【浜口 儀兵衛】はまぐち ぎへえ ヤマサ醤油
『別冊歴史読本』江戸人物ものしり事典 伝記シリーズ 昭和54年 一部加筆
文政三年(一八二一)紀州有田郡広村の浜口家の分家に生まれる。名は成則、字は公輿(こうよ)栰陵(ごりょう)と号した。
浜口宏は下総銚子で醤油醸造を営み、ヤマサ醤油で名高い。十三歳のとき、銚子の本家をつぎ七代目儀兵衛となった。いらい銚子と紀州を往反して、幕末の変動のなかでよく家業を守った。彼は一介の商人でなく三宅艮斎(こんさい「)に師事し、学問や槍術にすぐれ、佐久間象山・勝海舟らと交友した。安政年間(一八五四~六〇)、コレラの大流行のさい防疫につとめて銚子市民を救い、七百両を投じて江戸市民の種痘普及につとめ、故郷広村の海岸に大築堤をつくるなど社会事業に貢献した。
和歌山藩の勘定奉行、明治政府の駅遁頭(えきていのかみ)、和歌山県会議長を歴任した後、明治十七年(一八八四)、外遊中アメリカで客死した。