武田三代年表 天文十八年(1549)~
高白=高白斎実記(甲陽日記) 栗原左兵衛 ……『甲斐資料集成7 歴史部』
妙法=妙法寺記 妙法寺住僧 ……『甲斐資料集成7 歴史部』
甲陽=甲陽軍艦
王代=王代記
長野=長野県史・年表
参考資料
武田=武田史料集 清水茂夫氏服部治則氏校註 昭和42年刊。
暦年=日本歴史年表 歴史学研究会編
山梨=図説 山梨県の歴史 磯貝正義氏著 河出書房新社刊。
武川=武川村誌、年表
小笠=小笠原文書
鎌倉=鎌倉大草紙
一蓮=一蓮寺文書 甲斐甲府
王代=王代記
甲斐=甲斐国志
高野=高野山文書 高野山引導院過去帳
勝山=勝山記
宝寿=宝寿至要旧記
御頭=諏訪神使御頭之日記
歴名=歴名士代
津金=信州津金文書
寛政=寛政重修諸家譜
塩山=塩山向岳禅庵小年代記
堀江=堀江文書
守矢=守矢文書
積翠=積翠寺文書
系図=武田系図
東大=保阪潤治旧蔵東大史料蔵本
北佐=北佐久郡志
高見=高見沢文書
富士=富士吉田市史
向岳=向岳寺文書
国玉=甲府市国玉神社文書
大善=大善寺文書
○= 地域周辺の事。
●= 武田家に関すること。
◎= 中央の出来事。
※= 武田家周辺の事。
天文十八年 1549【王代】《信虎-56歳・信玄-29歳・勝頼-4歳》
○居□岩清水上葺。
●晴信、四月十二日参宮。神馬一、本願也。
●十八年十月十一日、薬師堂前槻枯木ス。神火焼。卯時大雨降。枝焼落。伐タオスニ一社モ不損。
●天文十八年己酉八幡山薬師堂前槻大木神火。
●十月十一日、寅時出梢ヨリ枝悉焼落。俄に雨降。宮モ不損。巳刻ニ若宮舞殿ノ間ニ休ム。希代不思議也。高野山大塔勧進□澄上人六月廿五日当山来、同卅日府中帰。本願良
舜代也。
天文十八年 1549 正月【高白】
●正月朔日。八日、長坂方始て高島へ被移候。
●十三日、山本勘助、高島の鍬立。
天文十八年 1549 3月【高白】
●三月大。二日節。十四日土用。七百貫文の御朱印望月源三郎方へ被下候。真田渡す。
依田新左衛門請取。
●九日、芦田四郎左衛門、春日の城再興。
天文十八年 1549 4月【高白】
●四月小朔日。二日節。三日、依敵動春日落城、味方勝利。
●四月三日、武田軍、佐久郡春日城を攻めて破る。【長野】
天文十八年 1549 5月【高白】
※五月小朔日。四日節。七日、徳役始の御談合落着、相州・羽州・勢州三人連判。
●廿七日、望月新六致同心布引を出て、高白海野口迄帰る。
●廿八日、着府。
●廿九日、酉刻望月新六始て出仕。
天文十八年 1549 6月【高白】
●六月大朔日。伴野左衛門方始て出仕。
●五日節。望月左衛門佐方依忠信可為、望月の惣跡之由御判被下候。
○十七日、土用。
●廿七日、滅日大井信常も大井の名代に戊亥の刻落着。高白跡又致御使候。
天文十八年 1549 7月【高白】
●七月小朔日。四日、申刻被出御馬、跡部越中守、田屋御陣所。
○五日節。
●九日、高島に御着城。
天文十八年 1549 7月9日【長野】
●武田晴信、長坂虎房新築造の諏訪郡高島城に入る。ついで伊那郡箕輪城に着き、鍬立を行なう。
天文十八年 1549 7月【高白】
●十四日、辰刻、御人数を立させられ、
●翌十五日未刻向午方、箕輪の城御鍬。
天文十八年 1549 8月【高白】
●八月小朔日。五日寅刻、布引に忍入。
○七日節。
●十六日、従箕輪、各帰陣。
●廿三日、午刻、従長島御出馬。三原御陣所。
●廿六日、申刻、桜井山御着城、細雨。
●廿八日、辰刻、御井立放火。
●武田晴信、佐久郡桜井城に着く。ついで同郡平原城に放火する。佐久勢、武田氏に帰服する。【長野】
天文十八年 1549 9月【高白】
●九月大朔日。鷲林に御陣すゑらる。
●四日、平原の宿城放火。
●七日、平林出仕。
○八日節。
●九日、富(?高)白斎、坂本へ参る。
●十四日、一宮出羽守、坂本へ参る。従鷲林内山へ被納御馬。
●十七日、終夜富(?高)白斎致談合一書掛御目候。
●廿日、内山を御立、海野口迄御帰。
●廿一日、御帰府。
●晦日、穴山殿在同心、藤沢次郎参府。
天文十八年 1549 10月【高白】
○十月大朔日。九日節。
●面付並諸役の義に連判仕候。
●廿二日、和田孫五郎参上。
天文十八年 1549 11月【高白】
○霜月、小朔日。神林入道、高遠へ行。
●九日節。
天文十八年 1549 12月【高白】
●大朔日。七日大雪。十一日小寒。
●十二日、坂(?板)垣次郎方御前迎。
●十六日、伴野左衛太夫始て出仕。
●廿三日、馬場民部少輔事、高白を御奏者に相定候とて、五十疋持参、太刀進候。
●廿四日、来下諏訪へ被入御與候。
天文十九年 1550 1月【高白】《信虎-57歳・信玄-30歳・勝頼-5歳》
