甲府勤番物語
『甲州街道』高城宗一郎 一部加筆
人口が多ければ、必ず失業者がでる。これは社会の冷酷なメカニズムだが、江戸時代、八万騎とうたわれた旗本の大半ちかくが、無役、つまり固定給だけの失職者であった。
その中から、常時四百人が赴任させられるのが天領・甲斐の甲府勤番だが、江戸中期から末期には、任期なしの、人によっては親代々の勤番士まで生まれ、行かされたら二度と江戸へは帰れない〝山流し〟と旗本に恐れられていた。
家康が築いた甲府城-やがて天領
歴史の転換はまったく思いがけない形で訪れるものである。 天正十年(一五八二)六月一日夜半、京都本能寺で織田信長が明智光秀の反逆にあって急死したとたん、情勢は奔流のように急変した。
このとき徳川家康は、本多忠勝、石川数正、酒井忠次といった、大名梧の者二十八名、井伊万千代らの小姓、といっても親衛隊だが、彼ら、つまり選り抜きの家臣数十名を連れただけで、信長の招きで安土訪問のあと、京都、奈良を見物ののち、堺にいた。
おりから信長は、中国地方平定戦のさなかであり、秀吉を野戦司令官とする、対毛利戦の結着をつけるべく安土を出発した途中の出来事であった。
この変報に家康一行は愕然とし、紀伊半島北部を、途中土匪に悩まされながら横断、すばやく岡崎に帰り、盟友信長の弔い合戦の軍を起こしたものの、いちはやく毛利側と和睦した秀吉が、六月十三日、早くも光秀を討滅したためむなしく引返した。その後しばらくは、歴史の歯車は秀吉を中心に急速度で回転する。 情勢判断にすぐれる家康は、秀吉をめぐっての信長遺臣団の争いの圏外に立ち、同年三月、信長と連合して亡ぼした武田の旧領甲斐の経営に意をそそぎはじめていた。
甲斐国は、周知のとおり、戦国期を通じてその強豪ぶりを恐れられた、信虎・信玄の本拠地であり、他国の侵略をうけたことがなかっただけに、国中すべてが武田色一色に染まっているところである。
そこへはじめての勝利者を迎えた甲斐の人びとの心情は、きわめて複雑であった。だが、卓抜な野戟上手であると同時に、稀代の政治家でもある家康は、そのへんの機微をよく捉、え、たくみな政策をほどこした。
家康と武田氏の関係は、地理的にいって抗争を避けられない位置にあった。その激突の最初が、元亀三年(一五七二)十二月の、浜松北郊三方ケ原の合戦だが、一敗地にまみれた家康は、武将としての雪辱の意気を燃やす反面、信玄に深く魅かれたのであった。
甲斐に入国した家康の方針は、基本にこの考えが置かれており、滅亡のあと、四散しかけていた武田の旧臣を多数召しかかえるいっぽう、信玄が尊崇していた塩山の恵林寺を修復、さらに勝頼が自刃した田野に、その菩提を弔って景徳院を建てたりした。
赤備え
政策とはいえ、そうした家康の肌目こまかい施策によって、徳川家に入った武士団は九百人ちかくにのぼり、それぞれ譜代の武将に付けられたが、それがのちに徳川氏の戦力に大きくプラスしたことはいうまでもなく、とくに井伊家では、これを機会に武田二十四将の一人、山県三郎兵衛昌景のそれにならい、軍装一式をすべて朱色で統一し徳川家先鋒・井伊の赤備えとして知られるようになった。
だが甲斐に対する家康の狙いは、帯状の東海地方に加えて内陸方面の版図の拡大にあり、その拠点として城郭の整備に着手した。
よく言われるように、信虎・信玄の方針が攻めることにあったのと、四方を山にかこまれた地形上、甲斐にはそれまで城がなかった。いまの甲府城址を訪れた人が、ここが信玄のいたところか- と述懐しているが、信玄の居所は甲府市北はずれの躑躅ケ館である。
幕府直轄領のシンボルとして甲府盆地を陣睨(へいげい)する甲府城は天正十三年(一五八五)、古くは一条小山城、小山城、府中城などと呼ばれた現在地に工を起こしたものの、五年後の天正十八年、秀吉の発動した小田原北条氏討滅戦のあと、家康は関東に移されたため、城は秀吉のものとなり、文禄三年(一五九四)に、十一万石の領主として浅野幸長が入城した。
だがそれも束の間のこと、慶長五年の関ケ原合戟のあとで、城はふたたび徳川氏のものとなり、小田原城と並ぶ、関東防衛の重要前線基地になった。
