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熊本県の人、富岡敬明-山梨県北杜市日野春開拓の恩人-

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富岡敬明-日野原開拓の恩人-
『郷土史にかがやく人々』青少年のための山梨県民会議編 第11集 昭和56年刊 
《一部加筆》

「富岡敬明」執筆者 手塚寿男 略歴

 大正六年東山梨郡大和村に生まれる。中央大学経済学部卒業。県立高等学校勤務を経て、現在山梨県教育委員会文化課嘱託、山梨大学講師、山梨
郷土研究会常任理事。編著『郷土史事典山梨県』(昌平社)、共著『山梨県の歴史散歩』(山川出版社)・『郷土史読本』(県教委)、
部分執筆『山梨県政百年史』『中道町史』『八代町誌』『境川村誌』『牧丘町誌』『三珠町誌』『山梨百科事典』など。

富岡敬明略歴

文政五年(八一)十月八日、肥前国佐智藩の小城(おぎ)支藩士神代利温(くましろとしはる)の二男に生まれ、天保三年(八三一)富岡孫明の撃となる。元治元年(八六四)の小城騒動では、警誓ため御蔵方の太田蔵人を暗殺しようとして果たさず、死刑の判決を受けたが、本藩主鍋島直正(閑曳)の特命によって、あやうく死を免れることができた。
明治二年(一八六九)からは本藩に仕えるが、四年の廃置県によって伊万里県権参事(ごんさんじ)に任命され、明治五年五年三月には山梨県権参事転じた。その直後起こった大小切騒動乗り切り、六年からは新任の県権令(のち県令)藤村紫朗を補佐して殖産興業策を推進するが、とりわけ日野原(北杜市長坂町日野春)の開拓については、敬明の力によるところが大きい。七竿月参事に昇任、日野原に県勧業試験場を設置し、個人的には、里垣村(甲府市善光寺町)を本拠の地と定めていしたが、八年九月名東県(現徳島県)権令に昇任転出した。九年十月には神風連(じんぷうれん)の乱後の熊本県権令に任命され、翌年の西南戦争では、県庁のある熊本城を西郷軍に包囲され、五〇日余りにわたって籠城した。十年七月県令に進み、十九年には制度の改正によって知事となった。敬明の熊本県在任は六年間にわたるが、戦禍の復興をはじめ諸産業の発達や文教の振興に力をつくし、とくに三角(みすみ)港の築港は最大の功績であって、のちに頒徳碑を建てられるもととなった。
 明治十四年四月退官、貴族院議員に勅選されて里垣村へ帰った。議員は年だけで辞し、至年五月には男爵を授けられて華族の列に入ったが、四十年月十七日、八八歳の天寿を全うした。
 

