弘治元年 1555【妙法】(天文廿四年/10月23日改元)
《信虎-62歳・信玄-35歳・勝頼-10歳》
○閏月十月也。
弘治元年 1555【長野】
●一月三十日、筑摩郡洗場三村某、武田の将馬場信房を深志城に攻め、村井・出川に放火する。この日二木重隆、信房救援に駆けつける。ついで三村ら、敗れる。
●二月十四日、武田晴信諏訪郡八剣社に同郡上原の地を寄進し、武運長久を祈らせる。
●三月廿一日、武田晴信、大日方主税助の、安曇郡千見城攻略を賞する。
●三月、武田晴信、木曾制圧に着手、千村俊政の守贄川砦を落とす。鳥居峠に出陣した木曾義康、武田軍に挟撃されて敗走し、武田軍は藪原を占拠する。
●四月廿五日、武田晴信、内田監物に、更級郡佐野山在城につき知行所諏訪郡北大塩二
三人の押立公事を免じる。
弘治元年 1555【妙法】
○二月にも暄(あたたか)に御座候。
●五月廿八日、信州知久殿與四郎殿州船津にて生害被成候。宮下勘六方打被申候。
(信州下伊那の知久氏が鵜の島に幽閉される。翌年鵜の島から船津に連れていかれた上で切腹する)
《第二回川中島合戦/武田晴信VS長尾景虎》
●此年、七月廿三日、武田晴信公信州へ御馬を被出候而、村上殿・高梨殿、越後守護長尾景虎を奉頼同景虎も廿三日に御馬被出候而、善光寺に御陣を張被食候。
●武田殿は三十丁此方成り、大塚に御陣を被成候。善光寺の堂主栗田殿は旭の城に御座
候。旭の要害へも、武田晴信公人数三千人さけはりをいる程の弓を八百張、鉄砲三百挺入被食候。
●去程に長尾景虎再々責候へ共不叶後には駿河今川義元御扱にて和談被成候。壬十月十五日雙方御馬を入被食候。以上二百日にて御馬入申候。去程に入馬労無申計候。
○此年、銭南京と云銭出来候而代をえる事無限。
○此年、富士山北室行者堂立候。去程に護摩堂とも上葺小林善三殿本願にて被成候。
○此年、閏十月に王吉田西念寺へ御着候。去程に地下侍出家男女皆々参候事無限。一夜御座候而、川口禅應寺へ御越候。
◎此年駿河義元の御内を異見申候者説最と申御出家、閏十月九日御死去被成候。駿河力落不及言説。
●此年、相州新九郎殿霜月八日曹司様(北条氏直)を設け玉ふ。甲州晴信公御満足大慶此事候。
天文廿四年 1555 5月17日【富士/向岳】
●武田晴信、向岳寺に田原・四日市場を改めて寄進し、寺務は都留郡法にまかせて弁償するようにと命ずる。
天文廿四年 1555 8月12日【富士/国玉】
●武田晴信、竜淵斎に小山田信有を信濃国佐久郡へ派遣することを伝える。
天文廿四年 1555 9月 5日【富士/大善】
※小山田信有が室生・大蔵両座の大夫以下五百余人を引き連れ、大善寺に参詣する。
弘治 元年 1555【長野】
●八月、武田軍、木曾を再攻、上之段城と福島城の子木曾義昌を攻める。義康和議を申し入れ、娘を人質に甲府へ送り、義昌に晴信の娘を迎える。
●十月五日、武田晴信、内応した高井郡小島修理亮に、高梨領内の河南の地を宛行う。
●閏十月二日、晴信、大日方山城守、春日駿河守に俵物の分国中諸関通行を許す。
●閏十月十五日、晴信・景虎、駿河の今川義元の仲裁により、誓紙・条目を交わして和議を結び、互いに兵を引く。
●十一月六日、武田勝頼の母諏訪氏、死去する。
甲斐地史年譜(3)
基本資料
高白=高白斎実記(甲陽日記)
(栗原左兵衛の日記…『甲斐資料集成7歴史部』)
(『武田信玄謎の軍配』馬場範明氏著)や諸書によれば、高白斎は駒井政武で信玄の家