その性格を反映し、慶長八年(一六〇三)には家康の九男義直が入り、そのあとたびたび天領扱いとなったが、元和二年(一六一六)から九年までは、三代将軍家光の弟忠長、慶安四年(一六五一)からは家光の二男綱重、綱豊父子が城
主であった。宝永二年(一七〇五)以後は、五代将軍綱吉(甲府宰相綱豊)のもとで、一大勢力を誇った柳沢吉保が封ぜられたが、吉保失脚後の享保九年(一七二四)からはふたたび天領として江戸期を終えている。
小普請入りの宿命
天領となった甲斐国の支配は、勤番支配によっておこなわれた。いわゆる甲府〝勤番〟とは、主持ちの武士全体に課せられた、〝軍役〟を内容とする義務で、その統轄者を〝支配〟という。
甲府城の支配は四、五千石級の旗本から選出され、三千石のほかに御役知(役料)一千石が甲府城の歳末から支給され、定員は二名であった。職務は甲府城の守護、城米や武器武具の準備のほか、許された範囲内での訴えも聴断した。 その配下の勤番士は、大手、山ノ手の二組に属し、役職および人数は、それぞれの組に組頭二人、勤番士百人、与力十騎、同心五十人、仮目付五人、武具奉行一人、破損奉行一人、歳立合人一人、以上は勤番士が兼任、組頭には三百俵の役料が支給された。さらにその下には、手代、小人、町年寄、問屋、牢番人などが組み込まれていた。
勤番士のつとめは、享保二年から同十五年まで老中だった、水野和泉守忠之の出した『甲府ニ於ケル勤行之書』によれば、
一、御城内、楽屋曲輪勤番所昼五人、泊り六人、(内目付一人)、組頭一人組切り勤番のこと。
昼番は朝五ツ(八時)より夕七ツ(四時)まで、
泊りは同七ツより翌朝五ツまで相勤むべし。
一、年始元日は残らず罷り出で、登城御礼申し上げ、七種までは、昼夜当番熨斗目麻裃で五節句、夜五ツまで麻上下。
一、両支配は、隔日当番の節、勤番所見回り。
出火の節は、両支配追手、山の手両御門へ罷り出で、御番方も出火の向きに依って、右御 南門へ相詰める。
(以下略)
などとあって、かなり厳しいものであったことがわかる。
さて、この一般の勤番士が、初期のころはそれほどではなかったものが、しだいに幕府の小普請者に対する懲罰的意味が含まれるように、番士の質的低下をまぬがれなかった。
世間では、甲府勤番を命ぜられることを、「山流し」とか、「甲府勝手」といって哀れんだものであった。
小普請とは、巌密にいえば役名の一つだが、実態は〝御役〟に出られない者をいう。本来の小普請は、字のとおり屋根や垣根の補修といった小規模な普請作業を行なう役だが、のちには持高(収入)に見合った小普請金を出させ、作業に
従事することに代えるようになった。
小普請になることを小普請入りというが、そうなった者の生活は苦しい。百石なら百石の持高の支給はあるが、無役だからそれ以上の収入はなく、しかも七月に三分の一、十一月に三分の二の小普請金を納めなければならない。納金
額は、二十俵(石)から五十俵までが金二分、百俵以内は一両、百俵から五百俵までは、百俵ごとに一両二分、それ以上は百俵につき二両で、ただし二十俵以下の者は免除されていた。
甲府に勤務させられた者も、もちろん例外ではなく、前出の『水野老中』の文書でも、それについてとくに一条を設けて規定している。
小普請入りの旗本の実例としては、幕末の勝海舟の父小吉の話(本書第1巻末海道篇参照)が有名だが、生涯御役に出られないばかりか、相続小普請といって、親代々無役の者もかなりいたのである。
江戸における彼らの生活は、小録の者ほど悲惨であり、そこから勝小吉に見られるような、武士とも無頼漢ともつかない者が生まれるのは当然であった
甲府勤番士は、そうした者のうち、犯罪者すれすれの、いわば札付き者を搔き集めて送ると噂され、脛に疵を持つ者を恐れさせた。
たしかに、享保ごろは別として、時代が下るにつれて甲府勤番士は終身江戸へ戻れない場合が多く、半分ちかい勤番士が、甲府で退職したり、病死しているのである。
