Quantcast
Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
Viewing all articles
Browse latest Browse all 3088

甲斐に流された後陽成帝の皇子 

$
0
0

甲斐に流された後陽成帝の皇子

資料『街道物語16 甲州街道』三昧社 ほか

門跡と島原遊女の恋

第百七代後陽成天皇の第八皇子に生まれ、京都智恩院の門跡となった二品宮長純親王くらい、自由に生きられた皇族はめずらしい。京で浮名を流し、ために甲府に配流されたのであった。

門跡の栄誉を投げ打って

 この宮を俗に「八の宮」と申し上げる。後陽成天皇第八皇子という意味だが、四歳のとき、浄土宗総本山智恩院に入れられ、元和元年(一六一五)二十歳で家康の猶子(養子)となって、門跡領一千四十五石を領した。
 浄土宗は家康の保護をうけ、江戸上野に建てた寛永寺が徳川家の廟となってからは、両寺の門跡は皇族から迎えることになっていた。家康の対朝廷政策の一つだが、当の門跡になった宮家の中には、その捨扶持扱いを不満とし、幕府につよい不満を持つ方も少なくはなかったが、八の宮のようにそのあらわれが遊興、しかも遊女相手にはしったというのは例がない。
 最初に八の宮の目にとまったのは、紀州生まれの阿海(おうみ)という女であった。育ちがよかっただけに、宮は下賤の無学文盲、あるいは肉体だけといってよいこの遊女に、自分自身盲目となって通いつめ、いつしか一千余石の収入でも賄いきれないほど入れあげてしまった。
 地に堕ちたりといえども、かたやれっきとした天朝様の御子であり、かたや九州の海辺育ちの養女とは、どう見ても釣り合いがとれないが、そのあたりに恋路の不思議さがある。端の目にどう映ろうと、宮はほとんど寺院に姿をとどめていなかった。
 そうしたことは、すぐ京童の噂にのぼり、関係者の眉をひそめさせたが、宮の遊びは一向に収まるどころか、つぎには近頃評判の立ちはじめた、島原の太夫三芳野に心移りがしたのである。なお拙いことに、阿海とちがって三芳野は、武家の出だけに教養がある。それも生噛りのものではない。しつかり素養を積んだ、確かなものであった。
 宮もまた、将来なんの希望も持てない境涯も手伝って、文学、とくに歌道にすぐれた才能をお持ちだった。宮の興味が、ただ遊興だけのものから、心をともなった遊女へと移ったのは自然であった。宮は三芳野に言い寄った。だが天下の島原で太夫を張るほどの三芳野には、彼女なりの立場がある。このころの遊里の仁義では、馴染み遊女が明らかになっている殿御とは交わらない。
とはいうものの三芳野の心も乱れた。いまさら相手の身分格式に傾く島原の太夫ではなかったが、皇室、智恩院御門跡という高貴の血をさし引いても、宮のもつ歌才、人となりはそれまで三芳野の知らなかった、心を酔わせるに充分なものがあったのである。
 相寄る魂という言葉のとおり、二人はいつか人目を忍ぶ仲になっていた。

