小淵沢町指定文化財、笹尾塁跡
所在地 北巨摩郡小淵沢町下笹尾七五四番地の一
所有者 下笹尾区
指定年月日 昭和四十一年六月十日
一、発掘調査による笹尾星跡
笹尾塁跡は、小淵沢町下笹尾字耕地久保に所在する。
本塁は釜無川左岸七里岩の急崖上にあり、東・西両側は釜無川に注ぐ深い浸食谷に、南側は七里岩の断崖になっており、自然の要害に恵まれたところである。
『甲斐国志』に
「…此處ハ七里岩上ニアリ、東西ハ深山峨々ト峙(そばだ)チ、南軍高岩壁立シ下ニ釜無川アリ此方僅ニ平地ニ接ス。湟(ほり)塁二三重ニシテ甚夕広カラス。左右ノ山腹ニモ塁形ヲ存ス」
とある。
本塁は六つの郭からなり、東西八〇メートル、南北二六〇メートルほどの規模とみられ、周辺の地名、小
字名には、北に「馬場」「馬場の井戸」、東に「上屋敷」「東屋敷」「中屋敷」「御蔵屋敷」「掘の内」、さらに近接する上笹尾には「御所屋敷」「島屋敷」 福間田屋敷」「駒場」などがある。
本塁の構築規模は、昭和五十三年八月『笹尾塁跡調査報告書』によると次のとおりである。
本塁跡は北から三~四本の平行する堀、あるいは掘り切りを有し、それらによって四つの郭に大別される。第二の堀と第三の堀によって区切られる地区は、比高によってさらに二つに分れる。また、今回発掘調査を行なった土塁に囲まれた区域も土塁によって二つに分かれる。つまり、全体的には六つの郭と四本の堀から本塁跡は形成されていることになる。
南の郭より北に向って順に一の郭~六の郭と仮称し、個々の郭について説明する。
(一・二の郭)
今回調査した一・二の郭は、墨跡の南半で「く」の字状に曲がる一番目の堀以南の土塁に囲まれた郭である。この二つの郭は、位置や防備の状況から本遺跡の主部と考えられる。
北・西・南に土塁を回した一の郭は、東西二〇メートル、南北四五メートルの規模で、南北に細長い。土塁の内側は平らで、土塁上とは二メートルまでどの差がある。東側には土塁は存在しないが、南側の土塁の東側を「L」字状に北へ曲げてあり、斜面には数段の滞郭を設置してあったようである。急崖に面した南側の土塁は上幅が広くなっており、この上に物見台があったと考えられる。
二の郭は東西二四メートル、南北三二メートルの規模で、東側の一部(土橋寄り)から北側、西側に土塁が見られる。郭内は南側が若干低くなる二段構造で、この段差のところで東側の土塁は終わり、西側の土塁は屈折している。また、二の郭の北西隅の土塁の切れ間は虎口(入口)と考えられる。
土塁が入れ違い構造をもっており、その内側には広場のような空間をつくっている。一の郭と二の郭の間の土塁にはさまれた虎口は幅三メートルで、一の郭側の土塁は特に高くなっている。二の郭側の土塁はまもなく終るが、一の郭と二の郭をつなぐ空間は非常にせまく、東側には土塁がなく不安定である。一の郭と二の郭の中心線はわずかに逆「く」の字に折れ曲っている。
(三郭~六郭)
三の郭は第一の堀と第二の堀との中間にある東西六五メートル、南北一三メートルほどの区画で、現在は畑と一部水田になっている。東西に長く、西端が谷に突き出すような状況であるので、土塁の機能をもっていた このうち構築については文正年度(一四六六)小田切某が居城したとあるが、小田切某についての史料的根拠は不明であり、笹尾岩見守という人物も当誌以外にはみられない。さらに新羅三郎義光甲斐国司時代にさかのぼってみても、国司時代の抗争関係が明らかでない限り本塁を構築する必要性が明確でなく、いずれも伝承の域を脱しないものである。
(四の郭)
現在水田となっている。東西から深く台地に入りこむ小谷があるが、これが第二の堀と考えられ、三の郭の土塁の土で埋めて水田にしたと考えられ、東西五〇メートル、南北三〇メートルの地域である。
(五の郭)
四の郭の北で、四の郭より二~三メートル高い平坦地で現在は雑木林である。内部は緩傾斜をもつ自然地形と思われるが、中央部はやや平坦であり東西三〇メートル、南北五〇メートルである。また、東の崖へ突き出した尾根からは、一・二の郭や、谷底からの通がよく見える。
(六の郭)
「く」の字状に曲る長さ三二メートル、深さ三メートルの第三の堀と、直線状の長さ二〇メートル、深さ二メートルの第四の堀によって区切られた台形状をなし、東西二〇メートル、南北一六メートルであり、この郭が本塁跡の北限と考えられる。
