富士浅間明神(上吉田村)
○ 諏方ノ森ニアリテ除地六段八畝弐拾四歩
○ 例祭四月初申日社主小佐野伊勢、御師八十六家
○本殿(梁弐間五尺、桁間、高三丈六尺)
元和元年(1615)烏居土佐守、再建延宝六(戊午)年(1678)秋元摂津守、修造、後、藤原光清と云う者(江戸人)本願として再建、享保十八年(1733)造営、元文三年(1738)三月落成
○幣殿(梁三間弐尺桁弐丈八尺)
○拝殿(中央間梁三間弐尺桁弐丈七尺、両脇間梁桁各弐丈七尺。元和元年(1615)本殿と共に造営、慶安二年(1649)已丑秋元越中守富朝修造、後本殿と共に光清修造)
○本殿玉垣(三丈五尺左右同)
○神楽殿(方三問半拝殿の前にあり)
○闇神門(梁三丈壱尺五寸桁弐尺)
○石玉垣(左右各拾間)
○護摩堂(方三間闇神門の右にあり。鶴島村法性寺持。毎歳四月初中日護摩修法あり)○鐘楼(堅弐問弐尺壱寸横弐間四尺五寸五分、洪鐘寛文八年(1688)秋元摂津守寄附、銘別記古鐘あり。元和五年(1619)烏居土佐守成次寄附銘別記)
○水盤石(幅六尺弐寸長九尺六寸屋柱ノ問弐間半、三間神楽殿の東にあり。この水、富士山下「泉津」と云う地より湧出す。此二至テ弐里余引来る。銅龍盤上ヨリ水を吐く)○額殿(縦四丈五尺幅壱丈五尺鐘楼の東にあり)
○斎浄所(七間に六間、拝殿の東にあり)
○台所(六間三間)
○神馬屋(神楽殿の西にあり)
○外石玉垣(縦四拾壱間横三拾七間)
○富士登山門(玉垣の西隅にあり、額字富士山横額、天和二壬申年(1682)八月朝鮮人春斉書、前に銅烏居あり)
○神輿屋(登山門の西にあり、三間四面今廃せり)
○末社八祠、富士権現(本殿の東南隅にあり、梁壱間弐尺桁弐間五寸。社記云貞応二癸未年(1223)平義時建立、永禄四年(1561)武田信玄造営)
○紀州明神(本殿の東にあり、梁三尺五寸桁六尺壱寸)
○太神宮(本殿の西にあり、梁弐間五尺弐分桁三間、社記云、文禄三庚申年(1594)浅野左衛門佐造立)
○山王権現(本殿の西にあり、梁弐尺三寸桁五尺六寸以下三祠同地にあり)
○高宮(梁弐尺三寸桁五尺三寸寛永十三丙子年(1636)九月新造の棟札あり)
○愛宕祠(梁弐尺八寸桁四尺九寸)
○天神祠(梁三尺七寸桁弐尺弐寸)
○地神祠(梁三尺桁壱尺八寸)
○天満宮(梁弐尺八寸桁四尺九寸神楽殿の西にあり)
大烏居(高五丈八尺両柱ノ間六間。
◇ 「勝山記」云、文明十二庚子年(1480)三月廿日、富士山吉田鳥居立つとあり。此時初て造立するか。将再建のことか不詳、
◇ 又明応九庚申年(1477)再建あり、寛文六丙午年(1666)秋元氏本願として再建、貞享五年戊辰年(1688)五月修造)
◇ 額(竪七尺五寸幅四尺七寸五分)文字三国第一山(曼珠院宮無障金剛入道二品親王良恕書、寛永十三丙子年(1636)二月十七日、秋元但馬守寄進古額あり、筆者不詳)
○烏居外末社八幡宮(梁壱間弐尺桁弐間五寸)
○秋葉祠(梁弐尺弐寸桁三尺七寸八幡ノ北にあり)
○庖瘡神(梁三尺壱寸桁五尺三寸)
○山王廿一社十禅師祠(今廃、寛永十三年(1636)の棟札存するのみ)