○正月朔日。
●十九日、駿府へ為御使者、高白参る。岩間に泊る。傳馬十疋。
●廿二日、酉刻、駿府へ着。
●廿三日、酉刻、義元御対面、戌刻御口上の段申渡す。
●廿七日、御振舞東林へ御脇差被下候。指刀進上作彦四郎にて候。
●廿九日、重て御振舞、於御数寄屋の座御茶・御酒・太刀被下栗毛・糟毛の馬進上。其後従駿府御使者、太刀並千疋被下、従御曹司様御使者、三浦内匠助へ御太刀、御馬被下
候。晦日に甲府を立、駿河へ帰る。
天文十九年 1550 1月【妙法】
○此年春銭をゑる事不及言説。
○六月より大雨降候而、水出候。七月、八月大雨・大風吹候。世間致餓死の事無限。
●此年、九月一日に信州戸石の雲戒を御のけ候とて、横田備中守を始とし、随分衆千人討死被成候。され共御大将は能引被食候。
●此あたりては小澤式部殿・渡辺邊州致打死候。遠くは国中皆捨候歎き言語道断無限。され共、信州の取合不止、此春小童共疱をやみ候而、皆々死事不及言説。下吉田計にて五十人計死申候。余りの事に書付申候。此年三月覚輪坊、常在寺へ御移申候程に庫裏御造り。
天文十九年 1550 2月【高白】《信虎-57歳・信玄-30歳・勝頼-5歳》
●二月小朔日。本須に泊まり、
●不知か酉刻致駿府御返事の趣披露仕候。義元興国寺御普請に御越候。
○十一日節。
○十三日、水上六郎兵衛、奏者高白仕候。得と上意の由三郎被仰候。
天文十九年 1550 3月【高白】
○三月大朔日。
●十三日、従西殿、御状被下。
●廿四日、斎藤宗雄着府。
天文十九年 1550 4月【高白】
○四月大朔日。
●廿一日、高島着。御使の旨、仁科上野介方に申渡す。
翌仁科道外に致対面用躰申談候。
天文十九年 1550 5月【高白】
○五月小朔日。
※四日、義晴公死。
※足利義晴、近江穴太で死去する。【長野】
○十五日、茶の木畠狐鳴。
●廿三日、屋形様御曹司様臺所に御出候時、源七と小六酔狂にて新三郎疵を蒙る。是を狐鳴候や。
天文十九年 1550 閏5月23日【長野】
●武田晴信、甲斐一宮に信府平定を祈願する。
天文十九年 1550 5月【高白】
●閏五月小朔日。向山又七郎墓仕立参る。
●九日、上様御呼兵、跡部越中守多屋迄被為出仕候。
●十五日、廿五日、辰刻出当府下山に迫る。
●廿七日、駿府に着、酉刻御前様へ参雪斎に逢、小笠原見所被成候由申觸候。
●廿九日、義元へ参る。
天文十九年 1550 5月【北佐】
●晴信、浅間神社に信府(信州松本)の掌握をを祈願し、小笠原長時と戦い破る。
天文十九年 1550 6月【高白】
●六月大朔日。於義元公御振舞。
●午刻、御前様御死去。申の刻朝比奈備中守・一ノ宮出羽守・高井兵庫助方より甲府高白宿へ申遣す使者。七ツ時出府江尻に泊る。
●十七日節。
●廿九日、義元公への御返事出候。
天文十九年 1550 7月【長野】
●七月二日、武田晴信、真田幸隆に小県郡諏訪形などを宛行うと約する。幸隆、川中島将士の招降を策する。
●七月十五日、武田晴信、筑摩郡村井城から府中に攻め入り、小笠原長時軍をイヌイ城に破る。林・深志・岡田・桐原・山家(やまべ)の諸城自落、島立・浅間城降伏する。
小笠原の将士多数武田方に寝返る。
●七月十九日、晴信、小笠原氏の本城林城を破却し、この日信濃計略の基地として深志城修築を始める。
天文十九年 1550 7月【高白】
●七月小朔日。三日 御出馬、若神子の御着。
●十日、屋形様村井へ御着城。
●十三日、孫五郎、未刻始て出陣、酉刻駒井へ着。
●十五日、御備場へすぐに参る。酉刻いぬるの城を攻敗り、勝鬨御執行、戌刻村井の城へ被納御馬、亥子の刻、大城・深志・岡田・田相・原山家五カ所の城自落取立、浅間降参、仁科道外出仕。十七日。
天文十九年 1550 7月【暦年】
●武田晴信、小笠原長時を信濃林城に破る。
天文十九年 1550 8月【高白】
●八月節。十九日、深志の城酉の刻、高白鍬立。戌刻鍬五具、屋形様深志へ御出。
●廿三日、惣普請。
●八月小朔日。二日春日意足同備前守誓句。
○二日、大洪水。
●五日、長坂出陣。
●十日、足軽衆備を立る。會田岩出陣、和田自落。
●十七日、落山出仕同誓句。
●十九日、□刻御立。戌亥の刻長窪へ御着。
●廿四日、砥石の城見積りに、今井藤左衛門・安田式部少輔同心申辰出て酉の刻に帰る。
●翌廿五日、砥石の城見積りに又大井上野助・横田備中守・原美濃守被指越、長窪の陣所の上に辰巳に出の方に黒雲の中に赤雲立、西の雲先なひく気にて、
●廿七日、辰刻長窪を御立、未刻海野口向の原へ御着陣、鹿、一陣の中を通る。
●廿八日、砥石の城際號星降地に御陣すゑらる。