老格の近臣とある)
妙法=妙法寺記
(妙法寺住僧…『甲斐資料集成7歴史部』)
軍艦=甲陽軍艦
王代=王代記
参考資料
武田=武田史料集(清水茂夫氏・服部治則氏校註。昭和42年刊。)
暦年=日本歴史年表
(歴史学研究会編)
山梨=図説 山梨県の歴史(磯貝正義氏著 河出書房新社刊。)
武川=武川村誌、年表
小笠=小笠原文書
鎌倉=鎌倉大草紙
一蓮=一蓮寺文書(甲斐甲府)
王代=王代記
甲斐=甲斐国志
高野=高野山文書(高野山引導院過去帳)
勝山=勝山記
宝寿=宝寿至要旧記
御頭=諏訪神使御頭之日記
歴名=歴名士代
津金=信州津金文書
寛政=寛政重修諸家譜
塩山=塩山向岳禅庵小年代記
堀江=堀江文書守矢=守矢文書
積翠=積翠寺文書
系図=武田系図
東大=保阪潤治旧蔵東大史料蔵本
北佐=北佐久郡志
高見=高見沢文書
富士=富士吉田市史
向岳=向岳寺文書
国玉=甲府市国玉神社文書
大善=大善寺文書
甲府=甲府市史
評判=甲陽軍艦評判
○= 地域周辺の事。
●= 武田家に関すること。
◎= 中央の出来事。
※= 武田家周辺の事。
弘治 二年 1556【明叔録】《信虎-63歳・信玄-36歳・勝頼-11歳》
○
弘治 二年 1556【妙法】
○此年春売買一切安乍去世間つまる事不及言説飢銭饉渇にて御座候。
●此年、小林尾張守殿(貞親)井戸を田に御掘り候。又小山田彌三郎殿御被官探題御座
候而、地下衆歎もあり喜も御座候。殊更尾州吉田衆に非分多く候間、二十人ひきわかさり、其内に御家人交り谷村へ下り久敷詰候へ共、御捌無く候とて、府中へ越被申候。屋形様御意にて悉廿人衆の道理に御捌候。去程尾張被官をは屋敷搦に被拂申候。
○此年吉田廿人の寄子もはなし彌三郎殿へ馬まはりに被成候。其上於下吉田小林和泉殿
より非分多く候間、百余人談合申、小山田殿へ下り被申候処に、境の弾正殿を頼申、一日の内に使を三度迄下し、下吉田衆を留候て給候へと色々詑言被成候へ共、更に理へんつき不申候間、小林文三殿八月より来正月迄府中に被詰候。
●去間小山田彌三郎殿、色々詑言晴信様へ御申上申候而、文三殿をも郡内へ御帰候。去
程に谷村下吉田地下衆を呼び下しけつはらさせられ彌三郎殿御意にて、小林和泉守殿不被成候。乍去和泉寄子被官をは押離し申候。
《解説》『甲府市史』史料編第一巻「中世」
この年、都留郡河口湖近在の在地土豪小林尾張守貞親が、田に井戸を掘った。これが吉田衆という二十人ばかりの郷士と紛争になり、小林氏が小山田氏の奉行であったところから、吉田衆は小山田氏にその不当を訴えた。ところが何の道理も得られなかったので、甲府の武田晴信に直訴することになり、その結果、小林氏の被官は屋敷払いとなり、吉田衆の寄子は放免された。この部分は武田晴信の都留郡内支配の状況をみる格好の材料であり、谷村で解決しないものは甲府でといった気運が浸透していたことを物語るものである。
弘治 二年 1556【長野】
●三月十一日、武田晴信、水内郡静松寺住持に葛山衆の盟主落合一族を切り崩し、武田方へつかせた功を賞する。
●六月廿八日、武田晴信、大須賀久兵衛尉に、欠落(かけおち)した被官人を還住させ
る。
●八月二日、武田晴信、水科修理亮に、善光寺と甲府の行き来につき、一カ月馬二疋づつの諸役を命じる。
●初月八日、武田晴信、真田幸隆に東条氏の埴科郡雨飾城の攻略を促す。ついで幸隆、同城を落とす。
弘治 三年 1557【長野】《信虎-64歳・信玄-37歳・勝頼-12歳》