富岡家へ

 敬明は文政五年(一八二二)十一月八日、肥前国小城郡桜岡北小路に小城藩士神代利温(くましろとしはる)の二男として生まれ、幼名を左次郎といった。肥前国は現在の壱岐・対馬を除く長崎県と佐賀県の地で、江戸時代には佐嘉(さが)郡に鍋島氏五万七〇〇〇石の佐賀藩(肥前藩ともいう)が置かれ、その中から小城(七万三二五〇石)蓮池(五万六〇〇〇石)、鹿島(二万石)の支藩が分かれ出てした。
 実父神代利温は、藩主鍋島直堯(なおたか)に『甲陽軍鑑』を講ずる職にあり、母ソミは家老園田善左衛門の娘である。左次郎は生まれつき体が大きく、なかなかの腕白で、柿の木から落ちて気絶したり、小魚をとろうとして田の用水をせきとめ、農民からねじこまれたり、年長の子を川につき落すようなことがたびたびあったが、あるとき友だちと二人で門番の目を盗んで藩邸へ入ったところ、空を覆って聳え立つ巨大なクスノキに驚嘆し、「俺も今にあの木のようになってやろう」と幼な心にひそかに誓ったといわれる。  
八歳になると、父の命により留守憲兵衛について四書(大学・中庸・論語・孟子)の素読を習いはじめ、十歳からは藩校の興譲館へ通学するようになった。
天保三年(一八三二)三月、十歳の左次郎は富岡孫明(通称惣八)の養子に迎えられた。富岡家は藤原氏の末流で、はじめ後藤氏を称して竜造寺氏に仕えたが、鍋島氏が竜造寺氏を圧倒するとこれに仕えて富岡と改姓した。代々侍組・足軽組の数十名を率いる家柄で、「富岡氏系譜」によると、孫明の前の陳明の代には、知行地〇五石五斗と切米七〇石を雲りていた。左次郎が養子入り後はじめて藩主にお目見得したのは、同じ年の六月であった。
 天保六年には、輿譲館の寮生となり、漢学や歴史を学ぶかたわら、弓馬・槍術・砲射術などのわざを修めたが、とくに槍と馬が得意であった。しかし、当時の興譲館は衰退期にあって、校舎も古く、教授陣も充実していなかったので、これにあきたらない左次郎は、やがて山鹿素水に入門して山鹿流の軍学を修め、更に佐賀藩教授の草場珮川(はいせん)の塾に入って、経史・詩文などを学んだ。十五歳になった天保七年、左次郎は元服して名を九郎左衛門耿介(こうすけ)と攻め、九年の暮には、養父孫明の長女で彼より一つ年上の津和と結婚した。九郎左衛門は通称であり、本名の耿介はのちに敬明と変え、号を耿介(こうかい)と称するようになった。

小城藩騒動

小城藩士としての敬明の所動は、二一歳の天保十三年、藩主の若殿三平(のち直亮)の御側役として仕官したのにはじまり、以来十年間に、留取次役、神田橋番頭、旧記、西丸聞番、文武方兼指南役、目付役山内目代などを歴任したが、とく嘉永四年(一八五一)本藩の財政上から鹿島支藩が廃藩されようとしたときには、小城・蓮地両藩も共同して反対に立ちあがり、敏明は小城藩主から江戸に特派された。数年間江戸に滞在して支藩存続のためにはたらき、結局廃藩はまぬがれることができたので、藩主からあつく賞された。
これよりさき嘉永三年(一八五〇)には小城藩主鍋島直蕘が隠居し、嫡男の直亮が相続したが、元治元年(一八六四)二月、嗣子がないまま三六歳で病死した。そこで本望鍋島直正の男で八歳の欽八郎(のちの直虎)が小城藩主となり、直堯が実権をふるうようになった。直亮の死は、彼を中心に藩政を改革し、幕末の難局に処して行こうとする敬明ら側近者には大きな打撃であった。これに対して御蔵方として財政担当の太田蔵人は、江戸在勤中に非行があって、目付役の敏明に咎められたこともあり、直堯の葬式のときには不敬な振舞があるような人物であったが、自分の娘と妹を直堯のそばに入れて歓心を買い、事実上藩政を左右するにいたった。敏明らは蔵人を倒して藩を守ろうとし、機会をうかがったが、決行の日がついにきた。
 元治元年五月七日の夜、蔵人が知人宅から帰宅しようとしたのを城下の橋で待ちうけていた藤山相右衛門(二四歳)、岡田半十郎(二九歳)、持永伝弥(二三歳)、武藤主馬助(二八歳)、村崎六郎(三二歳)、京島郎(八歳)らが襲い、相右衛門の刀はたしかに手ごたえがあったが、闇夜のために討ちとることができなかった。敬明(四三歳)はそのとき家にいたが、当時小城藩は長州征伐に出動する重大な時期に当たっていたので、再挙をあきらめ、「騒動の頭取は自分であるからどんな刑をも受けるが、蔵人も死刑にしてもらしたし」と自首して出た。藩による取り調べはながびき、この間に敬明らの行動は正義であるとの世論がわきあがった反面、蔵人に対する同情はまったくなかった。しかし藩の秩序維持されなければならいので、年後に敬明は死刑を、二年後には他の者もそれぞれ重罪を言い渡された。
これに対して慶応年(一八六七)十月一十七日、佐賀本藩主鍋島直正は、敬明の死等をずる特命を出し、松浦郡山代郷久原村において終身禁錮に服せることにした。直正は号の閑叟の方が有名で、天保元年(一八三〇)に襲封以来、人材登用と殖産興業を中心に藩政の改革に成功した人である。彼によって見出され、維新後中央政府の要職についた者には、江藤新平・大隈重信・島義勇(よしたけ)・副島(そえじま)種臣・大木喬任(たかとう)などがある。小城支藩の富岡敬明の人物・才能をもよく知っていたからこそ「敬明を殺すな」の声となったのである。
殖産興業策では名産の伊万里焼や石炭の専売制をしき、内外に輸出して得た資金をもって洋式軍備の充実にあてた。戊辰戦争のとき、上野の山にこもった彰義隊をアームストロング砲で撃破し、佐賀艦隊の活動によって函館の榎本武揚(たけあき)を降伏させるなど、薩・長・土・肥と並び称されるもとを築いたのは閑叟の力によるものであった。
 敏明の刑が確定するとともに家名は断絶となり、家禄・家屋敷・田地 武器などはすべて没収された。久原村の獄舎での敏明の境涯も惨めであったが、それにもまして禄を離れた家族たちの生活は痛ましかった。田圃の中の掘立小屋に住み、時には野菜くずを拾い集めて飢えをしのぎ、草履やわらじをつくつて収入をはかったという。