●廿九日、午刻屋形様敵城のきわえ為、御見物御出て矢入始る。酉の刻赤黄の雲五尺ばかり立て虹ゐの如くして消る。
天文十九年 1550 8月【長野】
●八月廿七日、晴信、小県郡長窪をへて村上義清の属城同郡戸石城攻めに出陣する。
天文十九年 1550 9月【高白】
●九月朔日。申刻清野出仕。
●三日、砥石の城を御攻らる、敵味方の所陣に霧降りかゝる。未の刻晴る。
●十九日、須田新左衛門警句廿日。
天文十九年 1550 9月【暦年】
●武田晴信、村上義清の属城砥石を攻めて敗れる。
天文十九年 1550 9月【長野】
●九月九日、武田晴信、戸石城を総攻撃して敗退する。ゆいで村上義清、高梨政頼と宿年の対立を和解して連合する。清野・寺尾・須田氏らは晴信に内応する。
天文十九年 1550 10月【高白】
●十月節。廿三日、寅刻従清野方注進、高梨と坂木(本)和談於半途対面、昨日寺尾の城へ取かけらるゝの間、真田方は助として被越候。勝沼衆虎口を一騎合同終始存候。
●廿八日、雨宮と坂本は退出仕の由注進子刻
●廿九日、真田弾正帰陣晦日可被納御馬之談合。
●十月小。卯刻被入御馬、五跡衆終日戦ふ。酉刻敵敗北其夜、望月の古地御陣所終夜雨。
天文十九年 1550 10月小。【高白】
《信虎-57歳・晴信-30歳・勝頼-5歳》
●二日、峠を越えて諏訪へ被納御馬、酉刻湯川へ御着陣。
●三日、於、三原萬事を聞し召合せられ方々へ御状つかはさる。
●六日、三原を御立。
●七日、府中へ被納御馬従。
●九日、十一日迄敵動岩村田放火。
●廿日節。
●廿一日、義清長時平瀬へ被出の由候間中下條迄、廿三日に被出御馬候。
天文十九年 1550 10月【長野】
●十月一日、武田軍、戸石城から退却、村上勢の猛追をうけて死傷者多数を出し諏訪に逃げ帰る。
●十月、小笠原長時、村上義清の救援を得て安曇郡平瀬城に帰り、深志城奪還を計る。義清、武田晴信の出陣を聞いて兵を返し、長時は中塔城に籠もる。
天文十九年 1550 11月【高白】
●十一月大。一日、義清小室へ移る、
●十三日、野澤桜井山宿城放火。
●十四日、若神子迄御出馬。
●十五日、高白、海野口に陣取る。
●十九日、帰府。
●十一月十三日、村上義清、小諸へ進出、佐久郡桜井城などに放火する。ついで晴信、甲斐若神子出陣する。
天文十九年 1550 12月【高白】
○十二月大朔日。
●七日、太郎様御元服。
●九日、大蔵大夫能仕候。
●十四日、染(深)志へ為先手高白越す。越年。
●廿二日、立春。
天文十九年 1550【王代】
○本社同若宮棟取ナヲス。
天文二十年 1551【甲陽軍艦】《信虎-58歳・信玄-31歳・勝頼-6歳》
●天文二十年に、武田信濃守大膳太夫晴信発心なされ、法性院機山信玄と申。第一に武
田は新羅三郎公より、信玄公まで、二十七代にて、云々
●院号は法性院、道号は機山、諱は信玄、三十一歳の春、薙染にて、法性院機山と成給ふ。さてまた信玄の玄の字は、大唐にては、臨済義玄の玄也。日本にては、開山恵玄の玄の字を、付まいらせ候。是は都妙心寺派の、岐秀和尚がつけ給ふ。云々
●御家中の者の中でも望まれた人は、信玄公の御意向で法体となられた。原美濃守は清岩、小幡山城は日意、山本勘助は道鬼とこの三人である。
●同年二月廿八日、諏訪の郡代を板垣弥二郎から長坂長閑斎を任命した。
天文二十年 1551【妙法】
○此年、春中去年の餓死に人つまる事言語道断無申計。人の餓死する事無限。
蕨を二月よりそて五月までほり申候。大概蕨て物を作り申候。大麦廿分に能御座候へ共春のつまりが打続き候間、四盃にて六升賣申候。小麦三升十文つゝ賣買申候。此年迄も信州当国取合不止。八月朔日、御陣へ立申候。
●此年、正月廿四日に松山宿焼申候。刑部殿家は焼申候。
○此年、世中悪く御座候而尚世間つまる。
●此年、霜月信州小笠原にて平瀬雪戒を責落し玉ふ。去程に当所より彌三郎殿御被官衆番積陣立申候。
●此年、地下衆へ過料銭御懸候。中々地下衆難儀無申候。皆々所をあけ申候。
天文二十年 1551 正月【高白】
●正月大朔日。深志敵地へ動始る。
○廿三日節。
天文二十年 1551 2月【高白】
●二月小朔日。左馬介吉田御名字御祝儀御申候。
○十日、戌刻、下諏訪と穴山殿被致同心、再来の出仕。
○廿三日節。
天文二十年 1551 2月【北佐/浅間】
●晴信、浅間神社に神領を寄進し、社殿に修造を加えた。
天文二十年 1551 3月【高白】
○三月大朔日。
●十日、大井左衛門、内山へ近日移り可申之由、三意・安田・高白致御使候。
○廿五日節。
●廿七日、大井左衛門当府を出て内山へ行。
●廿八日、申刻着城。
●廿九日、三原伊賀守帰府。翌日出仕。
