牧原と柳沢
『甲州街道』中西慶爾氏著 昭和47年 木耳社 一部加筆
牧の原といえば、直ちに思い出されるのは、昭和三十四年(一九六一)八月の台風七号である。十四日の朝富士川河口にまともに上陸した台風七号は、釜無川に沿って荒れ、信州へと抜けたが、通過したあとが大変で、大武川の上流で崩壊した土砂が一時に崩れて、まるで五間ほどの褐色の壁のような濁流が、一時にドッと押しかぶさって来たのだからたまらない。牧の原は一挙に呑み込まれて、一瞬にして川底のようになってしまった。無惨酸鼻などというも、とうてい言い及ばない情景だった。死者九十余人、重軽傷者九百人余りに達したという。
しかし、まだ十年そこそこなのに、みごとに復興した。道路も橋も堤防もすべて新しく頑丈なものと代り、人々もかつての表情をかなぐり捨て、元気いっぱいの笑顔である。
この大武川を少し遡って行くと、柳沢という山村がある。柳沢吉保家のふるさとだという。しかしその屋敷跡というあたりは田になっていて、何ものも残っていない。
柳沢吉保は微賤から身を起して、大老職にまでよじのぼり、天下の政権を左右した実力者であるが、何にしても成り上りもので、犬公方徳川綱吉を牛耳ってああいう馬鹿々々しい脱線振りを演じさせ、かたがたして失政も少なくなく、今の映画や小説ではすっかり悪者に仕立てられているが、しかし甲州にとっては数うべき善政が多く、なかなかの評判だった。
宝永元年(一七〇四)甲府城十五万一千二百石余の譜代大名としてふるさとに錦を飾ったのだから、勢いこんで大いに張りきったわけである。
彼はいろいろと新政策を打ち出し、特に江戸風の文化を導入して、甲州人に大いに満足感を与えた。だが勢いのおもむくところ、人々はえてして享楽面に走りがちで、やがて類廃の淵へと転落して行く素因ともなった。吉保の招きで入峡した荻生徂徠は、藩政のあり方について何かと諮問に応えていたが、他面では艶名を流した。葛飾北斎や初代広重をはじめ多数の浮世絵師、市川団十郎などの歌舞伎役者がぞくぞく入峡して華やかな雰囲気をふりまく。各町では競って浮世絵師をよんで、町を飾る幔幕を描かせた。宝暦二年(一七五二)の序ある「裏見寒話」は当時の甲府の類唐たる有様をことこまかに伝えているし、広重の「卯月日日の記」は如何に華々しく
歓待されたかを詳しく書きとめている。だがこれが一時のあだ花であったことは、ことの成り行き上いたし方ないことであった。
荻生徂徠は、招いてくれた殿様のふる里だとあっては訪ねないわけにもゆかず、はるばる柳沢へもやって来て、次のように誌している。
行至柳沢村、口有星山故城、左側麦田中、挿竹表識処、謂是使君田庄、其西十歩許、
昔時有大柳樹、是邑所名者、已枯矣。
まあまあ適当に書いている、といった感じである。しかしこういった風景も今は見られない。
大柳も柳沢もすでに枯れ果てて久しい。
縁で添うとも、縁で添うとも、
柳沢は嫌だよ。
おな(女)が木をきる
おなか木をきる。
萱を刈るションガイネ。
この縁古節は、柳沢といっても柳沢吉保とは関係ない。日がな一日労働においかけられた山村辺地の女の哀調である。溜め息を聞くようだ。
このへんでとれる米は非常に良質だった。「武川米」といえば、今でも江戸の鮨屋などはよく知っている。