敬明赦免・家名再興

 敏明が下獄している問に、時代は大きく転換した。明治二年(一八六九)三月四日、敬明は無事に赦免された。当時政府の要路に鍋島閑受をはじめ、江藤新平その他がいたことが幸いしたものであろう。四月になると佐賀藩の弁務(書記)に取り立てられ、つづいて諌早郡・山田郡・上佐賀郡の郡令などに次々と任命された。明治三年六月には、小城藩富岡家の家名再興が許されたので、敬
明の長男重明が当主となり、二五石の家禄を給されることになった。そして同年九月十五日には、敏明自身も佐賀藩の永代藩士として禄一三石六斗を与えられ、十月五日には佐賀藩大属に任用された。
 
 明治四年七月の廃藩置県によって、全国の二六一藩は三府三〇二県となった。元肥前国に佐賀県・小城県・蓮池県・鹿島県・厳原(いずはら)県・唐津県などができたのはこのときである。同年九月には佐賀・厳原両県が合併して伊万里県となり、十一月には小城など四県もこれに統合され、同時に敬明は、太政官から伊万里県権参事に任命された。伊里万県は五年に佐賀県と改称するが、その後 時廃県となり、十六年に再置されて現在にいたっている。
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敬明、山梨県権参事・大小切税法と騒動
 敬明は明治五年三月五日付で山梨県権参事に転任を命ぜられ、二十二日に入県した。当時の県令は土肥実匡(さねまさ)で、彼がもっとも苦慮してしたのは、大小切税法の廃止問題であった。大小切税法は、甲斐国のうち都留郡を除き山梨・八代・巨摩三郡だけに、江戸時代を通じて適用された年式の納入法である。そのととのった形は、年間年貢額の三分の一を小切(しょうぎり)といって、金一両両につき米四石一斗四升の割合(安石代)で金納する。残る三分の二を大切(だいぎり)と称して、そのうちの三分の一(全体の九分の四)は御張紙直段(ねだん)といわれる公定価格で換算して金納、残余(全体の九分の四)を米納するものであった。とくに小切の換算率は一定不変だったため、米価が上昇するにつれて農民の負担は相対的に軽くなったので、このように有利な税法は、武田信玄公が定めたものだとの考えが一郡に広まってした。
 甲斐国の大小切に似た米金両納の税法は全国各地にめずらしくなく、税率もところによってまちまちだったので、中央集権の確立をめざす維新政府は、その裏づけとなる地租を全国一律に改定することとし、その前提として安石代の全廃をはかった。政府からたびたび発せられる大小切廃止の通達に対し、県当局では不測の暴動をおそれて、廃止はしばらく延期してほしいと上申してしたが、明治五年六月、大蔵省は強行廃止を命じてきたので、六月十九日、県ではその旨を郡中惣代に達した。すぐる慶応三年に幕府が廃止しょうとしたときには、三郡の反対運動が大暴動寸前にまでもりあがったが、幕府の倒壊によってようやく事なきを得た経緯がある。