●一月廿日、長尾景虎、更級郡八幡宮に、武田晴信の討滅を祈願する。願文に晴信の信濃制服の暴虐を記す。
●二月十五日、武田の将馬場信房、長尾方落合氏らの本拠水内郡葛山城を攻略する。葛山衆の多くは武田方の属し存続する。
●二月十七日、武田晴信内応した高井郡山田左京亮に、本領同郡山田を安堵し、大熊郷を宛行う。
●二月廿一日、後奈良天皇伊那郡文永寺再興を山城醍醐寺理性院に令する。ついで文永寺厳詢、信濃に下り、武田晴信に文永寺再興を訴える。
●二月廿五日、武田晴信、越後軍の高井郡中野への移動を報じた原左京亮・木島出雲守に答え、城を固めさせる。ついで原・木島、越後軍の出陣を晴信に報じる。
●三月廿三日、武田軍、高梨政頼を飯山城に攻める。政頼、落城の危機をを訴え、長尾景虎政景にに救援を請う。この日景虎、越後長尾政景に出兵の決意を告げ出陣を促す。
●三月廿五日、甘利信州立。【王代】
●三月廿八日、武田晴信、水内郡飯縄権現の仁科千日に、同社支配を安堵し、武運長久を祈念させる。
●四月十三日、武田晴信、島津月下斎が水内郡鳥屋城から鬼無里を突くとの報の実否を長坂虎房らに調べさせる。
●四月廿一日、長尾景虎、善光寺に着陣、武田方の高井郡山田城・福島城などえお奪う。ついで旭山城を再興する。
●五月十日、長尾景虎、高井郡小菅山元隆寺に願文を奉納、武田晴信を信濃に引き出し決戦することを祈る。
●五月十三日、長尾景虎、香坂城を焼き、この日小県郡境の坂木岩鼻を破る。ついで晴信が出陣しないため飯山城に兵を返し、高井郡野沢の湯に市河藤若を攻める。
★山本勘助★
●六月廿三日、深志城の武田晴信、使番山本菅(勘)助を市河藤若に遣し、救援出陣を手配したと告げる。
●七月五日、武田軍、長尾方安曇郡小谷(おたり)城を攻め落とす。
●七月廿三日、武田晴信、大須賀久兵衛に、埴科郡坂木南条の地を宛行い、検使を派遣して所領を渡すと告げる。
●八月廿九日、長尾景虎、政景の軍、武田軍を水内郡上野原に破り、この日戦功を賞する。(第三回川中島合戦)
●十月九日、武田晴信、安曇郡千国谷に高札を掲げ、谷中の乱妨狼籍を禁止する。
●十月十六日、馬入。窪川孫二郎討死。【王代】
●此年、将軍足利義輝、長尾景虎上洛のため景虎、武田晴信の和睦をはかり、聖護院道澄を派遣する。
●此年、武田晴信、善光寺の仏像・仏具を小県郡彌津に移す。信濃善光寺とその門前町が寂れる。
●弘治年間、武田晴信、伊那郡に小野川・波合関所を設ける。この頃、清内路・帯川・心川関所も置く。
弘治 三年 1557【妙法】
○二月奉行方皆々御上候而、かなたこなたと御覧し候。其時小林市兵衛殿與二郎左衛門殿同左近殿悪口を被申候。去間谷村へ罷下候へは悉下吉田の百余人の道理に御捌候而地下衆被御帰候其年の十月堰道具に官林の松木ををり候へは一兵衛殿御出候而切物を取上人足を散々にたゝき被申候間下吉田百余人衆松山へおしかけ質物を取反し被申候。折節殿様の御意にて下吉田へ奉行人を御上せられ百余人衆と松山下の中なほし御座候。
○其年は十二月日てり候て芋悉やけかれ候。去程に其冬中暖気に御座候、此年悉く飢渇入る事無限。
《解説》『甲府市史』史料編第一巻「中世」
●前年の小林尾張守と吉田地下衆との水争いに続きで、この二月には奉行衆が来て現地