天文二十年 1551 4月【高白】
○四月小朔日。廿五日節。
●廿九日、屋形様御台所御柱立。
天文二十年 1551 5月【高白】
●廿六日節、砥石の城、真田乗取。
天文二十年 1551 5月【長野】
●武田の将真田幸隆、計策をめぐらし村上義清の小県郡戸石城を後略、本拠地真田を奪還する。
天文二十年 1551【甲陽】
●天文二十年の三月四月五月にかけて、信州伊那・木曾・松本へ進攻して、植田を荒らし、また八月九月十月までは、稲穂を刈り取る戦果を挙げた。
天文二十年 1551 6月【高白】
●六月小朔日。若神子迄出馬。栗原左衛門(高白)は桜井山へ越て上意趣を申渡す。
○十日、細雨。
天文二十年 1551 6月28日【長野】
●武田晴信、保科正俊に下伊那平定後恩賞の地を宛行うことを約し、参陣を誘う。
天文二十年 1551 7月【高白】
○七月、大朔日。
●二日、御出馬。
●廿日、岩尾弾正初て若神子迄出仕。
●七月廿日、佐久郡岩尾城岩尾行吉、武田晴信に降伏し、甲斐若神子におもむき晴信に出仕する。【長野】
●廿五日、先従、若神子被納御馬。
●廿六日、孫六御前迎に出て駿府着。未刻小田原の使者遠山方に御対面。 烏帽子落之由聞候。
●廿八日、節晦日。巳刻重て御出馬。
天文二十年 1551 8月【高白】
●八月小朔日。桜井山へ御着城。
●九日、天晴地震辰巳の刻より酉の刻迄。
●廿三日、御曹司様の西の御座立始む。
●廿八日、午刻未の方、岩尾の城の鍬立七五三岩村の鍬立申の刻向未の方、七五九栗原左衛(門)被仰付候て、相勤る。
●廿九日節。
天文二十年 1551 9月【高白】
○九月小朔日。十四日、岩村田の地下人普請始む。
●廿日、大井左衛門、内山を出て甲府に来る。三原伊賀守重ねて内山へ移り、替名字號、小山田備中守。
●廿二日、屋形様内山を御立。
●廿三日、御帰府。
天文二十年 1551 10月【高白】
○十月大朔日節。
○十四日、義清動丹生子被押落之由注進。
●十五日、未刻御出馬。
●廿日、深志へ御着。
●廿一日、ほりかね出仕。
●廿四日、平瀬を攻敗る敵二百四人被為討捕候。終日細雨。栗原左衛門、手にをいて、首十八討捕酉の刻より大雨。
●廿七日。小岩竹宿城放火。
●二十八日、午刻、巳の方に向て平瀬の城割、其上鍬立て。此後辰の刻被仰付候間、則
栗原左衛門まかりこし城わり其上鍬立を仕候。
天文二十年 1551 10月【長野】
●十月廿日、武田晴信、村上義清の安曇郡丹生子(にゅうのみ)城攻略を聞き甲府を出陣、この日筑摩郡深志城に入る。
●十月廿四日、武田晴信、安曇郡平瀬城を攻略する。ついで同城を鍬立てし、原虎胤を在城させる。
●十月廿七日、武田軍、安曇軍子岩嶽城を攻め、放火する。
天文二十年 1551 11月【高白】
○十一月小朔日。
●四日、辰の刻、駒走るを引寄つなぐ。
●十日、原美濃守、平瀬に在城被仰付。
●十七日、冬至、高島被納御馬。
●廿一日、御帰府。
●廿二日、飯富稻蔵、従坂木番手の衆、東条討捕。
天文二十年 1551 11月【高白】
○十一月大朔日。十一日、駿府の御曹司様御屋形移。
●廿四日、子の刻中島の代官呂泉に申付晦日。
天文二十年 1551【勝山】
●この年晴信が小山田信有とはかり、国中の民に過料銭を課す。
天文廿一年 1552【妙法】《信虎-59歳・信玄-32歳・勝頼-7歳》
●此年、正月廿三日、小山田出羽守殿死去。
●同廿五日、申刻葬送御供人衆一万人に而送り被食候次法華宗郡内一番の御弔被成候。
○此年、正月、風も不吹暖に御座候。
天文廿一年 1552【王代】
●一謁経晴信御代官原大隅□□□(□?)
天文廿一年 1552 1月【高白】
○正月朔日。
●四日、栗原左衛門、出仕。
●八日、未刻、亥の方、太郎様御具足召始。
●廿三日、諏訪氏於高遠。
●廿五日、当府へ出仕。
●廿七日、諏訪氏生害。
●廿七日、武田晴信、高遠諏訪頼継を甲府で自刃させる。
天文廿一年 1552 2月【高白】(初めて「信玄」)
○二月小朔日。駿府へ御使者をつかはさる。
●二日、駿府へ着、小林所宿、穴山殿旅宿へ参る。一出高兵致相談、義元へ披露。
●三日、従一出御誓句之案文請取、翌日以飛脚、甲府へ進上仕候。五日節。
●六日、午の刻義元へ致出仕。
●九日、信州時田にをいて長尾景虎・長尾正景と合戦。武田御勝利。於栗原左衛門、
手首十七。討捕然共深手三カ所負、養生不相叶。四月廿三日死す。嫡子左近進二百騎の
騎馬を辞し、其旨申上る。信玄曾て免したまはず然れども達て願候に付無是非、百騎取上給ひて、百騎は元の如く預けたまふ。
天文廿一年 1552 2月【王代】
●天文廿年二月六日、大□寺当山自屋形様□□(□?)