大小切騒動

このたびの政府の方針を平和のうちに達成するために、県では願いごとはすべて書面によることを定める一方、着任まもない権参事冨岡敬明をはじめ、県官たちが村々をまわって説諭につとめたが、村役人らから県庁に対富岡敬明する歎麒は無視され、ついに八月八日には、巨摩郡北山筋の第五・六・七区(現敷島町・双葉町を中心とする地域)の農民八〇〇人が、甲府岩窪の信玄墓所に集まって気勢をあげ、以後各郡の各所に同様の動きが続いた。
 八月二十三日には、東郡の栗原筋・万力筋九七か村の農民らが、むしろ旗をおし立て、竹槍や鉄砲で武装して蜂起した。中心人物は小屋敷村(塩山市)の長官姓小沢留兵衛、松本村(石和町)の名主島田富十郎、隼村(牧丘町)の長官姓倉田利作の三人で、各村の村役人らに呼びかけて組織化を進めたので、立ちあがりには多少時間がかかったが、騒動の中で最も強力な集団であった。一行が甲府へ向かったとの情報が県に入り、富岡権参事らが善光寺まで出向いて説諭をこころみたが、その間に一揆の人数は六〇〇〇人ほどにふくれあがり、宵闇がせまるころには県庁手前の八日町郭門まで突入した。これを見た県令土肥実匡は一揆を欺くため、障子に「願ノ趣聞届候間書面可差出一事」と大書して示した。そこで指導者が路上で願書を書いて差し出すと、県令は「顕ノ趣聞屈候事」と認めた黒印状を渡したので、さしもの騒ぎもいちおう静まった。土肥県令の欺瞞策に対して、富岡権参事は武力弾圧の上で責任をとることを主張し、庁内の意見が対立したといわれるが、史
料の上からはさだかでない。勝利を信じた群衆の多くは村へ帰ったが、残った者のうち約三〇〇人は、翌二十四日の朝、山田町の富豪若尾逸平方を襲い、生糸などの商品を投げだして火をつけ、家財をうちこわすなどの乱暴をはたらいた。
 土肥県令から政府への要請によって、八月一十八日には静岡の軍隊二〇〇人が、九月一日には東京鎮台の一個小隊九六人が着県した。県令はこの兵力を背景に、九月三日、一揆に参加した村の代表者を恵林寺(塩山市)に呼び集め、さきの聞き届けは一時の方便にすぎなしとし
て黒印状をとりあげてしまった。騒動に対する断罪はきびしく、首謀者の小沢留兵衛と島田富十郎は絞首刑に処せられ、徒刑年の者四名、罰金刑の者は名主・長石姓・百姓代ら七六四名と小前約一〇〇〇名におよんだ。病気のため行動に参加できなかった倉田利作は、自首して準流(じゅんる)一○年に処せられたが、服役中に獄舎の改善を叫ぶなどしたため死刑となった。
明治二十二年月十日、憲法発布を祝す大赦によって大小切騒動連累者もすべて罪を許された。これを磯として騒動指導者の慰霊碑を建設しょうとの気運がもりあがり、二十五年の四月、恵林寺の境内に「小沢島田弐氏之碑」が除幕された。篆額は富岡敏明(熊本県知事在任中)、撰文は甲府裁判所書記の望月信(まこと)(青洲)、~書は市川大門の渡辺信(青洲)である。東郡の人々が、騒動時には敵方であった敏明に簑額を依頼し、彼がそれを引きうけた事情は明らかでないが、かつて小城藩騒動のとき、鍋島閑叟によってようやく一命を助けられた敏明の心中には、二人の指導者の非命な死に、悔恨の念があったのかも知れない。
富岡敬明の日野原開拓
 大小切騒動の責任によって、明治六年一月二十日県令土肥実匡は免官となり、代って権令(のち県令、知事)に大阪府参事藤村紫朗が発令された。藤村の人物と業績については、『郷土史にかがやく人々』第六集にくわししが、その下にあって約二年間補佐したのが富岡敬明であり、彼は六年十一月参事に昇任した。
 藤村権令は六年四月二十日「物産富殖ノ告諭」を発し、県の主導による殖産興業策を発足させるが、その原資には、大小切の廃止による国庫増収分の一部の下げ渡し金をあてることをもくろんだ。『山梨県史』によると、下げ渡し見込額は次のとおりである。
 高拾壱万七千弐百九拾六円六拾六銭三厘 旧格収入高卜改正増加高トノ間金ノ分
 金弐方 千四百円         弐分通御下ケ金可相成分
 この二万円余りを日野原の開拓、甲府への器械製糸場建設、甲府元組屋敷跡の開発、信州桑苗の購入による養蚕業の促進などにあてようとの計画であるが、そのうち日野原の開拓は告諭より前から敏明が計画していたものである。
 日野村地内(中央線日野春駅付近)には昔から日野原と呼ばれる広大な荒地があったが、わずかに日野村・塚川村・若神子新町・長坂下条村入会の株刈り場として利用されるにすぎなかった。敬明は地味・気候などを視察の結果、ここを開拓して農桑牧畜の利をおこし、農民の移住定着をはかるとともに、徒刑懲役場を建設しょうと考えた。明治六年一月、敬明は土肥県令と連名の政府宛上申書に右の趣旨を述べ、増税分の二割、概算二万円の下げ渡しを申請した。しかし、これはまだ精密な計算を欠いていたので、文書の往復をくりかえすうちに県令の交代となった。後任の藤村権令(県令)による絢爛たる近代化諸政策のうち殖産興業策の基礎は、敏明のアイディアにもとづくところが大きい。藤村・富岡連名による精密化した計画は、政府によって認められ、下げ渡し金二万 四〇〇円のうち、日野原一五万坪(五〇ヘクタ-ル)の開拓費の内訳は次のとおりであった。
   六〇〇円  桑苗木六万本代(一万五〇〇〇坪分)
    一七円  茶実一石二斗代(一五〇〇坪分)
    二○円  葡萄苗五〇本代(三〇〇坪分)
    三○円  右一品搬入費
   二一五円  開墾費および植付費
   二四五円  肥料代                             -
一〇〇円  番人住居・肥料小屋建築費
    四五円  農具代
計 一二七二円  
 