を視察したが、十月には吉田衆が河除堰を作るために宮林の松を切ったところ、小林方の役人がそれを取り上げ、その上暴力に及んだがので、吉田衆は百余人で松山の小林屋敷へ押しかけ、質物を略奪した。小林氏は信濃陣中の小山田氏へ訴えたが解決できなかたった。結局この時も晴信が裁断を下し、小林氏と吉田衆の争いを仲裁した。
この年の四月には晴信は川中島に出陣し、八月には長尾景虎と三回目の対戦をしている。小山田氏も晴信に従って川中島に出陣しており、小林方はその信濃陣中まで訴えに赴いている。
弘治 三年 1557【妙法】
★山本勘助★信州塩田に布陣の晴信が、水内郡市河に在城の市河藤若にあて、塩田城主飯富虎昌が川中島に進出する計画のあることを、山本菅(勘)助を使番として報じる。
(北海道、市河良一家文書)
弘治 三年 1557【甲府】
●弘治元年(1555)閏十月の甲越和睦は、その後の信濃侵略によって、有名無実とり、翌二年八月には春野望が景虎の家臣の大熊朝秀を内応させたことから、再び両者の関係は悪化した。この年の二月十五日、晴信は景虎の機先を制して川中島へ兵を送り、善光寺の南の葛山城を攻落させた。云々
●葛山城を攻落した後、武田軍は川中島一帯の長尾方の一掃を続行していた。景虎は雪の為に出陣することができず、晴信も三月十四日には、まだ甲府いた。そこへ川中島より注進状が届き、越国衆が出陣するのとの報に接し、自らも出馬すると伝えている。
●四月十八日、景虎が川中島に出陣し、晴信は決戦を避けて安曇郡小谷城を攻め、八月に入ってやっと両軍が川中島で対戦した。これを第三回川中島の戦いという。
《参考》川中島の戦い。『川中島五箇度合戦記』
第一回 天文廿二年八月(1553)
第二回 天文廿四年四月(1555) 百五十日間
第三回 弘治 三年 (1557)
第四回 永禄 四年九月(1561)
第五回 永禄 七年八月(1564)
《信虎-62歳・信玄-35歳・勝頼-10歳》
○閏月十月也。
弘治元年 1555【長野】
●一月三十日、筑摩郡洗場三村某、武田の将馬場信房を深志城に攻め、村井・出川に放火する。この日二木重隆、信房救援に駆けつける。ついで三村ら、敗れる。
●二月十四日、武田晴信諏訪郡八剣社に同郡上原の地を寄進し、武運長久を祈らせる。
●三月廿一日、武田晴信、大日方主税助の、安曇郡千見城攻略を賞する。
●三月、武田晴信、木曾制圧に着手、千村俊政の守贄川砦を落とす。鳥居峠に出陣した木曾義康、武田軍に挟撃されて敗走し、武田軍は藪原を占拠する。
●四月廿五日、武田晴信、内田監物に、更級郡佐野山在城につき知行所諏訪郡北大塩二
三人の押立公事を免じる。
弘治元年 1555【妙法】
○二月にも暄(あたたか)に御座候。
●五月廿八日、信州知久殿與四郎殿州船津にて生害被成候。宮下勘六方打被申候。
(信州下伊那の知久氏が鵜の島に幽閉される。翌年鵜の島から船津に連れていかれた上で切腹する)
《第二回川中島合戦/武田晴信VS長尾景虎》
●此年、七月廿三日、武田晴信公信州へ御馬を被出候而、村上殿・高梨殿、越後守護長尾景虎を奉頼同景虎も廿三日に御馬被出候而、善光寺に御陣を張被食候。
●武田殿は三十丁此方成り、大塚に御陣を被成候。善光寺の堂主栗田殿は旭の城に御座
候。旭の要害へも、武田晴信公人数三千人さけはりをいる程の弓を八百張、鉄砲三百挺入被食候。
●去程に長尾景虎再々責候へ共不叶後には駿河今川義元御扱にて和談被成候。壬十月十五日雙方御馬を入被食候。以上二百日にて御馬入申候。去程に入馬労無申計候。
○此年、銭南京と云銭出来候而代をえる事無限。
