Quantcast
Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
Viewing all articles
Browse latest Browse all 3088

天下の台所「大坂」

$
0
0

天下の台所「大坂」

江戸期日本一の商業部市大坂にみる経済発展の条件

『別冊歴史読本』江戸人物ものしり事典 伝記シリーズ 昭和54年 一部加筆 
原田伴彦氏著(当時、大阪市立大学教授)
 
 大坂は豊臣秀吉が建設してから政治都市=城下町として発展するが、大坂の陣で豊臣氏が亡び、幕府の直轄領となってからは商業都市に転身する。十七世紀の中ごろすぎ、寛文のころからの大坂の経済的成長は目ざましい。
 ところで上方とは京・大坂のことを示す通称であり、一般に江戸時代の上方経済というと大坂が中心であったと考えられやすいが、十七世紀は、経済的には京都の方が大坂より進んでいたのである。京都は中世いらい文化都市であり、宗教都市であったばかりでなく十七世紀の後期までは、畿内だけでなく、わが国での商業・貿易・金融の中枢だった。それにわが国で最大の産業都市だった。
 この第一の産業都市という性格は江戸時代を通じて変りがない。要するに、京都は経済的には「天下の台所」だったのである。上方というのも、もともとは京都をさす言葉だった。その形勢が逆転して、大坂がその富力において京都を凌いでくるのが、十七世紀末の元禄期なのであった。
 大坂が京都にかわって「天下の台所」といわれるようになった、その経済的発展の条件をあげてみよう。
 第一に、「水の都」といわれるように、水上交通の立地条件に恵まれたことである。その前方に日本の経済動脈である瀬戸内海をひかえ、背後には先進地帯である京都や大和を結ぶ淀川や大和川の水運を擁していた。
 第二に、いわゆる西廻り海運が啓かれ、日本海から下関を経て瀬戸内海を大坂に達する航路ができ、さらに大坂と江戸間の海運がさかんになって、大坂が全国的市場の安の位置に立ったことである。当時、西日本の諸藩では農民から年貢として取り立てた米穀の多くを金にかえて、その貨幣支出をまかなわねばならなかった。西廻り海運の発展は、米穀の換金市場を京から大坂に移すことになった。諸藩は大坂に蔵屋敷をもうけて貢租米を大坂市場で売った。大坂の市場は諸国の米の集散によって栄えるに至った。
 第三に、大坂に回漕される商品には、米のほかに諸国の特産物が多かったことである。阿波の藍玉、備後の畳表、土佐・長州の木材や紙、姫路の皮革、筑後の蝋、讃岐の砂、安芸の塩といったたぐいである。近世中期をすぎるとそれはいっそうふえ、北陸、東北、蝦夷地の地域の特産物、たとえば紅花、海産物にまで及んだ。これらの物資は大坂から各地に送られた。さらに畿内の特産物の木綿、油、嗣・鉄などの金属製品も、大坂から、西日本はじめ、東北の各地にまで移出された。これらの大量の物資を扱う問屋・仲買ら商業資本家は肥大していったのである。
 第四に、近世中期をすぎると、幕府はその財政補強のために、町人たちに多額の運上金などの租税を賦課する代償として、彼らに商工業各種にわたる組合をつくらせ、仕入れ・販売の両面で独占的な特権を与えた。いわゆる株仲間の結成であるが、このことが大坂町人をますます富ませるに至った。
 第五に大坂が商業の中枢になれは、当然に金融の活発化が進んだ。これを担当したのが両替商で、その資金を利貸し資本として活用した。その中心は大名に対する貸付けであった。大坂の豪商は多くこの両替商を兼ねた。
 こうして大坂は、十八世紀には、天下の金権都市に躍進したのである。
 ところで、大坂の商菜、金融の繁栄が、ひとつには江戸という巨大都市の消費生活に支えられていた点を注目しなければならない。江戸は武士五十万人、町人五十万人、あわせて百万人を越すとみられる、当時は世界でも屈指の大都市であった。江戸で消費する大量の物資は、江戸とその周辺の関八州では供給しきれなかった。江戸への物資の供給条件は、大量にそれを調達しうる資力と運輸力をもつということであり、その条件をみたしたのが上方の商人だったのである。すなわち江戸の消費物資を賄って利益をあげたのが、上方とくに大坂の商人である。大坂にとって江戸は最大の顧客であり、江戸の繁栄はとりもなおさず大坂の繁栄であった。
 大坂商人は、諸藩が参勤交代で江戸にて使うための巨額の金を上方市場で調達してやった。つまり諸藩の年貢米や国産物を換金して手数料などの利得をおさめた。さらに諸藩がその金で購入する物資を江戸に輸送して、ここでまた多大の差額の利得をえた。諸藩は自分の米や特産物品を大坂でいったん安く売り払って、それを江戸でより高く買いもどしている勘定になる。その差額の分は大坂町人の懐に入った。そして諸藩が財政の赤字で苦しむと大坂町人から高利で金を借りた。諸藩が財政で苦しんだ分だけ大坂町人は肥大していったわけである。この経済的メカニズムは「産物廻し」とよばれているが、大坂が「天下の台所」になり、大坂町人が天下の経済的実権を担ったのは、このためであった。
 さて十九世紀に入って、幕末ちかくなると、大坂の経済的発展が停滞し、市況が相対的に沈滞してくる。それは江戸時代の後期が、経済的低成長の段階になったこととも関係するが、大坂の経済的地盤沈下の理由としてつぎの三点があげられる。
 第一は、諸藩が大坂に送る蔵物の減少である。財政窮迫に苦しんだ諸藩は、いわゆる専売制度をしき、薄みずからが商業をはじめた。この藩領国経済の自立化政策のあおりで、大坂商人の地方経済への介入が減った。つまり大坂経由の商品が減ったのであって、このことが大坂市場の相対的な狭隆化を生んだのである。
 つぎに、大坂周辺の農村で、いわゆる在郷商人が勢力をえて、大坂の問屋や株仲間の特権がゆらいだ点である。大坂商人の周辺の農村市場への独占はくずれはじめた。締や油などは、大坂の市場を経由しないで、在方の生産者や商人が各地に勝手に商品を自由販売する傾向が著しくなった。大坂商人は、特権の上にあぐらをかいて、仕入れを独占したり、独占価格で高く売りつけることができなくなったのである。
 第三に、大坂にとって最大の顧客市場であった江戸の経済力が低下した点である。幕府をはじめ諸藩の財政逼迫は江戸の購買力を低下させた。さらに江戸周辺から関東にかけてのいわゆる地廻り経済物資がふえた。その分だけ大坂から江戸へ送る商品が減り、利得が減少したのである。「産物廻し」のメカニズムが崩れはじめたわけである。もちろん腐っても鯛のたとえのごとく、大坂の「天下の台所」としての地位が崩壊したわけではないが、幕末期には、大坂経済の斜陽化は年をおって進んだ。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 3088

Trending Articles