 これを見て明らかなように、開拓の中心は桑苗の植えつけにおかれていた。養蚕がひじように有利であるにもかかわらず、山梨県四郡のうち巨摩郡はひとりこれを行っていない。地味や気候が適しないからではなく「氏神様がきらうから」などといって、昔からの仕来りに馴染んでいるにすぎない。そこで日野原にまず養蚕のパイロット村をつくり、巨摩郡の人々に目撃させることによって、郡下全般へ押し広めて行こうというのが、藤村・富岡両者の考えであった。明治六年五月政府から認可が下りて、直ちに開墾と桑苗の植えつけをはじめたところ、果たして桑はよく繁茂し、翌年からは養蚕ができる見込みが立った。
 政府の方針としては、家禄を奉還した士族たちを開拓にあたらせ、これに地所を払い下げようとしたが、永年一国天領下にあった山梨県には該当者がなかった。説によると、敬明が九州の士族を呼んで開拓させたので、そのとき持ち込まれたのが「島原の子守唄」で、峡北地方の民謡「縁故節」はその替歌だという。しかし、縁故節は昔からの「えぐえぐ節」を、昭和のはじめころ整理編曲したものであり、九州士族の大量入植を示すたしかな史料もない。
まず今の日野春駅前に番人住居と肥料小屋が定められ、付近の農民たちの労働力によって開拓が進められたのであるが、事業開始早々
に払い下げを受け、県庁の手を離れて自立することには問題があったので、明治七年県から政府に上申して日野原を官用地に編入するとともに、県下初の勧業試験場を設置して蚕業指導の中枢とした。
 同年七月制定された移住希望者に対する規則によると、桑園は町一反四畝二九歩(約五二〇・五ア-ル)三万四七七八株が払い下げ可能であり、移住者はかならず家屋を建設し養蚕を本業とすること、公費消却金は一反歩につき品等により三六~四〇円上納であるが無利子延納を許すこと、払い下げは一戸につき桑園一反歩以上四反歩内外、家屋地・荒蕪地は一反歩以上四反歩まで、計八反歩を限度とすること、桑園地税は六か年間に限り株場税でよしことその他が定められてした。葡萄園は六反六畝七歩(約三六アール)二六株にすぎなかったが、『山梨県市郡村誌』によると一万五五六坪(約三五〇アール)の牧場があり、明治十三年には和牝牛八六頭、和牡牛七頭、生牝牛一○頭、生牡牛九頭、計一一二頭が飼育されていた。

