Quantcast
Channel: 北杜市ふるさと歴史文学資料館 山口素堂資料室
Viewing all articles
Browse latest Browse all 3088

井戸掘り名人「ユズ」やん 北杜市明野町

$
0
0

井戸掘り名人「ユズ」やん 北杜市明野町

『水と先人の知恵』ふるさと明野をつづるシリーズ 「第一巻暮らしと水」平成10年刊 一部加筆
 
明野村原地内に、いつ頃から住みついたのかはっきりと覚えている人はいないが、「ユズ」やんという井戸掘りの名人がいた。
 その「ユズ」やんの長男が第二次世界大戦で戦死し、当時は名誉の戦死であるということで、葬儀を小笠原村で行った。村葬という形式で、小学校の校庭で行われた。このことは現在でも覚えている人は大勢いる。
 この井戸掘一筋に生きた通称ユズやんの正式の名前や、どこで生まれ、どうして原に借家住まいをするようになったのか、子どもは戦死した長男一人なのか、いろいろ調べたが知っている人はいない。
 住居は現在の原簡易郵便局の敷地の中にあった。粗末な木造の物置を改造したもので、奥行が二間、間口が四間くらいで、人口も板戸で開きになっており、鍵などは勿論無いが、中から針金で板戸を柱の釘に巻きつけるようになっていた。土間の奥にはカマドがあった。カマドは石で三方を囲み、火気が外へ逃げないように、泥で全体を塗り固めたものであり、天井からは自在鈎が釣り下がって、真っ黒いヤカンが懸かっていた。そのカマドの側には、仕事からの帰りに拾ったり、山から採ってきた薪らしいものが置いてあった。また本人がいつも居るところは板の間となっていて、茣蓙を敷いてその上に薄い座布団が一枚あり、その周囲には飯喰い茶碗や酒の一升瓶などが無造作に置かれていた。物置なので天井は張ってなかったし、窓らしきものも無かった。
電気はなくランプ生活であったが、昼間も雨の降ったときはたいへん暗かったことが印象に残っている。
 さて井戸掘りの仕事であるが、道具を担いでゆくのを見ると、先ず夏は紺の股引に、上半身は素肌の上に直接腹掛けをつけて、頭には萱笠を被り、素足に草鞋履き、そして首には、俗にいう醤油で煮染めたような、いつ洗濯をしたのかも判らないような手拭を巻いていたのを覚えている。小真面目で余り口をきかない性格で、一生
懸命仕事をしたので、飲用水の尊い小笠原地区では井戸掘りは勿論、井戸替えなども引っ張りダコであった。
 冬は余り仕事をしなかったようで、井戸掘り用の道具の手入れなどをしたり、山仕事の手伝いとか、「ユズ」やん専用の特殊の鍬を使って、人力で桑の根をこぐ仕事などで生活費を稼いでいた。
 「ユズ」やんは、おとなしいので、人と話をすることもなく、孤独な生活で好きな酒を飲めば、ゴロリとどこででも寝てしまうという風なこともあり、年をとってのヤモメ暮らしは大変だったと思う。
井戸掘りの仕事に熱中していた頃の「ユズ」やんは、五〇歳から六〇歳台の前半ではなかったかと思う。そのユズやんの頭の真ん中に盃くらいのへこんだ傷跡があり、これを見つけた子ども達は「ユズやんの頭には盃がある…」と仕事帰りの「ユズ」やんをよく囃し立てたのであったが、知らん顔の「ユズ」やんだった。
 晩年の「ユズ」やんは、簡易水道の普及などにより井戸掘の仕事もなくなり、外に出る機会も減り、家に閉じこもり、酒ばかり飲むようになったようである。
昭和二〇年の終戦の年には元気だったユズやんも、まもなく体調を崩し、入院することもなく、長年住み慣れた家で息を引き取ったという。
 その後いろいろ調べたり、人の話を聞いたところ、ユズやんの生家は上手地内の小袖地域であったらしいということが判った。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 3088

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>