天文廿一年 1552 3月【甲陽】
●三月、景虎は地蔵峠を越えかね、姉聟の義景(政景)が三千の兵力を備えたのを後に残して、早々景虎は八千の軍を進め、そこで義景へ使いを出した。一戦を交わしたら一度退かれよというのである。義景は怒って、若い者の教えられるには及ばぬと言いつつ後退したところを、甲州方の侍大将、飯富兵部・小山田備中、郡内の小山田左兵衛・真田一徳斎・芦田下野(信守)・栗原左衛門佐といった勢力が、義景を食い止める。義景は地蔵峠へさしかかるふりをして、三千の軍勢を一つにして大返しという戦略で一戦をはじめる。甲州勢に対し、追い立て切り崩し、競いかかって討ち取り小山田古備中討死にする。これをみて、御旗本先陣の甘利左衛門尉・馬場民部・内藤修理の三軍で追い返し、越後の義景勢を悉く討ち取る。(略)これを信州常田合戦(小県郡)という。討ち死に、甲州方三百七十一人、越後衆七百十三人。
●栗原左兵衛佐(昌清)を常田合戦で深い傷を負い、四十五日間生きて死んだ。
天文廿一年 1552 4月【高白】
○四月小朔日。義元への御誓句一出に御渡し候間、翌日定林院坂本へ被越候。
●六日節。八日一出に来る。十一月必甲府へ御輿入へき御書一出請取甲府へ帰る。
●廿七日、未刻、太郎様御屋移り。
天文廿一年 1552 5月【高白】
○五月小朔日。
●六日、御連歌、御発句、屋形様。御北様御逝去。
●九日、晩より御吊あり。恵林寺へ。
●十四日、御荼毘。十五日、御焼香。栗原左兵衛始む。次に大井其外段々終に御被官には小山田始む。終は飯富兵部少輔。
天文廿一年 1552 6月【高白】
○六月大朔日。
※六日、教来石又七郎、土屋名跡に被立。
●八日節。熊野井の城鍬立。
※九日、土屋又七郎出仕、名跡の御判被下。
●廿一日、御司様の対の屋御棟上げ。
●廿七日、別保の本屋敷被下候門と家は長寶寺致所望に付被遣候、廿七日迎え小岩竹上様御門出。
天文廿一年 1552 7月【妙法】
○此年、七月、御本寺より御大事を越申候。去程に談義被成候而、其上御本番を懸申候。信心に男女出家賽銭を薙候。中々言説不及候。悉く壁を打破申候。去程皆感泪を流し候。其上若き出家衆十六人に坊號を授候。後代には有間鋪候間書付候。
天文廿一年 1552【妙法】
●此年、信州御動候。小岩兵部、雲戒を責落し被食候。打取首五百余人、足弱取事数を不知。
●此年、吉田友屋につけ塚の宮内左衛門殿屋形御蔵を被立作、去程に当寺の御本番を此年菊月八日造り申候。本願は本行坊日祐取立申候。同じく鬼子母神をも造申候。
○此年、彌八方友屋に家を廿四坪に作り被申候。
○此年、草生は廿分に越申候か風不吹おくては能御座候而、作毛に不入實候。
天文廿一年 1552 8月【高白】
●八月大朔日。午刻御出馬。昼より細雨、夕方晴る。府中の新屋敷の材木為取始。
●十二日、小岩竹攻城主生害。
●十四日、冠落己刻、高白出陣。
●十五日、未刻府中の屋敷の鍬立並慈眼寺の酉の造作。
●十六日、深志に泊まる。
●十七日、辰刻、平瀬御陣へ参る。
●十九日、深志へ被納御馬。
●廿五日、府中へ被納御馬、
●廿七日、府中の新屋敷の地形屏普請始。
天文廿一年 1552 8月【長野】
●八月十二日、武田晴信、安曇郡子岩嶽城を攻め落とす。小笠原旧領の安曇・筑摩両郡ほぼ武田支配下に入る。
天文廿一年 1552 9月【高白】
○九月小朔日。
○三日、南門石敷同座敷の石敷。
●十四日、酉刻、南の大門建同座敷表の柱一本立始、東門建。
●十六日、土蔵建上たんの間の柱立、厩の柱一本立。西保衆帰し候。
●十九日、土蔵の雨屋立同面の座の棟上御上座の棟上。
●廿二日、入土用。
●廿八日、天赦日大門の棟樋渡す。
天文廿一年 1552 10月【高白】
○十月、小朔日。
●十二日、釜ぬり始。
●十五日、天赦日府中の新屋敷へ各移る。
天文廿一年 1552 10月【高見】
●武田晴信、某に甲府より諏訪への道路橋梁を改修させる。
…従甲府諏方郡へ之路次之事、致勧進可作之、同難何方之山、剪木可懸橋者也、
仍如件。…
天文廿一年 1552 11月【高白】
○大朔日、十三日節。
○十六日、宿の夜廻の番帳始て来る。
●十九日、御輿の迎に出府、当国衆駿河へ行。
●廿二日、御新造様駿府を御出、興津に御泊り。
●廿三日、うつふさ。
●廿四日、南部。
●廿五日、下山。
●廿六日、西郡。
●廿七日、酉戌の刻、府中穴山宿へ御着。子丑の刻、御新造へ御移り。
●廿八日、冬至、三浦出仕。御対面。
●廿九日、高井三浦方へ宿え禮につかはさる。
天文廿一年 1552 11月【妙法】
●此年、霜月廿七日、駿河義元御息女様を甲州晴信様御嫡武田大吉殿様の御前になほし被食候。去程に甲州一家国人のきほひ不及言説候。武田殿の人数には更に熨斗付八百五十僕義光(元)殿人数は五十僕御座候。輿十二挺、長持廿から女房衆の乗鞍馬百疋御座候。両国喜大慶は後代有間敷候。其内にも小山田彌三郎一国に而御勝れ候。