敬明は明治八年九月山梨県を離任

 敬明は明治八年九月山梨県を離任するが、それまでの間、退庁後馬を日野原に乗りつけ、開拓民を激励することがたびたびあった。この日野原をかかえる日野村は、維新後の行政区画としては、五年に巨摩郡第一六区に編入され、七年十二月には渋沢・塚川・長坂上条・長坂下条の四か村と合して日野春村となり、日野春村は九年十月には山梨県第一○区に入ったが、十一年十二月の郡制によって北巨摩郡の一村となった。官有地である日野原の民間への払い下げについては、国・県への陳情をくりかえした結果、二十年十二月許可されて、翌年からは一七町余りが民有となった。二十二年の町村制施行を機に、開拓民たちは恩人敬明を記念するため、その住居地を日野春村の富岡区と定めた。このころから敬明を祭神とする富岡神社の建立が計画されたが、生存者を神に祀ることには問題があるため、結局社名は開拓神社とし、伊勢外宮から豊受姫命を勧請することになって、翌二十三年九月六日、創建の儀式が盛大にとり行われた。
この事業とともに記念碑の建設運動が進められ、二十三年五月の日付による「日原碑」が開拓神社の本殿裏に建てられた。篆額は山梨県知事中嶋錫胤(しゃくいん)、撰文は北巨摩郡長横枕覚助、書は秀嶋醇三(じゅんぞう)である。表面には日野原の開拓につくした富岡敬明をたたえる文と漢詩が記され、裏面には建碑賛成人の名が、山坂弥吉を中心に七十数名ほりこまれてしる。碑は日野春駅のすぐ西の小高い丘の上に、森にかこまれていまも立っている。七十数名が当時の富岡区全員であるかいなか不明であるが、山梨県に多い姓の者がほとんどである。しかし『北巨摩郡誌』によると、区はその後衰微して、明治二十六年には戸数わずかに十戸だったという。これがふたたび繁栄をとりもどしたのは、三十七年十月に中央線日野春駅が開設されてからである。
 

敬明の熊本県時代

 明治八年九月二十日、敬明は名東(みょうとう)県権令兼五等判事の辞令を受けた。名東県は徳島県の前身で、旧阿波・淡路の両落と西讃岐とからなる大県であった。兼官は間もなく辞すが、当時の名東県では、自由民権論者小室信夫を中心とする自助社が県当局をなやませてした。しかし八年末には幹部の逮捕により、自助社は解散に追い込まれた。翌九年八月には名東県が解消し、阿波は高知県へ、淡路は兵庫県へ 西讃岐は香川県へそれぞれ吸収されたので敏明は一時非職となった。