甲斐国へ配流、そして脱走

 その噂を耳にして穏やかではないのが阿海である。恋に破れたと冷静に事態をうけとめる知性もない女なのであろうことか、宮と三芳野の語らいの場に乗り込み、恨みの限りをぶちまけたのである。
 騒ぎは町中に広まったが、相手が宮家とあっては町方も手が出せず、ついに京都所司代板倉周防守宗重が自身出馬し、やっとその場は静めたが、ここまで事を大きくしてしまっては、もう取繕うすべはない。いままでの行跡が行跡だし、幕府は思いきった処分に出た。領地没収の上、甲斐の秋元越中守方へ配流と処断された。
 寛永二十年(一六四三)十一月、宮は天目山に幽閉されたが、たっての望みで甲府の湯村への転居が許された。
 都育ちの宮にとって甲斐はあまりにも辺境の地であった。
 流されてすぐ迎えた冬は、とくに宮の身心をさいなんだにちがいない。そうした現実が厳しいだけに、宮の心は日ましに三芳野の上を彷徨うのであった。
 その三芳野はいま、一時町方預けになっていた身を解かれ、ふたたび島原に戻ったものの、心はまだ見たこともない甲斐国に飛んでいた。
 やがて百里をへだてた二人の上に、三年の歳月が流れていた。
 宮の日常は、湯村からさらに北に入った、武田信玄にゆかりの積翠寺に近い輿円寺に移されていた。
 山国甲斐では、都で演じたほどのご乱行もあるまいとみてか、宮を預かる秋元家も、形ばかりの監視はつけているものの、その行動は比較的自由であり、富もまた、湯村では近在の身分を選ばれた者にだけ、歌の道などを指導し、ともすれば、三芳野への思いを断ち切ったかに見えるほどであった。
 だがふたたび宮の心が煩悩に悶える日がきたのである。それは、宮を慕う一人の村娘の出現であった。娘は山国の乙女らしく、明るく美しく、その上名のある家の子女とあって、三芳野とまではいかないが、宮の会話にうなずくだけの教養もあった。
 宮の心に、三芳野の面影が鮮烈によみがえったのは、この娘を知ってからであった。その心の動きが通じたかのように、ある日、三芳野の便りが宮のもとに届けられた。
 宮の心は躍った。若さが身心に充実した。宮は参籠と称し、京へ向けて道をたどった。
 三芳野との再会に宮は酔った。三芳野もまたひとりの女性にかえって宮をとらえて離そうとはしない。それは宮に真の生きがいをあたえる喜びではあったが、状況は門跡時代のそれとはまったくちがうのである。いまの宮の行動は、公儀の提を破るものであり、危険ですらあった。
 幕府は怒った。その怒りはまず、流配人を甘やかした秋元家を叱責する形であらわれ、ついで宮自身に対しては、幕府の前にすっかり面目を失った秋元越中守のそれまででは想像できなかった強硬な態度となってふりそそいだ。
 宮は、秋元家から派遣された使者、とは名ばかり、そのじつ逮捕のための役人にともなわれ、差しまわしの駕籠に押し込められてふたたび甲斐に連れ戻された。形こそちがえ、意味は公儀犯罪人の押送そのものであった。
 宮を司直の手に奪われた三芳野は、その罪のすべてはわが身にある、と自害して果てた。
 
 

《良純法親王と和歌》

(古代から近世の文芸『武川村誌』一部加筆)
 
良純親王は父御陽成天皇の第八皇子、母は典侍具子といい、庭田大納言源重貞の女である。
慶長八年十二月十七日の御生まれで八の官と称された方である。仏門に入られてから法親王と称した。京都知恩院の初代門跡になられた。その後知恩院門跡は七人の天皇の皇子が継がれたが今は廃されている。
親王は母より小さい暗から深遠の教義を究めさせられ、識見も高き仏教篤信の父と、兄君を持たれたため、自らの修養深く学徳兼ね備った御方であったことは、窺い知り得るのである。
親王が知恩院の門主でありながらどうして甲斐の山里に謫居しなければならなかったのであろうか、当初は天目山に遷居なされ、寛永二十年十一月、さらに志摩の庄湯村の里に御遷りなった。湯村の御居所は、明治温泉側の天神を祀ってあるところが仮屋址である。此処から相川村積翠寺興国寺内に御遷りなって、十三か年の久しい歳月侘びしく過ごされ、時には詠歌に思いを遣っておられたが、懐京の情に堪えずして、
 鳴けばきく きけば都の恋しさに この里過ぎよ 山ほとゝぎす
 
 なけばきく きけば昔のなつかしき 此里過ぎよ 山ほととぎす
この歌については、参考資料として末尾に下記に掲げてある。
近世宮門跡の文事 ─知恩院宮良純法親王を中心に
文化科学研究科・日本文学研究専攻 大内瑞恵氏著
とうたわれたので、爾来、この地にでは郭公が鳴かないようになったと伝えられている。
山高の高龍寺にも御来遊になり
 昔思ふ草の魔の夜の雨になみだなそへそ山時鳥
この和歌は高龍寺(武川町山高)に所蔵されている御染筆で藤原俊成の和歌を書かれたものであるという、沈痛な親王の心境をよく代弁している。
積翠寺に残る親王の和歌を次に記す。
  多年翫梅
 色も香も いつしか春の永き日に いくとせ見はや 梅のさかりを
  聞鶯
 馴てしる をのがやとりとうぐいすの あかすもきな く軒のくれ竹
  我願既満
 伝きて さらに心もたのもしな ねがひにかなふ 法のしるしを
なお高龍寺には親王の乗って来られた馬のくらと「天神地祇八百萬神」の御真筆が伝わっている。
また石原常山が書いた「鳳凰梅碑」と題する幅によると、親王の御手植えの梅が枝葉繁茂し芬香(こうばしい)異他であるといっている。
親王は万治二年六月勅勘が解けて目出度く御帰洛が叶ったとき、
 降る雪も 此山里は心せよ 竹の園生の またたわむ世に
と詠じた歌が上聞に達し、勅免があって京都に還られたともいわれている。 
【参考資料】
 

 遊女八千代が噂 羇旅漫録(瀧沢馬琴)(甲斐の伝説と民話『日本随筆』より抜粋) 

 