天文廿一年 1552 11月27日【長野】
●武田晴信の子義信、今川義元の娘を娶る。
天文廿一年 1552 12月【高白】
○十二月、小朔日。御能楽屋の刷麺子。高井方呼。
●六日、三浦帰府。
○十三日、子寒。
●十四日、高井帰府。野村兵部介、西保諸役の義御免上候御納得。
●廿五日、土用西保の諸役御免を破り、萩原すとう質物を取候間、御小人藤四郎申請左
衛門五郎指副質物取返候。
○廿九日、大寒。
天文廿二年 1553【甲陽軍艦】《信虎-60歳・信玄-33歳・勝頼-8歳》
●晴信、小笠原長時を桔梗ケ原に撃破。
●天文二十二年五月六日、信州桔梗ケ原において、小笠原長時衆、三千余騎出て合戦あ
り。信玄公の侍大将衆に、甘利左衛門尉、飯富三郎兵衛、馬場民部、春日弾正、内藤修理、此五頭を以て、御旗本は未だ塩尻峠を越し給ふ時分、巳の刻に一戦をはじめ、然も勝利を得、、敵をうちとる其数六百七十九、雑兵共に頸を取る。
●次の日七日に長時、四千五百の着到にて、家中をはらって出合戦あり。五月七日卯の刻に、合戦はじまり、同巳の刻におはる。甘利左衛門尉侍大将の内に、抜出たる働きは小笠原長時、旗本へきって、かゝり伐くづし、此合戦、信玄勝利を得給ひ、敵を討取り其数、雑兵共に千四百九十三の頸帳を以て、同午の時に、勝鬨を執行ひ同十日に深志へ取つめ、長時とあつかひ有て、小笠原長時、降参の故、誓紙を取かはし、城を渡し長時牢人也。云々(品三十一)
天文廿二年 1553【王代】
○□□□□雑作。鳥居 地蔵以上意□取。同町屋上河窪。
天文廿二年 1553【妙法】
○此年世中廿分売買何も安し。
天文廿二年 1553 1月【高白】
○正月朔日。
●十五日、立春。穴山彦六郎屋所へ移徒として来る。
●十七日、従小田原使者に御対の時小山田、宮川ばかり烏帽子着樋申候。
●廿日、従氏康の御状並紬十端、彦六郎方へ給候。宮川将監、自面之樽二百疋、太刀一腰持参返礼にきまうろく一まき持行。
天文廿二年 1553【北佐】
●長時は越後に残り上杉景虎を頼った。晴信は更に東北信濃の雄村上義清と戦い、天文二十二年、小県郡塩田の要害に依っていた義清はついに敗れて越後の上杉氏のもとに亡
命し、井上昌水満・須田満国・島津昔忠・栗田永寿・高梨政頼の北信の諸豪族も晴信に破られた。
●この時、義清を救おうとして上杉景虎(謙信)が信濃に兵を出し、更級郡布施の地で
武田勢と戦ったのが川中島戦争の第一回であった。
天文廿二年 1553 閏正月【高白】
○閏正月小朔日。
●十一日、鮎川藤五郎に石森被下同心仕候得候由上意。
○十五日節。
●十八日、諏訪方之御渡し、冬春二度之御渡前後始のよし各申候。
●廿四日、仁科造作始めて出仕。
天文廿二年 1553 正月29日【長野】
●武田晴信・義信父子、戸石城再興のためと称し信濃出兵を計り、内山城代小山田昌辰(まさとき)に告げる。ついで晴信・子義信・弟信繁を伴い筑摩郡へ出陣する。
天文廿二年 1553 2月【高白】
●二月十五日。鮎川藤五郎に石森の御印形跡次ぎ高白方え被下候。
●六日、岩殿の橋かゝる太刀一腰酒一具並三十疋遣候。
●九日、積翠寺入院。午刻本尊客殿へ入佛。
●十三日、依田大和守方中丸子下丸子如先々不可在相違候。藤澤はげ山、塩川合て仁百
貫文の替地者何方成共可被遣之由御判被下候。
●廿一日、戌刻来るの年、小田原へ可被入御輿之由、春信公よりの御誓句従氏康之御誓句は去る正月十七日に来る。
●廿四日、積翠寺授割始並田畠山等の義は山本孫右衛門渡す。晦日
天文廿二年 1553 3月【高白】
●三月六日、小松・和田・塚原・岩窪・駒井の郷の人足押立、公事等の儀御免の御印形被下候。
●十七日節。従小田原南条着府。栗原左兵衛方へ太刀一腰並千疋被遣候。
●十八日、於曾源八郎、深志へ越て二度無帰府候。
●廿三日、午未の刻向丑方御出馬。
●廿九日、辰刻深志を御立、午刻苅屋原へ御着陣晦日、城の近辺被放火。
天文廿二年 1553 4月【高白】
●四月小朔日。午刻苅屋原の城被攻落、城主長門守生捕。酉刻に晴時塔原の城自落。
●三日、會田虚空像蔵山まで放火。苅屋原の敵城を割。酉の刻向寅の方、御鍬立、栗原左兵衛相勤る。七五三。
●六日、御先衆十二頭被為立候。昨日屋代方塩崎方致同心、桑原の地無□の由御注進。
●八(日)、苅屋原城主、今福石見守被仰付御使典きうと栗原左兵衛。
●九日、辰刻、葛尾自落の由、申の刻注進屋代・塩崎出仕。
●九日、武田晴信、屋代政国・塩崎氏らを味方につけ、村上義清を埴科郡葛尾城を攻撃する。この日同城、自落し、義清は越後の長尾景虎を頼る。【長野】
