不幸な誤解をされる篤学の文治官僚 柳沢出羽守吉保
『街道物語16 甲州街道』三昧社
江戸時代の出世頭は五代将軍綱吉の側用人柳沢吉保であろう。史上でも巷間でも悪評高い人だが、その実像は忠臣蔵の吉良上野介同様、ゆがめられ、作られた点が多いのである。
驚くべき出世ぶり
世襲制度が確立した、しかも太平の世で武士が昇進するのは並大抵のことではなかった。現代のサラリーマンが、努力によっては役員社長の座に坐れるほどの可能性もなかったのが江戸時代である。そうしたなかで、五百石から身を
おこし、甲府十五万石の大名にまでなった柳沢吉保は、異色の出世ぶりであり、そこに色眼鏡で見られる余地が生じるのである。その点、有名芸能人が、有名税という妙な鞭で叩きのめされるのに似ているが、それにしても吉保について回った悪評は根が深く、忠臣蔵の悪役、吉良上野介義央が、ぼつぼつ名君だったと取沙汰されはじめているのをよそに、あいかわらず、吉保より後の田沼意次と二人、悪者の代表のように言われるのは酷に過ぎよう。
吉保の評価がゆがめられてしまった理由は二つある。
その一つは、本人の才能手段は別にして、昇進速度があまりにも早いところから起きた嫉妬半分のもの。またそれを生んだ制度も無視できない。
第二は、意外なことだが第一級の学者新井白石の、この件に関してだけ大ゲサに言えば〝曲学阿世〟ぶりにある。
吉保の昇進速度はたしかに異常なほど早い。
簡単明瞭に年齢、加増高(カツコ内)、合計だけを列記してみよう。
18歳(家督相続)五三〇石
24歳(三百増)八三〇石
26歳(二百増)一、〇三〇石
29歳(二千増)三、〇三〇石
31歳(一万増)一三、〇三〇石
33歳(二万増)三三、〇三〇石
35歳(三万増)六三、〇三〇石
37歳(一万増)七三、〇三〇石
40歳(二万増)九三、〇三〇石
45歳(二万増)一一三、〇三〇石
47歳(三万九千増)一五二、二〇〇余石。
と、こうなる。数字だけ見た限りでは、二十六歳から三十五歳までの九年間で、倍増三回で六万一千石の大加増をうけている。このあたりに同僚や世の嫉妬を買う理由がひそんでいそうなので、つぎに加増理由をさぐってみよう。
まず二十六歳のときの二百石は、前年正月におこなった「大学」の講義が、学問好きの綱吉の目にかなったのではないか。「大学」は帝王学の一つであり、おなじ講義するにしても、そのあたりに吉保の眼の確かさが感じられる。吉保
の講義はそのまま恒例となり、二十六歳の正月十一日に加増をうけているのである。
二十九歳の二千石は、前年十二月十日、二十四歳からなっていた小納戸役の、上席に昇進したためと思われる。このとき〝中奥休息の間〟新造の事務主任を命じられ、十一月に完成して褒賞された。三十一歳の一万石は、十一月の側用人登用対して十二月に行なわれたもの。
側用人は将軍と閣老の間の事務連絡をする役目で、いまの内閣官房と似ており、大名から選ばれた。設けられたのは、吉保がなった四年前の貞享元年(一六八四)に、大老の堀田正俊が若年寄の稲葉正休に、将軍出座室の近くで刺殺されるという、江戸城内刃傷事件第一号が起きたため、閣老の詰め所を離す代わりにおかれたもの。
一万石の加増は大増額だが、側用人は大名がなる規定だからこうなろう。ここで吉保ははじめて諸侯の仲間入りし、若年寄の上席、つまり閣僚格となった点は、いまの官房長官が国務大臣であるのと似ている。だがおなじ諸侯、大名ではあっても吉保には持城がない。
三十三歳の二万石は、この当時首席側用人には牧野成貞、先に任に喜多見重政がいたが、前年九月に重政が解任されているので、牧野との釣合い上加増したものと思われる。
三十五歳の三万石は、政治上の理由としては見当らないが、元禄五年(一六九二)のこのころの綱吉と吉保は、ぴったり呼吸の合った主従であった。
綱吉は歴代徳川将軍家にあって、ずば抜けた学才のある人で、すべてにそれが優先した。