○此年、富士山北室行者堂立候。去程に護摩堂とも上葺小林善三殿本願にて被成候。
○此年、閏十月に王吉田西念寺へ御着候。去程に地下侍出家男女皆々参候事無限。一夜御座候而、川口禅應寺へ御越候。
◎此年駿河義元の御内を異見申候者説最と申御出家、閏十月九日御死去被成候。駿河力落不及言説。
●此年、相州新九郎殿霜月八日曹司様(北条氏直)を設け玉ふ。甲州晴信公御満足大慶此事候。
天文廿四年 1555 5月17日【富士/向岳】
●武田晴信、向岳寺に田原・四日市場を改めて寄進し、寺務は都留郡法にまかせて弁償するようにと命ずる。
天文廿四年 1555 8月12日【富士/国玉】
●武田晴信、竜淵斎に小山田信有を信濃国佐久郡へ派遣することを伝える。
天文廿四年 1555 9月 5日【富士/大善】
※小山田信有が室生・大蔵両座の大夫以下五百余人を引き連れ、大善寺に参詣する。
弘治 元年 1555【長野】
●八月、武田軍、木曾を再攻、上之段城と福島城の子木曾義昌を攻める。義康和議を申し入れ、娘を人質に甲府へ送り、義昌に晴信の娘を迎える。
●十月五日、武田晴信、内応した高井郡小島修理亮に、高梨領内の河南の地を宛行う。
●閏十月二日、晴信、大日方山城守、春日駿河守に俵物の分国中諸関通行を許す。
●閏十月十五日、晴信・景虎、駿河の今川義元の仲裁により、誓紙・条目を交わして和議を結び、互いに兵を引く。
●十一月六日、武田勝頼の母諏訪氏、死去する。
甲斐地史年譜(3)
基本資料
高白=高白斎実記(甲陽日記)
(栗原左兵衛の日記…『甲斐資料集成7歴史部』)
(『武田信玄謎の軍配』馬場範明氏著)や諸書によれば、高白斎は駒井政武で信玄の家
老格の近臣とある)
妙法=妙法寺記
(妙法寺住僧…『甲斐資料集成7歴史部』)
軍艦=甲陽軍艦
王代=王代記
参考資料
武田=武田史料集(清水茂夫氏・服部治則氏校註。昭和42年刊。)
暦年=日本歴史年表
(歴史学研究会編)
山梨=図説 山梨県の歴史(磯貝正義氏著 河出書房新社刊。)
武川=武川村誌、年表
小笠=小笠原文書
鎌倉=鎌倉大草紙
一蓮=一蓮寺文書(甲斐甲府)
王代=王代記
甲斐=甲斐国志
高野=高野山文書(高野山引導院過去帳)
勝山=勝山記
宝寿=宝寿至要旧記
御頭=諏訪神使御頭之日記
歴名=歴名士代
津金=信州津金文書
寛政=寛政重修諸家譜
塩山=塩山向岳禅庵小年代記
堀江=堀江文書守矢=守矢文書
積翠=積翠寺文書
系図=武田系図
東大=保阪潤治旧蔵東大史料蔵本
北佐=北佐久郡志
高見=高見沢文書
富士=富士吉田市史
向岳=向岳寺文書
国玉=甲府市国玉神社文書
大善=大善寺文書
甲府=甲府市史
評判=甲陽軍艦評判
○= 地域周辺の事。
●= 武田家に関すること。
◎= 中央の出来事。
※= 武田家周辺の事。
弘治 二年 1556【明叔録】《信虎-63歳・信玄-36歳・勝頼-11歳》
○
弘治 二年 1556【妙法】
○此年春売買一切安乍去世間つまる事不及言説飢銭饉渇にて御座候。
●此年、小林尾張守殿(貞親)井戸を田に御掘り候。又小山田彌三郎殿御被官探題御座
候而、地下衆歎もあり喜も御座候。殊更尾州吉田衆に非分多く候間、二十人ひきわかさり、其内に御家人交り谷村へ下り久敷詰候へ共、御捌無く候とて、府中へ越被申候。屋形様御意にて悉廿人衆の道理に御捌候。去程尾張被官をは屋敷搦に被拂申候。
○此年吉田廿人の寄子もはなし彌三郎殿へ馬まはりに被成候。其上於下吉田小林和泉殿
