真田丸の戦略価値
日本放送出版協会 NHK『歴史への招待』7 桑田忠親氏著 一部加筆
真田丸構築の動機
東西が手切れとなり、大坂冬の陣が起きると、大坂方では軍議を開いて龍城作戦に決定し、城内にはさらに塁砦が築かれ、堀が掘削された。浪人組の真田幸村や後藤基次は、京都を占拠して宇治・瀬田に居陣し、遠征疲れの東軍を迎え撃つといった積極的な作戦を主張したけれど、大野治長を始め、大坂城の要害に絶対的信頼をおく豊臣家の首脳部は、籠城作戦を主張して譲らない。そこで、籠城作戦となると、真田や後藤も、城内に活躍の舞台を求めざるをえない。しかも、敵軍との遭遇の最も華々しい舞台を求めた。ところが、二人が共に、城南の平野口が手薄だから、敵軍は必ずこの方面に主力を寄せてくるに相違あるまいと、見きわめ、ここに出城を構築するようにと、大野に進言して、許された。
真田と後藤は、当然のことながら、平野口に築く出城を持ち場にしたいと主張して、たがいに一歩も譲らず、そのために両傑の間に葛藤が起こり、城内に流言さえ飛び始めた。真田幸村が城南にこだわるのは、東軍に加わっている兄真田信之と連絡を取って、敵兵を城内に導き入れるためだ、というのである。すると、後藤基次は、幸村が、城内にあるのを潔くとせず、一人、出丸に移って戦いを挑もうとするのは、そのような風評をたてる愚か者がいるためだ、と言って、平野口に出丸を構築することを、幸村に譲ってしまった。つまり、有名な大坂城の真田丸は、後藤基次の友誼的な雅量によって出来上がったのであった。
真田丸の規模と機能
幸村の構築した真田出丸の位置と規模については、『武徳編年集成』に次のように説明している。真田幸村は、おのれの武名を後代に遺そうと考えて、天王寺表に一郭を構えた。その形は新月に似ている。大坂城の総(惣)構えの外に出ること四十間、周囲に空堀をめぐらし、東西に長く、南北に短い。真田丸と自称して、他の軍勢を交じえず、真田隊だけで、ここを守備した、というのである。なお、『山口休庵咄』には、真田幸村は、どう思ったものか、玉造口御門(二之丸の西南の門)の南、東八町目の御門の東に、一段と高い畑があったのを、三方に空堀を掘り、塀を一重かけ、塀の向こうと、空堀の中と、堀ぎわとに、冊を三重に付け、所々に矢倉、井楼(せいろう)をあげ、塀の腕木の通りに、幅七尺の武者走り(通路)を作り、父子の人数五、六千ほどで固めた、と記している。これらの記述によって、由具田丸の規模が、だいたい想像できる。
この真田丸に拠る真田幸村への軍監としては、豊臣家から、伊木遠雄が派遣された。伊木は、かつて秀吉の黄母衣衆(使番)をつとめた人物であるから、関ケ原浪人ではあるが、年齢も五十歳くらいだし、軍監に選ばれたものとみえる。
なお、真田丸の図は、現在、大阪城天守閣に所蔵されているが、以上の諸記録の説明と合致する。今日の大阪市天王寺区南玉造町にある真田山公園が、幸村の築いた真田丸の遺蹟である。
真田丸による攻防戦
さて、東軍の総大将徳川家康は、慶長十九年(一六一四)の十一月十七日、摂津の住吉に到着し、ここを本営と定め、十八日、天王寺の南東にあたる茶臼山に登り、将軍秀忠と軍議を練った。そして、茶臼山を戦闘の指導するときの
本陣としている。
大坂城南の真田丸の前面には、加賀の前田利常が陣取った。そして、それから西へ続いて、井伊直孝、松平忠直(家康の孫)、伊達政宗の諸隊が、城の南側を包囲していた。
真田丸の前方に、小橋の篠山という小さな丘があり、そこへ、真田の軍兵が出てきて、前田隊に銃撃を加えた。そのため、毎日、数十人の死傷者が出た。そこで、前田の部将、奥村摂津守が、十一月三日のこと、兵を率い、秘かに篠山に押しよせ、鬨(とき)の声をあげたけれど、敵が一人もいる様子がない。驚き、あきれていると、真田丸の塀の上に一人の武士が上がり、
「いまの鬨の声は、鳥追いにでも来られたのか。今までは、雉子や兎も少しはいたが、寄せ手の大軍が余り騒々しいので、みなどこかへ逃げ去り、いまは一匹一羽もいない。だから、引き取られるがよかろう。が、このままでは、余りにも退屈だろうから、気慰みに、この出丸を攻めてみなされ。この出丸を固めているのは、信州上田の住人真田安芸守の次男左衡門佐幸村と申す浪人者である。大袈裟な備えもないが、田舎の斧鍛冶に鍛えさせた矢の根を少々用意しているから、各々の重代の物具の実を試してみられては、いかが……」
と、呼びかけて、寄せ手を散々に愚弄したのである。
これを聞いた奥村隊は、大いに怒り、真田丸の前の空堀にとびこみ、柵を破ろうとした。すると、城内からは、弓矢や銃弾を雨露と撃ち出し、奥村の兵士がうろたえ騒ぐのを見て、
「信濃山家の狩人が、維子狩にて、かくこそ撃て、猪狩にて、とうこそ撃て」と、はやしたてた。東軍の他の部隊の寄せ手も、これを聞いて、どっと、打ち笑った。奥村摂津守心、くやしさに歯ぎしりしたが、進むに進めず、いのちからがら自分の陣屋に引きあげた。そこで、立腹した前田利常は、奥村を処罰したという。この話は、真田旧子爵家に伝わる『列祖成蹟』や『幸村君伝記』にも見えているが、『真田幸村』の著者、小林計一郎氏によれば、幸村の功名談として、のちに作り加えられた話かもしれない、とのことである。