西南戦争

 このころの日本には、自由民権運動のほかに、不平士族の反乱が各地に起こっていた。七年には敬明の故郷に江藤新平による佐賀の乱があり、九年になると廃刀令を契機として、十月に熊本神風連(じんぷうれん)の乱と福岡の秋月の乱、十一月には萩の乱が続して起こり、鹿児島の西郷隆盛の決起も時間の問題と見られるにいたった。このような十一月に、神風連の乱の余波なお収らない熊本県の権令に任命されたのが富岡敏明である。かつて大小切騒動の直前に山梨県へ赴任したのと思い合わせると、敏明の行く手にはいつも難局が待ちかまえていた。
 明治十年二月十五日、私学校生徒に擁された西郷隆盛は、鹿児島県一万五〇〇〇人の士族をひきいて東上の軍を起こし、ここに西南戦争の幕が切って落された。熊本へ向かう途中、各地からの士族が続々加わり、たちまち二万人以上にふくれあがった。熊本県庁は鎮台とともに熊本城内にあり、富岡権令はここにいたが、西郷軍の通過要請に対しては
 一、国法を守るべきこと
 一、官への訴えは手続をふむべきこと
 一、武装通過により県政をみだすことは絶対に認められないことを書き送って断乎拒絶した。これは二月十八日であって、中央政府が討伐令を出す前日に当たっていた。
二月十八日、鎮台軍の斥候兵と西郷軍との最初の衝突が行われ、翌二十二日には西郷軍が熊本城を完全に包囲した。彼らが士官姓とあなどってした鎮台兵は、優秀な武器にささえられてなかなか強く、何日かかっても落すことができなかった。この間に本州からの征討軍は続々九州に入って熊本に向かし、各地に激戦がくり広げられた。なかでも三月二十日の田原坂の戦いは有名である。権令富岡敬明や鎮台司令官谷干城らの熊本城龍城は約五〇日におよび、深刻な食糧欠乏におちいった。四月十四日、征討軍は囲みを破って熊本城に入り、一方海軍は二十七日鹿児島に入港して要所をおさえた。以後戦線は熊本・鹿児島・大分の三県に拡大するが、西郷軍は兵員や食糧・弾薬の補充が続かず、征討軍の兵力はますます増強された。それでも西郷軍の抵抗はなお続いたが、ついに九月二十四日にいたり、西郷隆盛が城山で自刃して西南戦争は終わった。

三角(みすみ)港の開設

 西郷軍による熊本城包囲直前の二月十九日、本丸二ノ天守閣が火災にかかり、城下に延施して大半を焼いていたので、富岡権令はその復興にあたって道路の直線化と拡幅を行った。西郷軍に加担した者の取り調べや処罰には反感もあったが、県下の再建は次第に進んだ。十年十二月状況報告のため上京した敬明は、天皇から勲四等と年金一八〇円の恩賞を受け、さらに翌年七月には県令に昇任した。
 敏明の熊本県在任は足かけ一六年におよび、西南戦争後第五高等中学校(現熊本大学)の誘致をはじめとする文教の振興や、諸産業の発達につくした業績は大きいが、最大の仕事は三角港の築港であった。熊本県に大型船の出入できる港をつくるため、十三年秋には飽田郡の官貫港を再構築することとし、翌年政府の雇いであるオランダ人ムルドルによる実地調査となった。しかしその結果は、この港は遠浅すぎて不適当であり、やや遠隔ではあるが宇土郡一角こそ最適の地と判明した。
そこで富岡県令は県会を説得して計画を変更し、総工費三○万二〇六八円、うち国庫補助一○万円の予算をもって、十七年五月三角築港工事に着手した。山を切り海を埋める難作業ののち、十年六月にはみごと完工し、特別外国輸出港の指定を受けることにも成功した。
敬明は二十四年四月熊本県知事を辞して、山梨県に帰り、勅選の貴族院議員となるが、熊本県の人々は敬明の全業績を顕彰するため、北白川宮能久(よしひさ)親王篆額の「前熊本県知事従三位勲三等富岡敬明君頌徳碑」を二十七年十二月付で三角港に建設した。敬明がかねてから計画してした熊本-宇土-三角の鉄道線は、三十二年九月に開通し、三角港は日本有数の重要港となった。