八の宮は、遊女八千代にふかく契りたまへり。日夜をかきらず、放蕩その度に過ぎたれば。その頃の所司台板倉侯。屡々諫言すといへども。もちひたわず。板倉止むことを得ず。若干金を以て八千代を身請けし。この八の宮の献じ。しかし後八の宮を配流せらる。則ち八千代もともに配所に至らしむ。こゝをもて八千代が名。吉野より高し。    

【註】直輔親王は、後陽成帝第八皇子、幼くして智恩院に入らせたまひ、元和元年、徳川家康猶子として、同き五年剃髪、名を貞純と改め給ふ。寛永二十年、甲州天目山に配流せられしとき、
 ふるゆきも この山里はこゝろせよ 竹の園生の すゑたわむ世に
万治二年帰洛し給ひ、帰属して以心庵と號し、北野に住わび給ひ、寛文九年八月御年六十六にして、薨し給ふ。(橋本肥後守経亮話)  
【追考】甲州一円は夏ほとゝぎす啼ず。かの国の人の説に。八宮甲州にましましけるとき。
 なけばきく ばきけは都のなつかしき 此里すぎよ 山ほとゝぎす  
これより杜鵑なかずといふ。(実兄羅文の話)程へて八の宮帰洛したまひぬ。 
 

近世宮門跡の文事

─知恩院宮良純法親王を中心に
文化科学研究科・日本文学研究専攻 大内瑞恵氏著
 
初代知恩院宮として知られる良純親王は、後陽成天皇の第8皇子として慶長8(1603)年に生まれ、寛文9(1669)年に没した。母は庭田氏の典侍具子。八宮と称され、親王宣下ののち徳川家康の猶子となり、得度して良純入道親王となった。
この良純親王の生きた時代である江戸初期は、京の朝廷では兄である後水尾天皇を中心とした寛永文化が花開いた。いっぽう江戸では家康・家忠・家光らを中心とする徳川幕府による政権が確立されていった。武家諸法度のみならず、公家諸法度などが制定され、江戸と京との間では政治的かけひきが常に行
われていったが、その最中、良純親王は甲斐に配流される。その理由については諸説あるが、当時の公家日記などによると島原の遊郭通いが原因であったかと考えられる。京都所司代、板倉重宗により決定されたようである。
この顛末は後に、曲亭馬琴の紀行文『羇旅漫録』に記される。後陽成天皇の八宮である良純親王が、遊女八千代に馴染み、放蕩が過ぎたため所司代板倉侯が八千代を身請け、八宮に献上した上で甲州に配流したということで、烏丸光広の遊郭通いと並んで江戸初期の公家の風俗について記した条とともに語
られる。
ただし、八宮良純の場合は、甲州における和歌伝承がともなうという特徴がある。
 なけばきく きけば昔のなつかしき 此里過ぎよ 山ほととぎす
この歌を良純親王が詠み、そのために甲州では山ほととぎすが鳴かないという伝承である。
しかし、この歌の作者として伝承されるのは良純親王だけではない。そもそも、この伝承歌は世阿弥の『金島書』では京極為兼が佐渡で詠んだ歌とされている。それだけではない。『佐渡国風土記』などの佐渡の地誌では順徳院の歌とされている。この歌は和歌集などにはいっさい採集されないまま、中世の説話・近世の随筆などに歌徳説話として記されている。結果として、讃岐の崇徳院・隠岐の後鳥羽院・佐渡の順徳院・佐渡の京極為兼・土佐の尊良親王が詠んだ歌として広まっていたことになる。
そして、近世に入って甲斐の良純親王の詠んだ歌として荻生徂徠から馬琴に至るまでさまざまな人々が書き記していった。やがて、昭和13年には朝廷と幕府との軋轢の結果の配流としてその母が顕彰されるという解釈にまで変化する。こういう伝承の存在の一方で、良純親王の書は各地に散在している。屋代弘賢、石野広道など江戸期の国学者たちは積極的に書物を集めているが、その際に「佐渡の良純親王の書」という書物を手に入れている。これらの誤解は前述の伝承を知っていなければ理解できないことであろう。
では、このような伝承をもつ良純親王の実像はいかなるものであり、文化史的にはどのような存在であったか。良純親王の歌は少ないが朝廷で行われる御会には参加している。現在整理中の高松宮家伝来禁裏本の御会集によってようやくそれらを見付けえた。
また、良純親王は生白堂行風編『古今夷曲集』を宮中に紹介したとされ『後撰夷曲集』には八宮御方としてその狂歌が巻頭におかれている。この狂歌集は出版された江戸期上方狂歌の嚆矢であり、その後の狂歌の流行に多大な影響を与えている。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 3088

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>