奥村隊の失敗を知った前田利常の先鋒隊長の本多政重・富正たちは、なんとしてでも力づくで篠山を奪取しようと決意し、十一月三日の夜半に起き、四日の早朝、篠山に攻めのぼったが、やはり、敵兵が一人もいない。そこで、そのまま真田丸の堀際へ押し寄せた。これを眺めた前田の諸隊は、
「さては本多隊に先駆されたか」
と、われ先にと、城際へ押し寄せていった。すると、真田丸からは、弓矢や銃弾で一斉に反撃してきた。ところが、このとき、はからずも、真田丸の西後方の城壁を守備する石川康勝の兵が、間違って、火薬桶の中に火縄を落したため、爆発を起こし、矢倉が焼け落ち、康勝も負傷してしまった。かねてから大坂城内に反応者が出る筈になっているのを知っていた寄せ手の東軍部隊は、
「さては、反応者が城に放火したぞ」
と、勘ちがえし、松平息直、井伊、藤堂諸隊が、われ先にと、城ぎわに押しよせ、楯や竹束の用意もせずに、ひしめき、混乱しているところを、城壁から真田隊に一斉に射撃されたから、死傷者が続出した。そこへ、真田丸の東の木戸を開いて、真田大助(幸村の子)と伊木達雄が、五百の軍兵を引き連れ、鬨の声をあげて出撃してきた。そのため、寄せ手は散々な損害を受けた。そのうち、城内からの合図と同時に、真田隊は一斉に真田丸に引きあげてしまったのである。その駆け引きの見事さには、さすがの東軍も舌を巻いたと、『幸村君伝記』に書いている。
徳川秀忠は、十一月四日の朝、摂津の平野から岡山に陣を進めたが、そこで、松平忠直隊が苦戦しているという報告を受け、ただちに撤退を命じた。しかし空堀の間へはいった松平の兵士は、堀を這い上がって逃げようとするところを撃たれるので、たがいに隣の隊の動きを見ながら容易に退却しようとしない。が、撤退を命ずる上使が、なんども来るので、仕方がなく、撃たれながらも退却したと、『大坂御陣之事』に記述している。
家康は、その日の昼すぎ、茶臼山に進み、そこで、本多富正らから、本日(十一月四日)の戦況について報告を受けた。若武者たちがはやりすぎたのと、自分らの指揮のあやまちで、不覚をとったというのである。家康は、本多らの軽挙を叱責したが、それから、藤堂隊の陣所を視察して、住吉に帰ったと、『駿府記』にある。
この日の戦いについては、『孝亮宿称日次記 たかすけのすくねひなみのき』に、
「去る十一月四日、大坂表で城攻めがあった。越前少将(松平忠直)の軍勢四百八十騎、松平筑前(前田利常)の兵士三吉騎が討死した。そのほか、雑兵の死者はその数を知らない」
と、記している。京都の公家たちの間でも、東軍が真田丸に攻めかけて、敗北したことが、評判となっていたことがわかる。
この戦いは、大坂方の勝利であった。そして、その功名の第一人者は、真田丸の主将、真田幸村であった。
幸村の戦術の特徴
真田は、徳川の軍勢を二度までも、その居城で破っている。天正十三年(一五八五)八月の家康の上田攻めのときは、幸村の父昌幸の働きであったが、幸村自身が奮戦した慶長五年(一六〇〇)九月の戦いでも、徳川秀忠の大軍を上田城の壁際へ誘いこんで、銃撃を加えたのである。このときは、敗戦の責任を負わされた大久保隊の旗奉行が、切腹させられている。軍令を犯して、城際に殺到して、大損害をこうむったという点では、上田城攻めと、大坂城の真田丸攻めとは、実によく似ている。幸村の戦術としては、自ら進んで、最も攻撃を受けやすい地点に、出丸を築き、自らこれを守り、敵兵を城際近く引きつけておいて、これを銃撃した。だから、慶長十九年十二月四日の大坂冬の陣当初の幸村の勝利は、計画どおりの会心の戦勝といってよかったのである。なお、そのうえ、城方の石川康勝隊が火薬箱を爆発させるといった大事故を起こしたことが、かえって、怪我の功名となったのである。
また、『鉄砲茶話』によると、真田丸の兵士が射撃が上手だったのは、真田昌幸・幸村父子が紀州の九度山へ移ったときから、大坂と徳川との戦いのあることを予期し、吉野川の釣りだとか、山狩だとかいって、近くの猟師数十人と懇意になり、それらを引き連れて大坂に入城したからであるという。
真田出丸の戦略的価値
真田幸村は、難攻不落といわれた秀吉自慢の名城大坂にも、南側の防衛に重大な弱点があることを見抜いていた。つまり、東北西の三面は海や川などが自然の障碍物となっていたため、大坂城を攻め落とすためには、徳川方の大軍が自由に活動できる南の一面しかない。したがって、この南面に出丸を築いて寄せ手の攻撃を防ぐことは、最も危険ではあるが、それだけに、最も派手な決戦ができることであり、華々しい戦功をあげるには、これにまさる持ち場はない。幸村は、そうした戦略的な価値を認めて、ここに女臭田の出丸を構築したのであった。(国学院大学名誉教授)