山梨県人 富岡敬明

 敏明が行政官として山梨県に在任したのはわずか三年であるが、この間に日野原の開拓にはなみなみならぬ情熱をそそぎ、個人としては山梨郡里垣村(甲府市善光寺町)に広大な土地を取得して後妻のコトと住む家を建てている。このころすでに山梨県への定住を意図していたであろうことは、明治十七年八月に本籍をここに移した事実からもうかがうことができる。禄だけで暮らす者がいったん禄を離れたときのみじめさを、小城藩騒動のときつぶさに体験している彼は、大地こそ生活のよりどころと考えたのであろうか。
 熊本から里垣村へ帰った翌年の二十五年三月、貴族院議員を在任わずか一年で辞職した。議会で反対派の起案に賛成したことが与党の非難をまねいたので、自分の信念が通らないような議員生活に愛想がつきたのが理由といわれる。そういう生一本なところのある彼であった。三十三年五月には、主として熊本県時代の功績によって男爵を授けられ、六月には正三位に叙せられた。
 華族であることを誇るようなところが、彼にはすこしもなかった。村人たちと気軽につきあい、名誉村会議員に推されると、すぐさまひきうけて村のために走りまわった。付近を流れる濁川の氾濫になやまされると、その改修に尻をからげて出動し、的確な判断によって排水の方法を教えたこともあった。またあるとき、土地の有力者たちを昼食に招いたが、人々の期待をよそにいつまでも何も出さず、午後四時ころになってから出したのは栗飯に梅干だけであった。箸をとるにあたって、敬明は熊本城に龍城したときの苦しさをしみじみ語り、空腹がひどければどんなものでもおいしく食べられることを説いて、村人たちがぜいたくな生活に走らないようにいましめたという。
日野原開拓村の人々もときどき敏明の家を訪問したが、敏明も開拓神社へ、かつて小城藩主鍋島直堯から拝領した名刀「不動丸」をみずから奉納しており、三十七年の日野春駅開業式には、甲府から馬車でかけつけて祝っている。

双松山房

里垣村の敏明の家を双松山房という。裏山に立派な松が二本あって、樵(きこり)夫がそれを切りかけたのを押しとどめ、その前に家を建てて名づけたものである。この家へ出入りした人は、県内外にわたって数多いが、その中に市大門村の漢詩人渡辺青洲がある。敏明が折々に書きためた作品に『双松山房詩史』と題したのが青洲である。この書物は明治三十二年に第一巻が発行され、巻の予定のところ第四巻まで続いた。「自序」や「富岡氏略系」はもちろん、おびただしく収められた漢詩には、敏明の波瀾に富んだ足どりがよく表わされている。彼は少年時代からの漢学の素養によって詩文に長じており、書は従弟で書聖としわれた中林梧竹の影響もあって能筆だった。
明治四十一年十二月はじめのある日、敏明はふと思いついて汽車で日野春駅に降りたった。これが開拓村の見おさめとなり、村人たちとかわしたことばが永訣の辞となった。このときひいた風邪は年が改まっても全快せず、四十二年月十八日の夕刻、双松山房で八八歳の天寿を全うした。彼が晩年受けたかずかずの栄誉は、おもに在任期間の長かった熊本県時代の功によるが、彼の心は常に山梨を離れたことはなかった。彼が愛してやまなかった山梨県、そこで結ばれた愛妻コトにみとられながらの大往生であった。
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参考文献

 富岡敬明『双松山房詩史』・中央公論社『日本の歴史』20・島田駒男『甲州大小切騒動と富岡敬明』・河村秀明
『小説富岡敬明』・城島正祥外『佐賀県の歴史』一・『山梨県史』・『山梨県政百年史』・『山梨県市郡村誌』・『北巨摩郡誌』・『山梨百科事典』等。なお韮崎市の歌田昌収氏と県立図書館郷土資料室にたいそうお世話になりました。

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