天保年間、甲府勤番を命じられたある旗本が出した嘆額書には、
「自分には老父母のほか、厄介者(手のかかる縁者の意味)が多く、平素の面倒をみるのに追われ、思うままにならなかったが、なんとかして自分相応のご奉公をし、父母にも孝養をつくしたいと願っていた矢先、甲府勤番を命じられ、親類一同、愁嘆つくし難く、さりながら、どのようにも致すべき術もなく、ただただ嘆額申し上げるほかない」
といった意味のことがしたためられ、当時の彼らが、まだ見たこともない甲斐盆地を、まるで地獄かなにかのように恐れている様が目に見えるようである。
幕臣でありながら、山東京伝に私淑し、画家の歌川国貞と組んで読本の第一人者になった戯作者、柳亭種彦も、その文筆活動ぶりが幕臣にふさわしくないと、おりからの天保の改革の取締りにあってあやうく甲府へ飛ばされかけたことがあった。
この一件に見られるように、甲府勤番すなわち山流しとされるようになったのは、老中水野忠邦によって断行された、とくに風紀粛正を狙いとする天保の改革が契機の一つであった。
一方、そうした江戸での札付きに近い者たちを送り込まれる甲府としては、たまったものではないが、彼らの甲府での生活は、生きる望みも失ったように、うつろな目で、ただ機械的につとめるか、ヤケになってなお脱線するかであったがったが、江戸者としての、あわれな見栄だけは捨てきれず、江戸風の風俗や習慣のいくつかを、甲府盆地に残すことになった。そのことは、華美な服装とか美食といった面で、弊害となるものも少なくはなかった反面、周囲を山また山でかこまれ、他国と隔絶された甲府盆地で、それまで外からの文化の影響をほとんど受けずに、ややもすると孤立しがちであった甲州人に、直接江戸文化が移入されることにもなったのである。
甲府勤番士のほとんどが、末期では厄介払いされた者で占められたような印象だが、なかには学者や文人としてかなりの教養を積んだ者も含まれており、彼らの残した事蹟は、それなりに評価されてもいるのである。
勤番支配の功績―そして幕末
まずその一つ、甲府学問所「徽典館」設立と振興事業がある。同館は寛政八年(一七九六)ごろに、追手勤番支配の近藤淡路守政明と、山ノ手勤番支配永見伊予守為員の二人によって設立されたが、そのあとの迫手勤番支配の滝川長門守利雍(としやす)の力で拡充され、与力の富田武陵らが教授になって、勤番士の子弟を教えたが、のちには一般人にも門戸をひらき、好学の人びとによろこばれ、甲斐の文教程度の向上に大いに役立っているのである。
また滝川の後任者の松平伊予守定能は、幕府の命で勝手小普請の富田富五郎を中心に、内藤清右衛門、森島弥十郎などに補佐させて『甲斐国志』の編さんをはじめた。仕事は、村々から調査報告を出させたり、旧家の古文書をあつめたりするうちに大規模になり、百二十三巻の大冊を完成するのに九年を要し、文化十一年(一八一四)にようやく日の目を見た。江戸時代の地誌としては、もっともすぐれたものの一つとして、いまも高く評価されている。
さらに与力の吉川新助は篤学をもって知られたが、勤番士だけではなく、一般人にもどしどし陽明学や垂加神道の講義をしたという。
また享保九年(一七二四)に赴任した野田成方は、甲斐の歴史、地誌、民俗、言語などの貴重資料である『裏見寒話』を著作したし、宮本定正の著わした『甲斐廼手振』は、幕末の甲斐の風俗習慣を見聞するままにつづった、やはり貴重な資料である。
以上は文教面での業績だが、一般勤番士とちがい、勤番支配の中には行政面でも目立つ業績をつたえられる者もいる。
享和三年(一八〇三)四月三日、甲府市街は約七十五年前の享保十二年十二月九日のそれにつぐ大火に見舞われた。柳町二丁目鳥羽屋庄右衛門方から出た火は、またたくまに市街地の大半を焼きつくし、多くの市民を路頭に迷わせたが、
鎮火後は物資不足からくる恐ろしいまでの物価騰貴と、思惑買いや買占めがひろまり、一般の生活をひどく圧迫した。ときの追手勤番支配牧野忠義は、ただちに同役の追手勤番支配滝川長門守と相談し、とりあえず商人に対し、米穀類をはじめ、すべての商品を相場価格で販売するよう触れ出すと同時に、取締りを強化した。そのため、一時は恐慌状態になりかけた市況もやや安定したが、その心労がたたり、同年七月、忠義は任地で病死した。