より非分多く候間、百余人談合申、小山田殿へ下り被申候処に、境の弾正殿を頼申、一日の内に使を三度迄下し、下吉田衆を留候て給候へと色々詑言被成候へ共、更に理へんつき不申候間、小林文三殿八月より来正月迄府中に被詰候。
●去間小山田彌三郎殿、色々詑言晴信様へ御申上申候而、文三殿をも郡内へ御帰候。去
程に谷村下吉田地下衆を呼び下しけつはらさせられ彌三郎殿御意にて、小林和泉守殿不被成候。乍去和泉寄子被官をは押離し申候。
《解説》『甲府市史』史料編第一巻「中世」
この年、都留郡河口湖近在の在地土豪小林尾張守貞親が、田に井戸を掘った。これが吉田衆という二十人ばかりの郷士と紛争になり、小林氏が小山田氏の奉行であったところから、吉田衆は小山田氏にその不当を訴えた。ところが何の道理も得られなかったので、甲府の武田晴信に直訴することになり、その結果、小林氏の被官は屋敷払いとなり、吉田衆の寄子は放免された。この部分は武田晴信の都留郡内支配の状況をみる格好の材料であり、谷村で解決しないものは甲府でといった気運が浸透していたことを物語るものである。
弘治 二年 1556【長野】
●三月十一日、武田晴信、水内郡静松寺住持に葛山衆の盟主落合一族を切り崩し、武田方へつかせた功を賞する。
●六月廿八日、武田晴信、大須賀久兵衛尉に、欠落(かけおち)した被官人を還住させ
る。
●八月二日、武田晴信、水科修理亮に、善光寺と甲府の行き来につき、一カ月馬二疋づつの諸役を命じる。
●初月八日、武田晴信、真田幸隆に東条氏の埴科郡雨飾城の攻略を促す。ついで幸隆、同城を落とす。
弘治 三年 1557【長野】《信虎-64歳・信玄-37歳・勝頼-12歳》
●一月廿日、長尾景虎、更級郡八幡宮に、武田晴信の討滅を祈願する。願文に晴信の信濃制服の暴虐を記す。
●二月十五日、武田の将馬場信房、長尾方落合氏らの本拠水内郡葛山城を攻略する。葛山衆の多くは武田方の属し存続する。
●二月十七日、武田晴信内応した高井郡山田左京亮に、本領同郡山田を安堵し、大熊郷を宛行う。
●二月廿一日、後奈良天皇伊那郡文永寺再興を山城醍醐寺理性院に令する。ついで文永寺厳詢、信濃に下り、武田晴信に文永寺再興を訴える。
●二月廿五日、武田晴信、越後軍の高井郡中野への移動を報じた原左京亮・木島出雲守に答え、城を固めさせる。ついで原・木島、越後軍の出陣を晴信に報じる。
●三月廿三日、武田軍、高梨政頼を飯山城に攻める。政頼、落城の危機をを訴え、長尾景虎政景にに救援を請う。この日景虎、越後長尾政景に出兵の決意を告げ出陣を促す。
●三月廿五日、甘利信州立。【王代】
●三月廿八日、武田晴信、水内郡飯縄権現の仁科千日に、同社支配を安堵し、武運長久を祈念させる。
●四月十三日、武田晴信、島津月下斎が水内郡鳥屋城から鬼無里を突くとの報の実否を長坂虎房らに調べさせる。
●四月廿一日、長尾景虎、善光寺に着陣、武田方の高井郡山田城・福島城などえお奪う。ついで旭山城を再興する。
●五月十日、長尾景虎、高井郡小菅山元隆寺に願文を奉納、武田晴信を信濃に引き出し決戦することを祈る。
●五月十三日、長尾景虎、香坂城を焼き、この日小県郡境の坂木岩鼻を破る。ついで晴信が出陣しないため飯山城に兵を返し、高井郡野沢の湯に市河藤若を攻める。
★山本勘助★
●六月廿三日、深志城の武田晴信、使番山本菅(勘)助を市河藤若に遣し、救援出陣を手配したと告げる。