●十日、石川方え使に朝見越前守来る。
●十二日、典厩致御判葛尾使に参る。上意の旨長馬に越秋善に申渡す。
●十五日、巳刻、苅屋原御立。青柳へ御着陣泊る。石川出仕。大津賀久兵衛御目にかけ候。
●十六日、高坂(弾正)出仕。
●十七日節。典厩青柳の城御鍬。
●十八日、汲日室賀出仕。
●廿二日、御人数八頭八幡の筋へ御立候。敵五千ばかり打向の由。
●廿二日、長尾景虎、村上義清をはじめ高梨・井上・島津・須田・栗田氏らの支援に出陣、葛尾城を奪回し、この日麻績から進軍した武田晴信軍を更級郡八幡で破り、諸氏旧領を回復する。(第一回川中島合戦)【長野】
●廿三日、葛尾在城の御味方衆於曽源八郎方討死。
●廿四日、辰刻御馬苅屋原へ被納、晩より大雨。
●廿五日、大日方入進御代方へ被参某陣所に泊る。麻績・青柳・大岡の儀談合。
天文廿二年 1553 4月【暦年】
●村上義清、武田晴信に敗れて長尾景虎を頼る。
天文廿二年 1553 5月【高白】
●五月代朔日。上様、深志御出麻績の儀落着由従、大岡屋代方書状に候。
●二日、小田原鍬九先御加勢御無用の由手紙を遣候。
●五日、塔原の城、破却。
●七日、海下方へ苅屋原の地被為借候。其上申郷極きをきつて、城きわ二百貫ばかりの地進上仕候由、海下被申候依之新村へ参百貫會田本意の間と御判形に被遊候。得と被仰出候。今福迷惑之由新候。海下を深志へ相恨致意見三百貫致落着候。新村三百貫は永く海下に被下候由、御判被出候。
●十一日、戌刻御着府雨従御新造様、御樽二ツ、御肴両種被遣候。
天文廿二年 1553 6月【高白】
○六月小朔日。
●廿一日、動の談合向塩田被仰定。清野左近太夫・長野刑部両人に信の一字被下。
天文廿二年 1553 6月【妙法】
●六月導者富士へ参詣多事不及言説。去程代つかひ能御座候事近年無之候。
●此年、信州村上殿は月塩田の要害を引のけ行方不知なり候。一日に内に要害十六落候。分捕高名足弱いけ取申候事、後代に有間敷候。
○日照る事、五月より八九月迄照候而、水皆ひ申候。此方の冬水ちがひ申候。去程に大麦違ひ申候。去とも売買壹斗、小麦四升、賣申候。
○此年出家禰宜衆、地下衆主持不申候。過料銭を懸候而、皆々なけき申候事不及言説。
天文廿二年 1553 7月【高白】
○七月大朔日。
●廿三日、従京都、太郎様え御一字被下候。御使者参る。酉の刻御対面。
●廿五日、午刻、府中を御立、若神子へ御着陣。
●廿六日、海野口某(高白)は帰陣。
●廿八日、内山へ御着城。望月古城御陣所。
●七月廿五日、村上義清、塩田城に入る。この日武田晴信、甲斐若神子に出陣、ついで佐久郡内山城に入る。【長野】
天文廿二年 1553 8月【武川】
●八月廿日、晴信の嫡男太郎が将軍義晴より片諱の義を賜り、義信とする。
天文廿二年 1553 8月【高白】
●八月朔日、長窪へ被居御陣。和田の城被為攻め城主其外悉く被為討取。
●武田晴信、小県郡和田城を攻め落とす。【長野】
●三日、高鳥屋へ登見物。
●四日、高鳥屋籠城の衆、悉く被討取、同田村落居。申刻勝利。
●五日、向塩田、御動地の城自落。本城に被立御旗。
天文廿二年 1553 8月【長野】
●八月五日、武田晴信、塩田城を攻略、飯富虎昌を同城の城将とする。村上義清、逃れてまた長尾景虎を頼る。
●
天文廿二年 1553 8月【高白】
●七日、戌刻飯富当塩田城主の御請被申滅日。
●八日、本城へ飯富被罷登候。
●十日、真田子在府に付ては秋和三百五十貫の地真田方へ被遣小備仕候。
●十一日、室賀、同小泉へ所帯の御判形被下候。小泉の城破却、御祝着の由被仰出候。
●十二日、内村五百貫被下候由大宮山形へ。
●十五日、やきさは(八木沢)三百貫。福田百貫の事は証人難有申所、此以前浦那方に被下候。此御使跡次仕候。
●十六日、庄内の中千貫彌津へ被進御判形、福井四百貫。壽量軒に被下候根津宮内方へ三条被下の御判形渡し候。
●廿八日、長筑跡伊等河香坂へ出仕。
●晦日、飯富、室賀の本城へ移る。
天文廿二年 1553 8月【暦年】
●長尾景虎、武田晴信と信濃川中島で戦う。
*八月中下旬、信州川中島の布施の地で甲越両軍が戦う(第一次川中島合戦)
天文廿二年 1553 9月【長野】
●九月一日、
天文廿二年 1553 9月【高白】
●九月小朔日。麻積小四郎方へ来国光之刀被遣候。栗原左兵衛方へ、信国の刀被下候越後衆動八幡破れ、新砥自落。
●三日、土用、青柳を敵放火。
●四日、山宮と飯富左京と苅屋原へ越候會出の虚空像落居。晴信公御吉凶天祐之裸(?)大吉。敵景虎吉凶無明裸大凶。向尾州義元御出馬。
●五日、栗原・大井・下曾根・下条・今福・両角、深志へ帰城。
●八日、松本の郷二百貫の御印判曲尾越前守に被下、十三夜尾見新戸忍焼敵の首四拾討捕敵首七ツ室賀方被討捕候。翌朝各に御褒美被下候。