○稲荷明神(梁三尺五寸桁六尺壱寸烏居の西にあり)石橋長壱丈弐尺幅壱丈 壱尺二枚石なり)
○御手洗川(是より西行すれば下向通なり。弐町四間にして横町の端に出)
○仁王門(梁壱丈八尺桁六間下吉田月江寺持)金灯籠八対、石灯籠八拾三対、 随神門より御手洗川迄廿間、御手洗川より大門前まで三町五間。
○正殿絵馬弐枚(方四尺椿筆画)元和四年(1618)戊午五月、鳥居土佐守寄進同壱枚(竪四尺余横六尺「古松猿画」狩野常信筆、元禄元戊辰年(1688)秋元但馬守寄附)
○ 同馬画(狩野洞元邦信筆、元禄十一戊寅年(1698)戸田能登守忠真寄附)
○ 銅灯籠弐基、左従五位下行谷村侍従但馬守藤原朝臣秋元喬朝元禄十四辛己年(1701)春三月庚申日、右従五位下伊賀守藤原朝臣秋元尚朝元禄十四辛己年(1701)九月十六日、末社両伺、鐘楼、随神門、御供所、並に延宝六戊午年(1678)秋元但馬守修造、富士山北面之画一幅(竪五尺五寸五分横四尺弐寸)狩野法眼永真筆寛文十二(壬子)年(1672)秋元氏寄進、太刀一振(長弐尺五寸)長船経家作延宝八(庚申)年(1680)秋元但馬守寄附(折紙副)
○ 社後瑞垣の外に大なる古塚あり。「大塚」と号す。土人相伝ふ、是古社殿なき以前富士浅間遥拝の地に築く。後神祠をヲ創造し、「小室浅間明神」を勧請すと。正殿の左「富士権現」の社は則ち初め建立の祠なり。後世盛に正殿造立ありて、古祠を脇に移し置とぞ。
○ 社記に貞応二癸未年(1223)平義時建立とあるは、始めて勧請のことにや、再建立このにや、詳にすべからず。今に至りて、小室を上浅間と云う。此祠を「下浅間」と称するは、「本小室」と、同社の謂なりとぞ。又下吉田に浅間あり、是をば「下ノ宮浅間」と称す。
○ 五丈八尺の大鳥居は、冨士山の烏居にして、此社建立なき前より、建来しなるべし。「勝山記」に文明十二年(1480)庚子三月廿日、富士山吉田烏居立明応九年(1500)庚申卯月廿日、同鳥居立とあるは是也。「三国大一山」のノ額は寛永十三年(1636)竹内宮良恕親王筆跡にして、秋元氏の寄附なり。
○ 正殿・幣殿等惣て代々の領主建立にして、秋元氏に至り、別盛に造営あり。因て古は別当社僧を置く。
○ 武運長久の祈念不絶こと、古文書、旧記に詳なり。今唯神主耳残て、社僧は退転せり。
○ 護摩堂に、毎年四月初中日、鶴島村法性寺が来て、護摩修法あるは、少し古のかた存せり。
○ 宝永中、秋元氏封を遷すの後は、殿舎修造もただ民間産子のはからひとなせりける。
○ 近世、富士信者、「村上光清」と云う者、願主となり其徒の信者をすすめて、殿宇美麗に造営せり。毎歳四月初申日には、神主七日の斎戒にて、捧幣御師相列して神式あり。参詣の老若群集する。六月中、神主禁足神式あり。富士登山の道者、庭前に充満し、太々神楽日々ありと云う。
○ 往古より、此社中を「諏方森」と称るは、「浅間明神」勧請せざる以前より、「諏方明神」鎮座ある故なりと云う。古文書に「諏方森浅間明神」とあるは是なり。「勝山記」に明応三庚(甲)寅年(1494)吉田諏方大明神の神鐘、武州より鋳て登り、翌年鐘楼堂を建つ。四月棟上とあるも「浅間明神」のことなるべし。今は其鐘なし。按ずるに、元和五年(1619)鐘銘日昔年於干文時為烏有、とあれば兵火にかかりて失せけるなるべし。
