(いまの午後六時前後)地震数十回おこる。暁よりは地震の数はもうかぞえられないほど頻発する。
●二十四日、巳の刻(午前十時)頃、天よりまるい鐘ほどもある光がくだるとみるや、黒煙山のようにのぼり、富士山が鳴動し轟音を発すること、天上の百雷を一つに集めていちどに落ちたほど。稲妻もしきりにおこり、みな肝をつぶしたほどであった。酉(夕方六時)の刻より雷光はいっそうはげしく、火烙は火の玉が逆に天へ上るようで、このため夜が昼のように赤々と照らし出した。
●二十四日、巳の刻(午前九時~十一時)、煙が四方へ墨をふりまいたようにひろがり、須走は石と砂が降って八十六戸の家はすべて焼かれ土に埋もれてしまった。降灰の深さは約三メートル、このため村人は逃げ去って無人の村となった。女子はナベ、カブを頭にかぶって四方へにげたが、真赤にやけた火山弾が「ゴチーン」とぼかりナベをつき破って頭から腹へとびこみ、命をなくしたもの、重傷を負うもの数しれず、戌の刻(夕方六時~九時)には、又々家のつぶれる大地震でのこった家はすべてつぶれてしまった。音も光りもますます激しくまさにこの世の生地獄のようだった。
●二十五日、朝すこし陽が射したが又昼頃から曇った。
●二十六日、師職、神官たちが集って、各浅間神杜につめて、禁足のまま御山の安全といかりをしずめる御祈祷した。そのうち西風がでて黒煙もようやくはれ、鳴動も次第におさまって来たので大祝詞をあげた。近隣、遠村を問わず参拝の民衆は、稲麻竹葦(からだがくっついてもみくちゃ)のように雲集して祈りをささげた。
●二十七日、けむりはふたたび空高くのぼり午の刻九つ(十二時)頃に薄陽がさした。
●二十八日、鳴動、光りもやわらいで、大鳥居や富士の砂礫の上で貴賎群衆、悪人、善人のくべつなく一心にお山へいのりをささげた。
●三十日、みそかの戌の刻すぎ大地震がおこり、震動、煙も特別大きく、火の玉があがって溶岩がどっとおし出してきた。
●十二月一日、日の神を朝より拝む。
●二日もおなじ、
●三日の夜は曇ったまま四日をむかえて暁に雪が降って白くなる。又巳の刻(午前九時三十二時)大地震がおこって夜半までゆれる。火の玉はますます激しべ光りきらめいた。五日、ことに南風にて昼すぎまで天地鳴動した。しかし申の刻(午後三時~六時)の下刻より急に静かにたった。
●六日、七日朝から明るい太陽をのぞみそのありがたさに祈った。
●八日、地震はまたも度々おこり、子の刻(夜中の十二時)ばかりには特に大きくゆれた。火の玉も千たびも上った。さるほどに神風のせいか、寅の刻(午前三時~六時)ようやくおさまった。
駿東郡は、足柄より富土山頂まで、村里も草木も焼かれて砂だけの一望灰色にとざされた。鎌倉でも三十センチから九〇セソチの灰がつもった。
河の水も井戸水もたえて、のどを潤るおそうにも一滴の水もない。人々は江戸高井戸、八王子、谷村ときいて富士へ登るべく、新しい宝永山をみたくて集ってきた。このとき山中、長池、平野は灰の降って以来、草木は絶えて出でず。以上すさまじいさまがよく綴られている。