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山梨文学講座 山本周五郎の出生地と本籍地 2

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山梨文学講座 山本周五郎の出生地と本籍地 2
 前編に続いての資料、著作年月日がだいぶ経過しているが、
著者の資料収集が進んでいることがわかる。

                   <著書紹介>
資料……  『山本周五郎』
 「新潮日本文学アルバム」
昭和59年(1984)
編者 評伝 木村久邇典

 山本周五郎(本名 清水三十六しみずさとむ)は明治三十六年六月二十二日午後十一時、山梨県北都留郡初狩村八十二番戸(現、大月市初狩町下初狩二百二十一番地)で、父清水逸太郎、母「とく」の長男として出生しました。
 清水家はもともと北巨摩大草村若尾(現、韮崎市大草町若尾)の豪族で、先祖は武田家の御倉奉行をつとめた清水大隅守政秀という武将であったとの伝承があり、清水一統はかたくその言い伝えを信じ、誇りとしてきた。政秀は主家滅亡に際し、再興の軍資金を擁して武田発祥の地に近い若尾の里に帰農した……というのである。
 事実同家の土地台帳抹消簿によると、旧屋敷の面積は四百坪ちかく、邸内には苔むした四基の五輪の塔が現存している。甲州では、五輪塔はしかるべき身分の家でなければ建てることを許されなかったとの由だから、豪族の末裔であるとの山本周五郎のプライドは、必ずしも自己催眠的な架空の環境設定であったと否定し去るわけにはいかない。ただ郷党の一部では、清水政秀の名は武田二十四将のなかにも見当たらず、清水家そのものが、近隣に親類縁者の少ないことなどをあげて、生え抜きの若尾住人ではなく、他所からの「流れ者」ではあるまいかと、とする人々もある。
 明治十年代、三十六の祖父伊三郎のころから次第に家運が傾き、つぎつぎに土地を手放して、下初狩へ移住した。二十二年頃と推定されている。
移転の理由についてもいくつかの推測があるものの、伊三郎の姉の「まつ能」が当時、八田村(現南アルプス市)夫の周作とともに初狩に移り住み、土地の素封家奥脇賢造方の長屋を借り、なんとか生計を立てられる状態になっていたので、弟の伊三郎一家にも初狩移転をすすめたというのが、最も説得性に富んでいるように思われる。奥脇家も世話好きの人柄で、斎藤まつ能と同番地にある長屋への入居を伊三郎に許した。
 ここでも伊三郎は、若尾時代と同じく繭(まゆ)の仲買いや諸小売り、馬喰などを業とした。奥脇家が機織りを営んでいたのも、伊三郎には好都合なことであったろう。
 三十六の父逸太郎は、伊三郎の長男で明治十一年の生まれである。初狩小学校を卒業後、父とともに家業にしたがううち、兄嫁と折り合いが悪かったため、山梨県龍王町(現甲斐市)から奥脇家の機工場へ働きにきていた坂本とくと知り合い、たちまつ若い二人は恋に落ち、とは三十六を身籠もった。
逸太郎もとくも同年の二十五歳であった。しかし男女の恋愛がふしだらとされた時代だったためだろう。伊三郎は両人の結婚をかたくなに認めず「とく」を清水家に引き取ることも拒否した。 
 伊三郎の姉「斎藤まつ能(の)」も奥脇の機工場で働いていて「とく」の気立てがよくまたしっかり者である点を買い、かねて親切に面倒をみてやった。彼女は伊三郎夫婦に結婚を認めるようにとりなしたが、頑固に拒絶しつづけるので、「とく」を自宅に入れて出産させることにした。だが伊三郎らへの気兼ねもあり、自家の物置きを応急の産室に当てがったという。
 この事実を私が知ったのは三年前(昭和五十六年)龍王町(現甲斐市)居住斎藤三九馬(まつ能の孫で、三十六とも親交があった)の談話からであるが、山本周五郎の晩年におけるキリスト教への激しい傾斜などを思い合わせ、異様な感動にとらえられたものであった。
 いかに反対したとはいえ、血のつながる孫が生まれてみると可愛いのが人間である。伊三郎は直ちに赤児の入籍をみとめたし、家主の父奥脇愛五郎が、生年(明治三十六年)にちなんで、三十六(さとむ)と命名した。
 現在清水家には、伊三郎、さく夫婦、逸太郎、とく夫婦の面影を伝える写真は一葉も遺されていない。幕末から昭和初期までは、むやみに肖像を撮影すれば、かげが薄くなると、本当に信じ込む人のいた時代である。
 斎藤三九馬によれば、逸太郎の風貌は、晩年の周五郎によく似ており、周五郎の回想では、母のとくは現役時代の横綱佐田の山(現、出羽の海)にキリッとしたところが共通していたという。
 明治四十年八月二十五日御前八時、下初狩地域一帯は、数日来の大雨による、寒場沢からの鉄砲水に襲われ、土砂は国鉄中央線の軌道をこえて押し寄せた。
 このため、奥脇家や付属の長屋も倒壊し、清水家では一瞬のうちに、祖父伊三郎、祖母さく、叔父粂次郎、叔母せきを喪った。このとき逸太郎と「とく」三十六らは隣町の大月町(現大月市)駅前の運送店の二階に別居していたので、幸いにも災厄を免れることができた。
 だが伊三郎歿後、清水家には奥脇家その他から借財326円がのこり、長男の逸太郎は翌四十一年五月に完済している。当時の300円は大金で、三十歳の逸太郎にとっては大変な負担であったに違いない。
 かれはまた火炉辛うじて洪水から救助された七歳の異母菊蔵を養育しなければならなかった。逸太郎家の経済的な貧困はこれらの事情も重なってその死に至るまでつづき、三十六(周五郎)もまた貧困の中に生長することになる。
 山本周五郎の回想によると、山津波のとき、父は女をつくって東京に出ていったとの話だが、正確な時期は分明でない。
 山本周五郎の名前は、処女作『須磨寺付近』を投函するとき、居住・氏名を木挽町山本周五郎方清水三十六と認(したた)めたのだが、事務上の手違いからか、作者名を「山本周五郎」として公表されてしまったため、以後恩人の名をペンネ-ムとしたとの山本の直話である。 云々

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