●十四日、晴信公御吉凶天祐の裸大吉、敵の吉凶無明裸大凶。
●十五日、新国御注進、敵夜中に除の由申来る。
●十六日、窪村源左衛門高名、敵に内匠彌津治部少輔・奥村大蔵少輔討捕並景虎書状三通大集取来塩田御陣下へ参候。間為御褒美則源左衛門へ依此忠節百貫地被下候。
●十七日、余部左京方へ長塚の討ち十二貫文の分夫銭並棟別家一御免之御印判被下候。
●十八日、敵動かゝる。南条放火依之中途に被出御馬。
●廿日、越後衆退之由巳刻申来る。
●廿八日、小幡父子出仕。
天文廿二年 1553 10月【高白】
○十月大朔日。
●三日、高坂香監参陣。
●五日、長筑岡源五郎真田息女縁嫁並び長筑彦十郎・高木入道是も尤之由。戌亥刻上意之旨高白所へ御直筆被下候。
●七日、辰刻塩田御立深志へ、酉の刻御着城。
●十五日、大日方惣次郎へ信の一字を被下候。
●十六日、高崎辺迄御帰陣。
●十七日、御帰府。
○廿三日節。
●廿七日、今井次郎左衛門他国へ。
天文廿二年 1553 11月【高白】
○十一月小朔日。
●廿一日、十五俵虎岡土佐守・五味次郎左衛門・山本孫左衛門・呂泉長谷部右近之丞三十五人預置利倍従長寶寺、酒五献。
天文廿二年 1553 12月【高白】
●十二月朔日。御沙汰の奉行衆十三人日限は三日。十三日・廿三日の定。
●六日、長筑宿所へ屋形様始て御出同御曹司様へ申立候。岡源五郎方へ御一字被申請候。
○七日土用。
●十九日、午未の刻、義信御名乗の開の御祝儀中の間座敷建。
○廿五日、立春。
天文二十二年 栗原左兵衛
先祖従栗原式部太輔、同左衛門、同左兵衛迄、五十年之日記成
延享二年(1745) 柴田仲中介
明治四十五年(1912) 山下有隣 書
《筆註》天文二十二年で『高白斎記』(『甲陽日記』)は終了する。
天文廿二年 1554【王代】
○鐘籠造作上葺、西浄作庫院造。
天文廿三年 1554【王代】《信虎-61歳・信玄-34歳・勝頼-9歳》
○庁屋材木取。卯年立。
天文廿三年 1554【妙法】
○此年、正月雪水富(士)山より出申候事正二三月迄十一度出申候。余り不思議さに書付け申候。世間富貴成事先代に無御座候。
○六月導者は無御座候。銭をえり申候事先代未聞無御座候。賣買は安く候へ共、銭飢渇にて候。
○此年の艸生三十年以来無御座候。人々なやみ申候無限。腹を煩候而、大概死去申候。
●此年、七月駿河の屋形様へ相州屋形様の御息女様をむかひ申候。御共人数きらめき色持道具、我々の器量程被成候。去程に見物先代未聞御座有間敷候。請取渡は三島で御座
候。日の照申候事不及言説余り不思議さに書付申候。
●此末七月廿四日武田晴信様信州へ御馬出候。夫より雨降不申事無限大原海大概ひ申
候。
○三年続て照候間け様に申候。賣買米四升、小豆五升、大豆六升、大麦二斗、小麦四升秋世中未見候。草生は天下一にて候。
●此年八月六日に佐久郡要害一夜に九つ落申候。
天文廿三年 1554 9月15日【長野】
●八月十五日、武田軍、神之峰城に知久頼元を猛攻して攻略、頼元父子を捕える。この日文永寺はじめ知久郷に放火する。ついで吉岡城下条氏ら、晴信に降る。
天文廿三年 1553 9月26日【長野】
●九月二十六日、武田晴信、大日方主税助に、伊那・佐久平定により北条氏康との祝言後明春奥郡へ出馬と告げる。
天文廿三年 1554【妙法】
●此年、御曹司様始而、御馬を信州へ出し、被食候而、思ふ程切勝被成候。
●此年、小室自ら落申候とて内山の人数をおしつけに乗り候而、三百計打取。
●去程に上意様大慶満足被成候事無限。去程に小暮殿も笠殿も競ひ御出仕被成候。
○此年、八月十三日夜亥尅より丑の時迄大風吹候而十分の世中一切みな無御座候。家を
皆たをし人馬を皆打殺し申候。吉田は千軒の在所に直くなる家一も無御座候。大竹屋の打室を打殺し申候。同子も死申候。
○此年、那智が津下浅間鳥居ころひ申候。
○此年、河尻まるひ取申候而、森の下へ水を流し申候。
●此年、十月に信濃の知久殿親子に一人以上八人大原の島へ流され玉ふ。大原地下衆三
人番にて守り申候。
○此年、冬雪不降路次一段能御座候。此年、余り暖気に候而、芋生申候事無限。皆穴より取出し候而、一両日さまし申候而、又穴へ取入候。
●此年極月、武田晴信様の御息女様を、相州氏康の御息新九郎殿の御前の被成候。去程に甲州一家国人色々様々のきらめき或は熨斗付或はかひらけ或はかた熨斗付或は金覆輪鞍輿は十二挺氷岐女の役は小山田三郎殿被成候。御供の牙甲州より三千騎、人数は一萬人、長持四挺二挺請取渡は上野原にて御座候。相州より御迎には遠山殿・桑原殿・松山殿是も五千計にて罷越候。去程甲州人数は皆悉小田原にて越年被食候。小山田彌三郎殿の御内には小林尾張守殿氏康の御座へ参候。加様成儀は末代有間敷候間書付申候。
○此年迄信州和久殿は大原の島に御座候。