発掘調査によって明らかになったことは、土塁基底部に石積みがしてあり、出土遺物は雑器四三、土師質土器六三、溶融物付着土器二、磁器一、金属製品一、石製品一など一一一点である。
笹尾塁跡が史実に登場するのは、上官『当社神事記』の享禄四年(一五
一) の項の記述である。
事禄四年正月廿二日、甲州錯乱ニテ当方篠尾二要害ヲ立テ候テ、下宮牢人衆サ
サヘラレ候、彼城モ廿二日夜自落、此方本意ノ分ニテ、弥々武田万難儀
歴史と笹尾塁跡
本塁の成立年代についての資料としては、『北巨摩郡誌』には
「‥…天文二十一年蜂火を挙げたる場所にして、筑後守手勢を引連れて出張し笹尾砦手橋城柵を築きたりと云う、…武田の臣笹尾岩見守の居城なりと云う。文正年度武田家の臣小田切其の居城址なりと云う、武田家の祖先新羅三郎甲斐を領したりしとき他家より戦争防備のため臣下某の居城なりと云う…」とある。
武田・諏訪両氏の対立に享禄四年一月二十二日笹尾砦が使われたことを伝えている。
武田家の信虎・晴信・勝頼三代の隆昌を築いたのは、信虎の国内統一であり、信虎は父信縄の死によって永正四年(一五〇七)一四歳で家督を相続したが、一族の中から反旗をひるがえす者がでるなど、国内外の諸情勢は多難であった。
すなはち、叔父信恵父子・弟縄実それに郡内の小山田らとの対立があり、さらに一族の大井・栗原・今井・穴山などの反抗、それに北条・今川・信濃勢の侵入などがあったが、信虎はこれらの難局を打開して永正十六年(一五一九)居館を石和から躑躅ケ崎へ移し、国内の豪族諸将を城下へ集任させ城下町を形成するまでに権力を伸ばしていた。
大永元年(一五二一)今川勢を飯田河原・上条河原で撃破し、
享禄元年(一五二八)には信濃へ侵攻して諏訪頼満・頼隆父子を攻撃、八月晦日に神戸・堺川の合戦で武田勢は敗走している。信虎の諏訪侵攻は、
永正元年(一五二一)甲府へ亡命した諏訪其の帰国をはかろうとしたものとみられるが、これによって信虎と頼満の関係は悪化していった。
『勝山記』に
「学禄四辛卯、此年正月廿一日ニヲウ殿、栗原殿、屋形ヲサミシ奉テ府内ヲ引退リキ、ミタケニ馬ヲ御入候、去ル間、滴ノ信本モ御同心ニテ御座候、然レバ此人々、信州ノ諏訪殿ヲ憑ミ候テ府中ヘムカイメサレ候、河原辺ニテ軍サアリ、浦衆打劣テ栗原兵庫殿、諏訪殿打死ニメサレ候、打娘ル頭八百罰卜云々、其ノママ信州ノ勢ハ噂引申サレ候」
とあり、享禄四年一月二十一日重臣飯富・栗原の国人衆は、信虎を離れて同心の逸見今井信元を頼り、諏訪氏の援軍をうけて信虎を打つ計画であった。
これよりさき信虎は永正十七年(一五二〇)六月、逸見・今井・栗原・大井の叛乱軍を破り、今川勢も撃退するまでに成長していたため、これに対抗するためには諏訪氏の援けを求めるよりほかなかったであろう。亨禄四年一月二十一日府中を退いた飯塚・栗原両氏は今井氏と合流し、西部の大井氏を加えて陣容を強化した。
篠尾砦が当社神事記に出たのはこうした情勢下にあった時である。当時逸見今井氏は多麻庄を中心に勢力をもち、大八田庄地域は信虎の勢力下にあったとみられ、信虎は甲・信国境の守備を『当社神事記』にあるように、篠尾砦に諏訪下宮の牢人衆を詰めさせて、諏訪氏の侵攻に備えていたのである。
諏訪氏は逸見今井氏と呼応して享禄四年一月二十二日甲州に入り、篠尾砦を攻撃したが、武田勢は夜闇に乗じて逃散して自落した。諏訪氏は「此方本意ノ分ニテ」と、この攻略は予定通り運んだとし、武田方は苦難に陥入ったとみている。
しかし、武田勢は二月二日に大井信業・今井尾張守を破っており、四月十二日は前掲の『勝山記』のように、諏訪氏の援軍を得た国人勢に河原部(韮崎)の合戦で大勝し、栗原兵庫は打死し国人勢五百人、諏訪勢も三百人の戦死者を出した。さらに翌天文元年(一五三二)には、今井信元も信虎の軍門に降り国人衆の叛乱はあとを絶った
篠尾砦の構築については、享禄四年の資料からこのとき築城したとみるのは早計で、それ以前からあり、たまたまこのとき使われたと考えられる。それは、谷戸城・深草城址を中心とした勢力の存在や、周辺に築かれていた中丸塁跡・若神子城跡・大坪城跡などとの一連の関係も充分考えられ、また、前掲の周辺の地名・屋敷などから在地土豪の砦としてもみることができる。
こうして、武田信虎の国内統一のために篠尾砦はそれなりの役割を果しており、中世域舘跡として重要な意味をもっている。<山田清氏著>