こうした悲喜交々、功罪を残した甲府勤番が廃止されたのは慶応二年(一八六六)八月のことであったが、ほとんどの者が甲府に住みつき、いまや甲斐一国人と変わらなくなってしまっている勤番士たちは、勤番支配に代わり、城代が赴
任してくることになっても、そのまま甲府にとどまるしか道はなかった。ところが、時勢を反映して、容易に城代が決まらないのである。
『甲府略志』はその模様を、
「…甲府城代を置くに当り、松平右京亮之に任じ、公用方服部団右衛門、作事方島崎儀兵衛両人代り撤す…机謂十二月右京亮辞任し、大久保加賀守交任せしが、翌四年正月罷免せるを以て榊原式部大輔任ぜられ、尋で又堀田相模守任ぜられしが、共に辞して任に就かず」
とつたえている。
結局、この翌々年の慶応四年(九月から明治元年)三月、甲府城は最高責任者のいないまま東征軍のものになってしまうのだが、そのときは大混乱であった。
二月十五日、錦旗を先頭に京都を出発した五万の東征軍のうち、中仙道へは土佐の乾退助、のちの板垣退助を参謀とする、東山道部隊が進軍してきた。
民衆を味方にし、そのエネルギーの活用を狙う東征軍は、途中の宣撫活動を重視し、未納分も含めた年貢半減令を出したり、恥部にはフリ仮名をつけるなど、肌目こまかい策を講じてきたのである。
その報をうけた甲府城は、城代がいないままに、上を下への大騒ぎとなった。一応の最高責任者である佐藤駿河守は、必死になって鎮静しようとしたが、城内は異論百出で手のつけられぬ状況であった。
番士たちの意見は、幕府直轄領の面目上からの抗戦派と、時流に従って開城もやむなしとする穏健派、というより観念派に分かれ、意見は容易にまとまらない。
そのうち、抗戦派の番士柴田堅物、保々忠太郎などが、甲陽鎮撫隊と呼称する浪士隊をひきいて江戸を出発した、近藤勇と呼応して戦おうとしたりで、ほとんど収拾のつかない状態であった。
甲府城のそうした空気はすぐ東征軍に知れ、三月一日、下諏訪に入った乾退肋は、すぐに支隊を割き、すでに恭順した諏訪藩兵を先頭に、早くも三月四日には甲府に入ってしまった。
東征軍はただちに甲府城に対し、
「明朝までに城を明け渡すこと」
と通告した。
城内には勤番士のほとんどが詰めていたが、はっきりとわかる軍備や士気の違いを見て、抗戦論は影をひそめ、大半の者はその夜のうちに家族を連れて青梅街道へ逃げたり、変装して民家にひそんだりした。責任者格の佐藤駿河守もまた、江戸へ行くと言いのこして姿をくらませてしまった。
翌朝、東征軍は甲府城に無血入城したが、兵たちは床板をはぎ、天井板を銃剣で突き刺したりしてきびしい検分を行なったが、仝番士が退去したあとからは何も出てこなかった。
その一方で東征等は、城内の見物を許す、と町に触れ、物珍しげに集まってきた町人たちを自由に歩かせたが、これは地雷が埋めてあるかどうかを試させたという説がある。
参謀の乾退助は、そのあと本隊をひきいて甲府入りしたが、さすがに長年にわたって天領であったためか、中仙道沿道の住民感情とはちがうものを感じ、人心把握のための一計を案じ、「俺はかつての信玄公二十四将の一人、板垣信形の子孫である」
と触れさせ、同時に乾から板垣に姓を変えたという。
直轄支配者として君臨した徳川氏を越え、甲斐国人の誰もが家康以上に尊崇する、信玄の名参謀といわれた板垣の名を持ち出した乾退助の、ぬけぬけとした工作は功を奏し、人心がようやく東征軍になびいたというつたえ話がある。
このあと東征軍は、甲府開城も知らずに笹子峠をこえてきた、近藤勇の甲陽鎮撫隊を粉砕するのだが、この時期から二百六、七十年前、家康が関東の西の守りとして布石したはずの甲府城は、家康が予測したとおりの事態を迎えながら、八王子千人同心と同様、ついに幕府の守りたりえずに終わってしまったのは、なんとも皮肉な結果といえよう。