○ 天文以来古文書拾弐通、神主小佐野伊勢の家に蔵する七通は、安永四年十一村と争論の時奉行所へ上ると云う内、
☆ 「小山田信有文書三通」、
☆ 「加藤作内家士文書壱通」
☆ 「武田晴信文書壱通」を蔵する。
☆ 「内部信濃守書翰壱通」、
☆ 「佐野将監蔵武田信縄願書」、
☆ 「武田信玄朱印」、
☆ 「武田勝頼書翰三通」ハ小佐野壱岐蔵、
☆ 「加藤作内光吉文書」壱通、同人家士文書壱通、
☆ 「烏居久五郎成次文書」弐通、「同人家士文書」弐通は雁丸外記蔵する。
○烏居土佐守成次文書壱通は佐藤越申蔵す。
○武田信虎文書壱通は菊屋豊後蔵す。
○鳥居成次文書壱通は芹沢大隅蔵
○加藤作内文書壱通、鳥居彦右衙門尉元忠文書壱通、鳥居土佐守成次文書弐通、同家士鈴木五左衛門書翰壱通、篠本枝右衛門文書弐通は小林豊前所蔵
○加藤作内光吉文書弐通、同人.家士文書三通は友屋右近所蔵
○小山田信有文書壱通、加藤作内家士森村石見守文書壱通、鳥居土佐守文書壱通、外に職原抄弐冊紙数六拾三枚巻尾に正平二年(1347)十二月朔日、権左中弁兼左近衛少将、源顕統とあり大小沢丹波所蔵
○浅野左衛門佐氏重文書壱通(松平美濃守家士連署壱通、羽柴少将秀家(家士文書壱通)、同人家士、三輪五右衛門尉文書壱通、鳥居成次文書弐通は小沢主水所蔵
○森村石見守興沼文書壱通、鳥居土佐守家士四人連署壱通は大田辺右近助所蔵
○光明房宿願果記板一枚は林河内所蔵
○鳥居土佐守文書壱通、同人家士連署壱通ハ大黒屋大和所蔵
○浅野左衙門佐文書壱通は大橘屋勘解由所蔵
○小山田信有悪銭禁制提書壱通は小沢幸之進所蔵
○武田信玄願書壱通は小沢隠岐所蔵
●小山田信有文書壱通
○同信茂文書壱通
○板部岡江雪斎文書壱通
○台徳廟賜鳥居成次御書壱通
○三好義継書翰壱通
○正木左近太夫時茂書翰壱通
○多賀谷安芸守へ政勝より与る文書壱通、
○高木豊前守書翰壱通、同文書壱通
○秋葉弥四郎書翰壱通
○篠本枝右衛門文書壱通
○新清兵衛書翰壱通
○源光通奉納物目録壱通
○永享元年(1744)六月、結城上野守基氏奉納、兜前立鏡壱面、菅家神影壱幅(筆者未詳)又、讃岐守秦安澄所筆と云ひ伝ふ太刀、行光作長弐尺弐寸五分
○元亀三年(1572)壬申閨正月、古吉田より今の地に、一村移住屋敷割之帳壱冊、巻尾に盛国在判
●天正二十年(1584)三月伝馬引附帳壱冊、巻尾に加藤作内、家士西田幸之丞印あり、以上(●~●まで)刑部伊予所蔵
○鳥居成次文書壱通は鷹屋治部所蔵
○同文書壱通は皮屋九郎左衛門所蔵
○同文書弐通、小山田信茂文書壱通は塩屋弥兵衛所蔵
○信茂文書壱通は槙田八左衛門所蔵
○浅野左衛門佐文書壱通、烏居久五郎成次文書壱通は梅屋庄右衛門所蔵
○同文書壱通は浅間房右近蔵ス
○ 以上、古文書並に書翰類六拾四通、師職之者六蔵之此内数通は附録に出余は略す。
↧
富士浅間明神(上吉田村)詳細
↧