北杜市明野町 浅尾の湯の話
『水と先人の知恵』ふるさと明野をつづるシリーズ 「第一巻暮らしと水」平成10年刊 一部加筆
昭和四一年発行の国土地理院の五万分の一地図の「韮崎」を広げると、浅尾と表示されている五ミリくらい下に、温泉マークがあった。当時の地図は、横書き文字は右から左へと表示されていた。
大正年代の地図には全く表示されていないので、昭和になって温泉が湧き出したか、と思われがちであるが、ここには明治以前から鉱泉がけ湧出していた。
戦中・終戦直後の地図に表れているということは、かつてその地で営業をしていたということから、当時の海軍省で、将来の保養地として指定したので、地図上に表された。海軍省が解体されるということがなければ、或いは今ごろは、観光地として賑わっていたかもしれない、夢のはなしである。
大正四年に発刊され、昭和五一年に再刊された「北巨摩郡誌」の朝神村の欄に、次のように掲載されている。
温泉
湯澤の湯 浅尾に在り、温度七一度、反應中性にして炭酸、格魯兒、硫酸、石灰、苦土、加里那篤倫、硫化水素を含有し、慢性皮膚病、慢性湿疹、疥廨等に特効あり、数年前迄は浴場の設ありしも、今は廃絶して、只薮中に自然の湧出に任せ、村人の汲取るに任せつゝあり。
源泉はその南へ約三〇メートル上ると、一平方メートルの湯壷がある。石で囲い西面の平たい石の上には何時も茶碗が伏せて置いてある。
所在地は浅尾字湯沢三、三九四番地である。湯沢川を朝穂堰が跨ぐ箱樋の上、約百米の左岸に川番地-二の敷地跡がある。現在は砂防の堰堤が築かれているが、一〇四平方メートルの平地がある。湯沢の地名もこの湯に起因しているのかも知れない。
昭和三〇年代は杓が置いてあることもあった。郡誌には温度七一度とあるが、当時は華氏で表示したので、摂氏二三度くらいとなるが、そんなに暖かくはなく、年中一〇度くらいで温度は変わらず、冬でも凍ることはなかった。
山の手入れにいったときは、薬水だと母にいわれ、家から水を持っていかなくて、その水をよく飲んだことを憶えている。今は山の手入れもしないので、跡地も湯壷も篠笹が密山果し、冬季以外は踏み入るのも困難である。
鉱泉は湯壷から下の方に沌み出し、湯沢川に入っている。昭和三五年にこの地に山火事があり、源泉が防火の働きをして、西側への延焼を免れたことがあった。
郡誌にも記載のとおり明治のいつ頃か定かではないが、湯宿を行なっていた。周囲にあまり施設がなかったので、宿泊としてだけでなく、飲食の場として結構繁盛していたらしい。それが近所から、風紀を乱すと非難され、廃業した一因である。さらに、宿の経営は上神取に実家があった人に任せていたが、家主は教育者でもあったので、非難が増幅されたようである。
当時では珍しい徽典館(山楽師範の前身)第一期卒業生で、卒業と同時に、若輩ながら穂足小学校長に赴任した。教育者と風俗営業者ということで、非難と、当人のジレンマとが重なり、一気に廃業へと進み、一方教師の方も退職した。その後、朝神村の村長をしているので、廃業したのは明治二〇年代と思われる。
旅館の建物は二階建で、その後、浅尾の中久保地区に移築され建っていた。木賃宿を思わせる風情の建物であった。昭和五〇年頃、その家は同じ場所に新築をするために取り壊された。
取り壊すと伝え聞いたので、当日の朝、写真を撮りに行ったが、既に外観の殆どが壊されていて、写真に残すことが出来なかった。
源泉はその後も近在の人に利用され、特に戦中・戦後の医薬品の欠乏しているときは、腫物に効能があると評判になり、多くの人が汲みに来た。当時は虫に刺されて化膿する人が多かったので、手桶を背負子につけて汲み、風呂をたてたということも聞いた。
当時を知っていた古老が、再興をと幾度となく相談にきたが、いつの間にか話題にものぼらなくなった。しかし、隠れた愛用者は今も居るらしく、昭和六〇年に炭を焼くため、宿の跡地に炭窯を作り、ブルドーザーで材料を運んだので、湯壷も壊されたが、その後、その利用者たちがきれいに整備したのであろう、湯壷は石に囲われ、今も源泉を貯えている。
平成八年春、村営の新しい温泉施設・太陽館が開業したので、浅尾の湯のことは語り種としても消えていくことと思っていた。ところが、かえって話題となり、その後「浅尾に湯があったのだってネ。どの辺~」とよく尋ねられるようになった。