牧野成貞や吉保邸を頻繁に訪れたのも、単に寵臣だからというのではなく、趣味としての学論を交わすためと思われるフシがある。
屋敷をおとずれた綱吉は、当の成員や吉保はもとより、その家の儒者に進講させたが、驚くべきことは、第一番目の講義は綱吉自身が行なうのが常であった。
牧野邸へ三十二回、吉保邸へは五十八回におよぶ〝お成り〟は、じつは学問好き同士の集会的性格がつよかったのである。
諸侯から、
「学問においては、古今無二の将軍……」
と評価され、まったくの下戸だった綱吉と吉保は、学問上も師弟であり、師が信頼する愛弟子に目をかけるのは当然であったろう。
ついで三十七歳のとき、吉保は武州川越城主となり、はじめて城持大名の一人となった。
なお一説によれば、吉保が綱吉にみとめられたきっかけは、先に触れた、吉保二十七歳のときの殿中刃傷事件のとき、側用人の牧野成貞が帯刀のまま、将軍に言上のため奥へ通ろうとしたのを、吉保が注意して刀をはずさせたことこよるというが、翌年小網戸上席に昇進、以後のスピードをみても、あるいはあたっているかもしれない。
甲斐の在地武士柳沢氏
吉保は土着の甲斐人である。
柳沢氏の古くは甲斐源氏の支族武川衆の出である。本拠を巨摩郡の一角武川地境に置く武士団で、一族からは信玄時代の勇将馬場氏でているが、十三氏からなる血族的結束はきわめて固く、それにともなう強力な戦闘力を信玄から評価され、信玄の実弟左馬助信繁(川中島で戦死)・信豊に所属してはなばなしい武功を立てている。
(註、この武田時代の武川衆の結束は歴史資料にはあまり見られず、徳川時代になってからの事績が多い)
柳沢氏は武川衆の一つ青木氏からの分流で、巨摩郡武川筋柳沢が発祥地である。武田氏滅亡ののち、武川衆の武勇を知っていた家康は一族を招くことにしたが、柳沢の当主信俊が一族をまとめてそれに応じた。(註、これは間違い)信俊らはそのころ家康と甲斐をめぐって争っていた、北条氏直の大軍を激戦のすえに撃破、その功績によって旧領安堵の上、新たな恩恵をうけた。
信俊の子安忠は徳川忠長につかえたが、一時浪人したあと館林藩主だった徳川綱吉に百六十石、ほかに役料三百七十俵、勘定頭としてつかえた。
吉保はこの安息の五男(?)に生まれたのだが、父の持っていた算勘の血をうけつぎ、綱吉の小姓をつとめたあと、会計担当である小納戸役についた。これが吉保の官僚としてのスタートであると同時に、悪評を浴びるスタートでもあったのである。
小納戸役、つまりいまでいえば大蔵官僚的立場は、とかく非難の的になりやすい。まして、まだ後世のように、幕府そのものが官僚体制をもっていなかった時期だったから、数理に明るい若手官僚は噂のタネになったろうし、財政経済に暗い僚吏たちからは、意味もなく白眼視されたことであろう。そのことは、同じ時代、赤穂藩の財務担当家老の大野九郎兵衛が、番方、つまり軍政担当の大石良雄の引立て役にされてしまっているのと同様、まだまだ、金銭をいじる武士、というよりはいじれる武士が珍しかっただけに、誤解されやすかったのである。
吉保の官僚としての本質は、おそらく幕閣最初の経済閣僚だったと思われる。上にいただく将軍綱吉が、先にも触れたとおり、武人である以前に文人、ないしは学究人であったため、体制上吉保の才能はきわめて重要であり、加えて吉保は綱吉の好む学徒でもあってみれば、そこには自然に、師弟愛とは別に、官僚吉保への信頼が生まれたであろう。
側用人の役目は、
将軍のほとんど全生活にわたるものであり、とても普通の才能ではつとまるものではない。純粋の官僚では、とくに綱吉のような、学識も一家言もある将軍が相手ではおそらく一年はおろか、半年とはつづかないであろう。
すぐれた行政能力と、絶対的封建君主将軍の意にそう能力、この場合、綱吉には単なる阿訣、おべっかだけではおそらく通用しまい。その至難の職務を、側用人になってからでも、通算三十二年間仕えられたというのは、吉保が恵林寺境内にある柳沢吉保廟いかに非凡の人であったかを物語っている。