●七月五日、武田軍、長尾方安曇郡小谷(おたり)城を攻め落とす。
●七月廿三日、武田晴信、大須賀久兵衛に、埴科郡坂木南条の地を宛行い、検使を派遣して所領を渡すと告げる。
●八月廿九日、長尾景虎、政景の軍、武田軍を水内郡上野原に破り、この日戦功を賞する。(第三回川中島合戦)
●十月九日、武田晴信、安曇郡千国谷に高札を掲げ、谷中の乱妨狼籍を禁止する。
●十月十六日、馬入。窪川孫二郎討死。【王代】
●此年、将軍足利義輝、長尾景虎上洛のため景虎、武田晴信の和睦をはかり、聖護院道澄を派遣する。
●此年、武田晴信、善光寺の仏像・仏具を小県郡彌津に移す。信濃善光寺とその門前町が寂れる。
●弘治年間、武田晴信、伊那郡に小野川・波合関所を設ける。この頃、清内路・帯川・心川関所も置く。
弘治 三年 1557【妙法】
○二月奉行方皆々御上候而、かなたこなたと御覧し候。其時小林市兵衛殿與二郎左衛門殿同左近殿悪口を被申候。去間谷村へ罷下候へは悉下吉田の百余人の道理に御捌候而地下衆被御帰候其年の十月堰道具に官林の松木ををり候へは一兵衛殿御出候而切物を取上人足を散々にたゝき被申候間下吉田百余人衆松山へおしかけ質物を取反し被申候。折節殿様の御意にて下吉田へ奉行人を御上せられ百余人衆と松山下の中なほし御座候。
○其年は十二月日てり候て芋悉やけかれ候。去程に其冬中暖気に御座候、此年悉く飢渇入る事無限。
《解説》『甲府市史』史料編第一巻「中世」
●前年の小林尾張守と吉田地下衆との水争いに続きで、この二月には奉行衆が来て現地
を視察したが、十月には吉田衆が河除堰を作るために宮林の松を切ったところ、小林方の役人がそれを取り上げ、その上暴力に及んだがので、吉田衆は百余人で松山の小林屋敷へ押しかけ、質物を略奪した。小林氏は信濃陣中の小山田氏へ訴えたが解決できなかたった。結局この時も晴信が裁断を下し、小林氏と吉田衆の争いを仲裁した。
この年の四月には晴信は川中島に出陣し、八月には長尾景虎と三回目の対戦をしている。小山田氏も晴信に従って川中島に出陣しており、小林方はその信濃陣中まで訴えに赴いている。
弘治 三年 1557【妙法】
★山本勘助★信州塩田に布陣の晴信が、水内郡市河に在城の市河藤若にあて、塩田城主飯富虎昌が川中島に進出する計画のあることを、山本菅(勘)助を使番として報じる。
(北海道、市河良一家文書)
弘治 三年 1557【甲府】
●弘治元年(1555)閏十月の甲越和睦は、その後の信濃侵略によって、有名無実とり、翌二年八月には春野望が景虎の家臣の大熊朝秀を内応させたことから、再び両者の関係は悪化した。この年の二月十五日、晴信は景虎の機先を制して川中島へ兵を送り、善光寺の南の葛山城を攻落させた。云々
●葛山城を攻落した後、武田軍は川中島一帯の長尾方の一掃を続行していた。景虎は雪の為に出陣することができず、晴信も三月十四日には、まだ甲府いた。そこへ川中島より注進状が届き、越国衆が出陣するのとの報に接し、自らも出馬すると伝えている。
●四月十八日、景虎が川中島に出陣し、晴信は決戦を避けて安曇郡小谷城を攻め、八月に入ってやっと両軍が川中島で対戦した。これを第三回川中島の戦いという。
《参考》川中島の戦い。『川中島五箇度合戦記』
第一回 天文廿二年八月(1553)
第二回 天文廿四年四月(1555) 百五十日間
第三回 弘治 三年 (1557)
第四回 永禄 四年九月(1561)
第五回 永禄 七年八月(1564)