後世はもちろん、当時の人たちも吉保を指弾した行政に元禄改鋳がある。これによって、慶長大判に代表される金貨の金含有率八四パーセント以上だったものが、五七パーセント台に下落しはしたが、家康時代、全国保有金の三分の一近くを占めていた幕府財産も、家光、四代家綱の二代によって天文学的数字の流出がおこなわれ、幕府経済は早くも破綻寸前の状況にあったのである。
当時の経済機構からいえば、幕府経済の破壊はそのまま武士社会に一大恐慌をおこし、ひいては町人経済を巻き込み、いまでは想像もつかない社会混乱を招いたことであろう。消費経済が先行し、生産経済はあいかわらず米産を基幹とした機構にあっては、生産力を高めて国内需要を広めるなどといった、今日的な発想は行なうべくもなく、消極策といわれようとも、通貨の改鋳にまさるカンフル剤はなかったといっていいのである。
この政策は吉保と、吉保以上に悪評高いパートナー萩原重秀によって断行された。その結果はインフレを呼び、庶民は物価高に泣かされたが、日本経済を破綻から救ったことも事実であり、この時代の経済動向を、今日の経済理論を尺度に回答を求めることは無理である。
もう一つ吉保が非難されるものに、綱吉が強力に推進、というより個人的発想から独走してしまった、例の「生類憐み令」がある。たしかに徳川治制下にあって、これほどバカげた悪法はほかにない。学問と信仰が不可分な関係におかれつつあった当時、綱吉の信念がここに到達してしまったのは、閣老はもとより、日本国民全体の不幸であった。
文治政治の先覚者として、かなりの評価をうける綱吉だが、それらに優先してこの悪法が論議され、ついにはコンマ以下の採点になりかねないとすれば、それが信念であっただけに、同情的にいえば、この法令下の日本人は、綱吉も含めて不幸のどん底にあったといえよう。
不幸といえば、吉備と綱吉の不幸は、ほぼ同時代に新井白石という、まことに生一本な、それでいてズバ抜けた学才をもつ学者を持ったことである。
綱吉と吉保が重用した学者に荻生徂徠がいたように、白石は次期六代将軍家宣のブレーンの一人である。
この時代、学者も医者も、さらに僧侶も、それぞれの地方(国)で、そこの最高権力者の保護を受けようとするのが普通であった。それを受けようとしない、いさぎよい伝記もあるが、それらのほとんどは稗史の伝えるところであって、第二 そうでなくては経済的に成り立たなかったのである。
白石の業績にはすぐれたものが数多くある。だが家宣のブレーンとしての第一の仕事は、いかに新将軍が名君であるかを一般にいかにアピールするかにあった。
その作業をするには、前将軍綱吉と、その側近吉保、萩原重秀、それに綱吉の生母桂昌院らは、嬉しくなるほどの素材を提供してくれていたのである。
白石ほどの論理性をもってすれば、この作業は至極簡単であったろう。
白石は、家宣がまだ甲府宰相綱豊と呼ばれていた時代から近侍し、将軍になってからは、従五位下筑後守に叙任され、政治顧問になった。ちなみに従五位下は武士の最下位で、いわゆる諸大夫である。
白石は、おりから増大してきた町人の経済力が政治的にも無視できないと考え、彼らから発すると予想される政治批判から、家宣政権を守るために、当時巷間でささやかれていた綱吉に対する〝犬公方〟の蔑称を逆用、それを公式に認める論説を発表、側近の吉保を痛撃したのである。この戦法は効を奏し、あわせて、家宣政権は、前将軍といえども、理非を率直に正すという印象を一般にあたえることにもなったのである。その意味では、白石は硬骨、清廉高邁な人格者の評価をうけたが、いまこうしてみると、それは白石のために、惜しむべきたった一つの汚点であった。
歴史とは、長い年月の間に、真実を掘りおこす凄まじいエネルギーをもつものなのである。